ハグハグの日々 Ⅳ  ~ 南日本海人、ライダー変身

ご訪問有難うございます。南日本海人、夏山裕のブログです。家族を愛し、人生に感謝して、日々をハグしながら送っています。

南日本海人、競争について雑考

2008年04月13日 | 日々(ふつうに)
 世の中のみならず、自然界にはすべて競争というものが存在するようだ。それは広い意味での生存競争であったり、精神的に優位を感じるための力比べであったり、権力欲を満たすためのものであったりする。
 いろんな意味で、またさまざまな形での勝負というのがある。しかしながら、勝負をし続けている間には平安はない。勝負をやめたとき、あるいは中断したときにのみ心の平和というものは存在するのだろう。
 その意味では、人間というもの(動物植物でも同じだが)、常時戦いをしているわけにはいかない。ライオンだって、食事して腹いっぱいになった直後は獲物を狙ったりはしない。(この暗喩はちがうか?)
 がんばって競争・勝負して、そしてその後は休んで充電してまた、次の競争に取り組むということになるのだろうが、現在の人間社会の一部ではあまり競争しなくても生きては行くことが出来る。多くを望まなければ。
 ここらあたりで思い出すのは、ある宗教の方の話である。キリスト教系のファンダメンタリズム派(原理主義:キリストが言ったことば自体や教えを大事にする立場)の宗教であるが、この教団では、競争をすることが禁じられている。現代の資本主義社会は、競争なしでは機能しないので、非常にこの競争社会とは相容れないところがあるわけであるが、確かに、競争をしなければ安らぎはあるのである。(全体的には私自身はこの宗教に肯定的ではないが。知っている女性でこの宗教を信じておられる方は、植物の花が咲くこと自体に驚きを感じて神秘を感じるということを言っていたが、その点は私も同感である。)
 ただ現実的に競争を完全になくした生活というのは考えにくい。全くの競争がなくなった社会というものが、果たして人間にとって理想的がどうかは疑問であると思う。
 ところで、人間というもの、たくさんの種類の競争をしている。でもここでひとつ考えなければいけないのは、変化の問題である。一般に競争というもの、何らかのルールに基づいて行われることが多い。しかし、最近思うのは、このルール自体が変化して、競争の結果や価値を変えてしまうことがあるということだ。勝ったつもりが、それが評価されないとか、負けたけれど、その勝負の世界そのものが何かの理由で消滅したとか。
 こうなるとなんだか、何を信じていいのかわからなくなるところであるが、ここで思い出すのはダーウィンの言葉かもしれない。適者生存の原理である。
 「競争に生き残るものは、強者でもなく、ましてや弱者でももちろんない。生き残るのは変化に適応したものである」という主張である。ルール自体が変わるのだから、勝ち負けではなく、新しいルール=変化に柔軟に適応したものが残るということである。
 確かにそういうものかもしれないとは感じる。がしかし、そこでもう一つの疑問が出てくる。
 生き残ることがそんなに重要なことなのだろうか。がんばって勝負に勝つこと、また勝負を避け平安に過ごすことなどより、生き残るということが一番大切なのはなぜだろう。個体はすべて有限でいつか目を閉じなければいけないのに…。
 その答えは、たぶん存続という言葉の中にあるのかもしれない。
 子供の顔をじっと見てそのような漠然としたことを考えていたりする。ああ、歳をとるものだなあ。まいったまいった。

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