那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

任侠道のことなど

2013年01月07日 | 世直しのためにどうすべきか
今日もインフルエンザのために体調が悪いので眠りたいところだが、簡単に。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1018867995
私には、極道とは世のため人のために法を破ることも厭わない人たち、という認識があります。
あくまで個人的な認識なので他人にこの考えを押し付けようとは思いません。
昔は、ヤクザ≒極道であり、地元の顔役がチンピラを束ねてまっとうな道をすすませるべくにらみを効かせいました。
街の人も、チンピラが多少乱暴者でも、いざというとき(例えば災害のときなど)には、人格者である親分さんの命令一過、体を張って村や町を守るべく努力をしていたからこそ、一目を置いていました。
ヤクザは「恐れられる」よりも「畏れられ」ていました。すなわち、畏敬の念というやつです。
しかし、現在は質問者が仰るように、ヤクザ≠極道です。世のため人のために使うべき力を、私利私欲のために使えば、畏敬されるわけがありません。

作家の安倍譲二さんが仰るには、「人様のために自分が損をできる人が任侠であり、その気持ちがあればタクシーの運ちゃんでも任侠だ」だそうです。

_______________________
記憶だと任侠道は水滸伝の「梁山泊」に集った反体制活動家の思想が起源。日本でも武士の始まりは「悪党」と言われ、楠正成(大楠公)は悪党の代表的な人物だった。
 維新の志士たちも徳川幕府から見ればお尋ね者で竜馬も指名手配の代表的人物、善悪というのは時代時代によって変化する。
 楠正成も竜馬もその時代には逆賊扱いされたが、明治になって評価が逆転し英雄に変わる。

「人間の値打ちは死んだ後に分かる」と言われているが、私は批評歴が長いので、これも嘘だと思う。いつの時代にも名馬はいるが、その資質を見抜いて育てる伯楽がいない限り、名馬は埋もれたままである。

善良なヤクザもいれば、極悪非道の裁判官もいる。究極のワンパターンドラマ「水戸黄門」が人気があるのは、副将軍という地位にある人間が名伯楽となって、肩書きに拘らず本当の善悪を見極めて世直しをしていく、というこの世には存在しない桃源郷のような世界を織り出していくからだろう。一言で言えば不在への憧れで、逆に言えば副将軍の出現を待っている内はいつまでたっても世の中は変わらない。

マスメディアが社会の木鐸として機能しなくなった現在、庶民の一人一人が伯楽となり任侠となり、常に思想は柔軟に構えて、ネットワークを広げることが出来たら、と思う。







最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。