4人の子供を抱えて 生活を支える為に働いていた妹
そのころの妹は 肝っ玉母さんのようであった
愚痴などは聴いたことが無い 明るい性格で周りからも好かれている
私と一番気の合う兄妹 暇が出来たらぶらりと車を走らせて行き 他愛ない話をして帰る
誰にも話せない私ごとも 妹に話して理解を求め 共感を得てホッとする時もある
小学校低学年の時の 極限の貧しい時代 食べるものもなく栄養失調に陥っていたころがある
父は出稼ぎに行って 私にはもう会えなくなると諦めたほど私は痩せ衰えていたそうである
同じような妹と ある晴れた日 空を見ていたら 二人とも幻覚に襲われた
見るもの全て怪しく流れたり異様な色彩の連続 輪郭のはっきりしない生き物などが襲う
母にすがっていてもまだ襲う 母も手を付けるすべも知らず 二人の手をひいて村の寺へ行った
いつの間にか幻覚は消えて行った 成長してから 母もともすると 幻覚へ迷い込みそうだったと語る
そんな二人の思い出などを語りあうこと 他人に話しても信じては貰えないだろう
私と同じように歌が好きだった 二人で抒情歌なども歌ったりしたものである
だが いつの間にか 彼女はカラオケ教室へ通うようになった
演歌の世界は私とは離れたもので 決して 良いねとは思えない時期があった
それが めきめきと上達して 出場する大会で グランプリを何度も受けるようになる
いつしか私も 演歌も好きになって行き 大会のたびに応援に行った
結果は最終であり その前に帰る 優勝したよの嬉しそうな声が 翌日電話の向こうで弾んでいる
6年前 思い出も薄れ かすかな記憶の田舎 行ってみたいと言う
私も信州・高遠の山奥 車で行けるが 家の合った場所まではわからない
兄は記憶していると言うので誘い 3人で60数年前のふるさとを訪ねた
この林の奥が家の有ったところ 指差した先はゴルフ場の片隅だった
ここに埴生の宿があった ようやく雨風を凌げる屋根 隙間だらけの家は冬は雪が舞い込んで積る
空腹のときは 雪にしょうゆをかけて食べた こおろぎも 桑の葉も つつじの花も食べた
斜面の奥に家があり 月夜の晩のある日 外で歌を歌ったそうだ
母に聴いたことがある その声が下の村に聞こえて行って 翌日 村の話題になったよと言う
そうか ここが私たちの居たところ かすかな記憶と重なる 感慨がひとしおだった
田舎を訪ねた帰りに3人で・・諏訪湖SA
田舎へ行った3年くらいあとから 妹の目が急速に衰えていった
昨年などは 歩いていても信号が判断できない 見る世界がすべて歪んで見えるという
それでも好きなカラオケ 歌詞が読めないから 1番だけ歌うものを選曲して申し込んでいた
こんな時でも 人生を嘆いたり 目の見えない嘆きを口にはしていなかった
2.3度 車で房総など連れて行ったことがある 目が見えないではどうしようか思っていたのが昨年夏
9月になって 突然 義弟から電話 妹が急逝した 俄かには信じられないことだった
亡くなる寸前まで 近所の方と元気に話していたとのこと
遺体のある部屋にカレンダーがある 先の予定にカラオケ大会出場の大きな〇印が記入してあった
たまたま車に積んである キーボードを持ってきて 枕もとで私が演奏した
母や父 姉 弟 何回となく歌った讃美歌としての 真白き富士の根 である
聴こえるかい? お前一人に聴かせるからね
告別式では 歳甲斐もなく 号泣してしまった 母の時でも涙だけだったのに・・・
私のうたごえバスにも3人で参加した あざみの歌の八島湿原
昨日は 一周忌法要 車で埼玉まで行った
なんだか まだ他人事のように思える
部屋の妹の写真は 今にも私に語りかけそうだ 一緒に歌いたいね・・と
最後までお読みくださいまして有難うございました m(_ _)m
そうでしたか、妹さん、唄がお好きだったのですね。
ご遺体の傍で演奏されたのびたさんの姿が目に浮かぶようです。
ご立派な体格の妹さんでいらしたのですね。
私の母もこんな感じの体格の良い人でした。
父よりも大きく。
その母が33歳の若さで私たちを残し逝ってしまった時、
私と弟で母の遺体の傍で寝たことを思い出しました。
のびたさん、妹さんとの素敵な思い出が一杯あって佳いですね。
仲の良かった妹さんが亡くなられて、いつまでも
寂しさが残ると思いますが、楽しかった思い出が
沢山あるのは幸せなことだと思います。
天国でいつものびたさんを見守っていて
下さいますよ。元気を出してください。
眼下に素晴らしい景色が広がる 諏訪湖SAでの写真で
体格の良い妹さんは若々しいです。 妹さんは歌が上手
だったのですね。目が見えないとは糖尿病を患ったということですか?
急逝したとの知らせは驚かれたことでしょう こうやって
仲の良かった兄ののびたさんが 在りし日の妹さんを
偲んであげることが 何よりの供養になると思います。
こうして妹さんを忍んで書いておかれるのも、いい記録ですね。妹さんにお子さんがおられるなら、法要の折プリントして差し上げられるといいですね。
私の兄は(86歳)ことあるごとに、兄弟の子どもや孫たちに、若かりし頃、おさない時の
(貧しい暮らしで育ったことなど)をプリントして法要の席で配り話します。
孫たちなど感動して『お婆ちゃんはこんな立派な人だったんだ」と 感銘を受けています。
本とに仲のいい妹様と
別れてしまってとても悲しかったのですね;;
まだ私は家族と死別してしまった
ことがないのですが、想像するに
あまりあります;;
きっとあちらでのびたさんの活動を
応援していらっしゃいますよ・・。
心はつながっています、のびたさん
大丈夫ですよ・・。
お盆に成ると..色々な思い出を語りまずか..。
一周忌ですか..寂しい..お盆でしたね。
妹さんとの思いで..良く話して下さいました.。お祈りします
やはり..♬ 歌が好きだったのですね. 演歌も..。
忍んであげて下さい 見守っていますよ。
感動しました。
言い表せないほどの悲しみですね、
亡く成られて一年目くらいは悲しみも
一入だと思います。ご冥福をお祈りいたします。
のびたさんも八島湿原は特別な所なんですね、
私も初めての時は親友と行きました、
その親友がある日突然帰らぬ人となりました。
思い出深い所です。
妹さんは きっと見ていてくれましたね
寂しさは どんなこと 誰かでも埋めることは出来ないですが
心で思うこと 皆で集まって思い出してお話をすることがご供養になりますね
今の のびたさんの優しさは 幼い時からのご苦労から 皆さんに優しく出来るのですね
妹さんは いつも一緒に歌ていますよ!
そう思いながら読みすすめていたのですが
妹さんのお写真を拝見したら
「わたしも八島湿原を散策すればよかった~」
「車山湿原コースは大変でした~」って。。
ほんの3日前にこの場所を訪れたばかりです。
ホント、なんでも優しく聞いてくれそうなんですもの
きょうは、のびたさんじゃなくて妹さんにお話ししたくなました。
きっと笑って聞いてくださっているような気がします。
朝から暗い記事ですみません
突然の知らせに飛んでいきました
それは眠っているようでした 車にはキーボードが積んであり あの世への旅立ちに演奏する気になりました
お母さまが33歳の若さで・・・絶句です
そのあとの寂しい思いと ご苦労も大変だったでしょう