みみずのしゃっくり

みみずのしゃっくりのように役に立たないことを不定期に書き込むブログ。
専属スターはいませんが、猫っぽい内容です。

ななみみず前身「みみざこ連」




仔ニャンコ・仔ワンコが新たなお家に迎えられるには、いつ頃が良いのでしょうか?
いわゆる「8週齢」問題については、こちらをご覧ください。六つ子の仔猫の動画もあります。

最新記事は、この下です↓
通常1日おきに更新の予定ですが、2日おき、あるいは3日おきになることもあるかも・・・(^v^;)

わんファッション

2014-02-28 | マウスらくがき

犬さん、猫さん、兎さんなど、自前毛皮ファッションが、とってもチャーミング

中でも時たま、外を歩いていて、ハッと目を見張る方がいらっしゃいます。
もちろん、そういう方々は犬さんです

ちょっと前にも、目を見張る「わんファッション」に出会いました

下手なマウス落書きで再現してみました




左目の周りと尻尾の付け根だけ、クルリンと黒いのです。あとは真っ白。
マウス落書きでは、コロッとした「わんこ」になってしまいましたが
本当はスラッとスリムな中型犬で、本当にファッショナブルでした

やっぱり、たとえ、おんぼろカメラでも、いつも持ち歩いて、目を見張ったときには、飼い主にお願いして撮らせてもらうべきかな、と思ったり・・・



ワンニャン・ファッションの重要参考文献
とりぱん・モーニング公式サイト
Wikipedia:とりぱん

ワンニャン・ファッションなのに何故、野鳥漫画が重要参考文献かというと、犬さん猫さんも大好きな著者が、ステキな毛皮ファッションを紹介しているからです




恐竜の部屋

2014-02-26 | 旧市街

前回のゴジラから連想して、ちょっと前に自然史博物館で会ってきた「親戚」をアップ


1)古生物部門の1室から見たエプシュタイン宮殿


エプシュタイン宮殿の出てくる以前のボログ記事
蛇なし宮殿
民主主義工房

2)恐竜さんの残り

トリケラトプスさんでしょうか?

3)昔の鳥さん


4)翼竜さん

プテラノドンさんのようです

5)歴史上最大のカメさんの残り


6)走る昔鳥さん


7)ゴジラさんのご親戚

アロサウルスと思われます
この復元モデルは動いて、時々「ガオー」と叫びます

8)恐竜さんの歯


9)これも恐竜さんの残り

やっぱりトリケラトプスっぽい

10)あっ、窓の外に恐竜さん


この部屋の窓は全て、窓の外に恐竜さんがいるかのように「内装(演出)」されています。恐竜部門は自然史博物館の中でも人気が高く、この日も、学校からの見学の子供たちが来ていました。

11)マンモスの皮・骨・牙で作った原始人の住居レプリカ

見学の小学生が見たり中に入ったり


展示品は、発掘骨格、発掘骨格のレプリカや復元模型。説明も大雑把なのは、恐竜模型などを「見る」のが目的で、詳細情報は無視したから
私はステゴサウルスが好きです。あの大げさな背中の「板」と「捨て子」に聞こえる名前が「めんこい」です
自然史博物館へ行ったのは、ゴジラ60周年記事の前でした。長年行ってなかったので、久々に行ってみたくなり、ほかにも色々ピンボケ写真を撮ってきましたので、またアップいたします





60周年

2014-02-24 | その他

2月21日付NZZ(新チューリヒ新聞)に全1ページの60周年記念記事が載りました。

ゴジラ映画60周年の記事です。

全ページ


ちょこっとアップ


タイトルは「海から来たモンスター」

サブタイトルには
60年前のゴジラ誕生の背後には、長らく隠蔽され現代では忘れ去られた核実験事故が隠されている
とあります。

記事の半分はアメリカの核実験による第五福竜丸被曝事件を紹介、後半で、核兵器への警告としてゴジラ映画が制作されたことを記しています。

記事の一部
太平洋に面した焼津は、他の多くの漁港と変わらない。漁港や工場があり、南アメリカやアジア諸国からの労働者も比較的多い。天気の良い日には富士山が良く見える。しかし焼津では目下、3月1日の60周年を迎える準備が進められている・・・
ビキニ環礁での核実験に先立ってアメリカは警告を発していた。しかも、第五福竜丸は危険水域から30キロ離れたところを航行していた。それにもかかわらず、乗組員は被曝した・・・
水爆の威力がアメリカの関係者による計算をはるかに上回ったからである。予想計算で水爆の威力はTNT火薬約600万トンであったが、実際にはTNT火薬1500万トン相当の爆発が起こった・・・
アメリカは核実験データを隠し、被爆者の治療を困難にした。亡くなった久保山愛吉の母親にはアメリカから2500ドルが贈られたが、核実験で亡くなったアメリカ人には7万5000ドルが支払われている・・・

第五福竜丸の被曝事件から8ヵ月後「ゴジラ」が上映され、一般観衆の間で大ヒットとなり、いまや映画史上のシンボルとなっている・・・
特撮技術の拙さにもかかわらず、これは名画である・・・
映画の終りで科学者が「ゴジラが、これだけで終わるとは思えない。核実験が続けられれば、またゴジラが現れるかもしれない」と述べている。これは、サイエンスフィクション映画の中のセリフとはいえ、決定的な発言である・・・
東京にはゴジラの記念像もあり、核兵器や原子力の恐ろしさを警告している・・・
しかし、かつてアメリカが行っていたように、現在の日本政府もまた情報を隠し、黙殺する方針を実行している。



ゴジラは、ひょっとすると世界で最も知られた「日本出身者」かもしれません。以前、スロヴァキアの知り合いが「ゴジラ」と言ったときにはビックリしました。Wikipediaのゴジラ記事は36言語あります。ドイツ語とスペイン語が詳しく、ゴジラ誕生の背後に第五福竜丸被曝事件があることも紹介されています。
えー、ところで、私はゴジラ映画をひとつも見たことがありません


Wikipedia:第五福竜丸
Wikipedia:ビキニ環礁




戦争レクイエム

2014-02-20 | おきにいり

前々回前回の続きでごめんなさい(でも最終回です)

ウィルフレッド・オーエンの詩を知ったのは、ベンジャミン・ブリテンの「戦争レクイエム」を通してでした。初めて曲を聴いたのは日本で、ブリテンがレクイエムのラテン語典礼文の間にオーエンの詩を加えていると知りました。しかし、この時はそれだけ。
ウィーンで暮らすようになって、ある時、ドイツの週刊紙「ディ・ツァイト」にウィルフレッド・オーエンが紹介され、強烈な印象を受けました。これによってブリテンの「戦争レクイエム」も思い出したのです。これまでにコンツェルトハウスで2回ほど戦争レクイエムを聴いています。

第二次大戦中、ドイツの空襲で破壊されたコヴェントリーの大聖堂が戦後再建され、1962年の献堂式に、戦争レクイエムが初演されました。この作品には、平和を希求するブリテンの思いが込められています。


私が持っているCDのケース表側


裏側


ブリテン自身が指揮している歴史的な演奏です。3人のソリストは、第二次大戦で主要な参戦国であったイギリス(テノールのピーター・ピアーズ)、ドイツ(バリトンのディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ)、ロシア(当時のソ連のソプラノ、ガリーナ・ヴィシネフスカヤ)を代表しています。

添付リブレットの表紙を飾るブリテンの写真



ヴィシネフスカヤが歌うリベラ・メ(我を救いたまえ)



典礼文がラテン語と英語訳で表示されます。


ウィルフレッド・オーエンの「奇妙な出会い」


ピアーズとフィッシャー=ディースカウ

オーエンの詩が表示されます。


  

ウィキ・リンク
戦争レクイエム
ベンジャミン・ブリテン
レクイエム

ブリテンはショスタコーヴィチと並ぶ20世紀の2大巨匠です。
ブリテン作品に関する以前のみみずボログ記事
西洋版墨田川
西洋怪談





闇と腰

2014-02-16 | その他

前回の続き(補足)です

その1
I am the enemy you killed, my friend

オーエンの詩「Strange Meeting(奇妙な出会い)」では、ある兵士(自分=オーエン)が、謎の暗闇で別の兵士に出会うのです。それが自分が殺した敵兵であると分かるのが、「私は君が殺した敵だよ、我が友よ」で始まる前回引用した最後の部分です。
何故なら
すぐに君だとわかった。君の暗い眼差しは
昨日、私を突き殺したときのように暗いからだ
私は防戦しようとしたが、私の手は動かず、冷たかった
さあ、もう眠ろう・・・・


この暗闇は冥界で、自分が今日殺されて、昨日殺した敵兵と出会ったと解釈することもできます。そして、ふたりは永遠の眠りにつくのです・・・
あるいは、自分が殺した敵兵に夢の中で再会したとも解釈できます。
戦争でやむを得ず人を殺した経験のある人、あるいは恐ろしい戦闘シーンを間近で見たは、大半の場合、戦後も長年、繰り返し、その場面の夢を見て苦しむようです。大災害でも同じことが言えるでしょう。
私は昔、戦争中に上官の命令で捕虜を撃ち殺した人から、いつまでも、同じ殺す場面の夢を見ると聞いたことがあります。戦争のトラウマは、長らく、場合によっては生涯、その人を苦しめることになるのでしょう。


その2
The Middle Parts of Fortune

フレデリック・マニングの小説のタイトルを直訳すると「運命の中ほど」ですが、本来は「運命の女神(幸運の女神)の腰(ヘソ?)のあたり」。もともと「ハムレット」の中に、ハムレットとローゼンクランツ、ギルデンスターンが、運命の女神(幸運の女神)について無駄話をする短いシーンがあり、ギルデンスターンが「我等は彼女(女神)の私兵である(her privates, we)」と言います。マニングの小説の最初のタイトルは「Her Privates, We」でした。
「ハムレット」を読んでいる人でも、こんな細かい部分まで記憶している人は少ないはずで、あまりにオタクなタイトルと思ったのか、批判されたのか、著者が後年、現行のタイトルに変えたのです。それでも「運命の中ほど」は抽象的ですが、「女神の腰(ヘソ?)のあたり」と分かれば、前線兵士の猥談のようにも聞こえます。


      


Strange Meeting朗読のYouTube




オーエンの「奇妙な出会い」の詳しい解説(英語)はこちら


第一次大戦をテーマにした文学を紹介する個人のHPを見つけました。制作者はフランス人ですがHPは英語です。時間と興味のある方はこちら
フレデリック・マニングの「女神のヘソ」も出てきます。





14の呪縛

2014-02-13 | その他

日本特有のチョコレート売上促進日のことではありません。



ウィキ・フィリー画像

既に昨年、予告編「1913」があったように、「14」と言えば「1914」

そして今年は
第一次世界大戦勃発から100周年なのです。

昨年後半からNZZ(新チューリヒ新聞)にも特集記事が掲載されるようになり、ラジオでも特集番組が時々あります。調べていませんが、雑誌やテレビも同様だと思います。
第一次世界大戦はヨーロッパに強烈な衝撃を与えました。そして、その残響と余震は21世紀まで続いています。第一次世界大戦の戦後処理が第二次世界大戦の原因となり、両大戦の生み出した様々な紛争は今も続いているからです。


第一次大戦で戦死したウィルフレッド・オーエンの詩集


オーエンは、フランスの戦線における体験から、戦争の残酷さ悲惨さを表現した多くの詩を書き残しました。しかし、推敲・整理・編集をする前に、1918年11月4日戦死。休戦協定で戦闘が終わったのは1週間後の11月11日でした。

"I am the enimy you killed, friend.
I knew you in this dark: for so you frowned
Yesterday through me as you jabbed and killed.
I parried; but my hands were loath and cold.
Let us sleep now...."


オーエンの詩"Strange Meeting"の最後の部分


オーエン戦死後、オーエンの詩集を出版したジークフリート・サスーン


オーエンは戦争中、詩人サスーンと知り合い、大きな影響を受けました。第一次大戦でも(それ以前の戦争や第二次大戦と同様)多くの芸術家が戦死していますが、サスーンは生還し、オーエンとともに代表的な「ウォーポエット(戦争詩人)」として知られます。

サスーンについてはウィキ日本語版がないので英語版をご覧ください。


第一次大戦・戦争文学の代表作のひとつ


この本の著者フレデリック・マニングについては英語ウィキをご覧ください。

オーエン、サスーン、マニングの本は日本語訳が無いようです。スキャンした表紙の本は、まだアマゾンを利用するようになる前、ウィーンの英語専門書店で買いました。

日本は第一次大戦にちょこっと参加したものの、国土が戦場になったヨーロッパのような衝撃的体験は無かったので、第一次大戦をめぐる文学作品は、あまり知られていないのだろうと思います。



しかし、映画化などを通して世界的に知られているのが、レマルクの「西部戦線異状なし」。

Wikipedia:映画「西部戦線異状なし」


続くことになると思いますが、恒例、乞無期待





フロント飾り

2014-02-11 | そこらへん

車のフロントガラスでもホテルのフロントでもなく、建物の正面を飾るもの

但し、いつもの通り、ピンボケ写真ばかりです


1)顔をあしらったドア飾り、ボケボケ


2)


3)不思議なファサード


4)不思議な建物にちょっと接近


この建物は、アルベルト・シュヴァイツァー・ハウスと呼ばれ、オーストリアでは少数派のプロテスタント教会の施設です。講演会などが行われ、私も何回か行ったことがあります。学生寮もあり30以上の国々の学生が住んでいるそうです(プロテスタント教会のHPより)。
ファサードが何故奇妙かというと、ここには1633年にベネディクト会の修道院が設立され、「黒いスペイン人の修道院」と呼ばれていました。それは、モンセラートのベネディクト会修道士が暮らしていて、その修道服が黒い色だったからということです。この建物のある通りも「黒いスペイン人通り(Schwarzspanierstrasse)」と呼ばれています。
修道院は繰り返し破壊され修復された後、1964年には修道院付属教会のバロック様式ファサードのみを残し、普通のビルが建てられました。それで、外観がちょっと不思議

5)脇道


6)シュヴァイツァーハウス左側の道

ファサードの後ろ側が普通のビルなのがわかります

7)


8)ひとりで上の出窓を支えるヒト


9)


10)普段開ける右側扉下の部分の色が薄くなっています


11)またまた超ボケボケ


12)


13)歩いていたらポリス・ステーションがありました


14)パトカー






市立病院

2014-02-09 | その他

12月に5日間入院した市立病院

Wilhelminenspital(ウィルヘルミーネンシュピタール)という名前は、資金を提供した侯爵夫人のウィルヘルミネさんに因むものです。

1月半ば、退院後の健康チェックで行ったとき、写真を撮ろうと思っていて忘れました

それで、以下はWikipediaフリー画像です


病院正面入り口


広い敷地に19世紀から逐次建てられた病棟が点在し、大学キャンパスみたいな総合病院。それで、敷地内を病院バスが運行していますが、私の入院した病棟は入り口から見えないものの近いので、バスの必要はありませんでした。

歴史的な建物らしい2つの病棟




私が入院したのは、平凡な、つまり新しいビルでした。

病院敷地内の教会


以前にも紹介しましたが、大きな病院には「付属教会」があるようです。


他の病棟は違うかもしれませんが、私の入院した建物には売店がありませんでした。飲み物の自動販売機があるだけ。では、どうするか?と言うと、シュトゥッツプンクト(基地)という表示のあるナース・ステーションに行くと、何でも出てくる・・・歯ブラシ、歯磨き、石鹸、シャンプー、タオルなど、なんでも支給してくれるのです(もちろん、タオルなんかは返すわけです)。
談話室にあるジュースなども勝手に飲んでいいし、パンちょうだいと言えば、出してくれるようです(私は頼まなかった)。

食事は、アルプス以北のヨーロッパ式で、昼食がメイン(スープと肉料理とサラダ)。夕食は、ドイツ語でアーベントブロート(夕方のパン)と言うとおり、パンとハムかソーセージとサラダ。
アルプスの南側、つまり南欧だと、盛大に夕食を食べるようです。夏の日中は暑いので、夕方になって食欲が出る、ということかな。
北の方だと、夜は寒いし、昼間たっぷり食べておこう、というわけで、歴史の中で夫々の食習慣が形成されたのではないかと推定いたします





新春みみず

2014-02-07 | ななみみず

えーと、随分遅いですが、旧暦では今頃も、やや新春だったりするようで・・・

「ななみみず」を「出演」させるため、また古いファクスらくがきをスキャンしました






       (←蛇だけどミミズのつもり)

名前は左から
ワヒダ、イスナン、サラサ、アルバア、ハムサ、シッタ(叱咤)、サバア
でございます

名前の都合上、シッタは「叱咤激励係」ということになっています





冬の芝生

2014-02-05 | そこらへん

寒そうなピンボケ写真が続く通り、こちら0℃か、それ以下の曇天が続いています

今回は、繰り返し登場している芝生。但し寒いので誰もいません。
見えている建物の多くは、ウィーン1区(インネレシュタット=旧市街)にあるのですが、この広場(ジークムント・フロイト広場)は9区(アルザーグルント)に属しています。つまり区の境界にあるのです。


1)いつもの教会

午後1時過ぎなのに薄暗い空模様

以前のみみずボログ記事:いつもの教会

2)いつもの芝生

夏とはうって変わって無人(僅かに降った雪が消えません)

3)教会左手(教会から見れば右手)


暖かい季節の広場と比べてみてください。
以前のみみずボログ記事:市民庭園のバラ空(から)の芝生

以下は広場(芝生)のまわりの建物。

4)ウィーン大学本館側面


5)左端は「女傑の空白」で紹介したエフルッシ宮殿


6)


7)青枠の箱みたいなのは地下駐車場への入り口


8)ウィーンは公共のベンチが多い街です


9)


10)


11)いつもの教会:初めての「後姿」