那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

京都大学大学院名誉教授加藤幹郎さんの著作を紹介します。

2018年09月15日 | 書評、映像批評

集団ストーカーの被害者の方は次のurlを押してください。 http://blog.goo.ne.jp/nadahisashi/e/21522a074264a7eb4afb4fd7df2e6531

  また「春名先生を囲む会」は私のHPに別途ページを作ったので次のURLをクリックしてお読みください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/haruna.html に最新の「春名先生を囲む会」の写真をアップロードしています。この会の趣旨と目的に賛同されるかたは毎月第三金曜日にの8時から誰でもOKですから夢庵西八王子店(平岡町)に来てください。正面を右に進むと座敷がありますからその座敷で待っています。手前のテーブルの場合もあります。なお、料金について変更があります。お酒の飲めない人は2千円にしましたのでお酒の飲めない人もぜひ賛同者となって「春名先生を囲む会」で講義を聞いたり、また積極的に講義をして下さい。今後は二回目から講演者に5千円は差し上げます。医療だけでなく歴史や芸術についても講義できるようになりました。私は八王子五行歌会の代表です。賛同される方は私まで電話を下さい。042-634-9230。出ないときは留守電にメッセージを残して下さい。次は「煩悩と幸福観」がテーマです。これは物凄く面白い話題になるでしょう。その次のテーマは「欲望とのつきあい方」です。これは宗教から精神世界まで幅広いテーマになります。是非ブログをご覧の皆様も「春名先生を囲む会」にご参加下さい。

私が微笑禅の会(非宗教)を作ったのは日本に10人の見性者が生まれ、10人が協力し合えば世直しが出来ると思ったからです。(ちょうど日本に10人の坂本龍馬が居たら世直しが出来るように)

後、微笑禅の会(非宗教)のネット会報は中止し、年に5千円の護持会費と数度の紙媒体での会報を出すことにします(メールで済ますこともあります)。私がロックフェラーほどの資産家であれば年に5千円の会費は無料にしますが、五行歌の会の主宰・草壁先生の言われる通り、お金を出さないと文化は育たないからです。本当に悟ってみたい人は次のurlをクリックして「見性体験記」をご覧ください。 http://w01.tp1.jp/~a920031141/zen.html             入会された方には「微笑禅入門―実践篇」(DVD)を差し上げます。もちろん会員から質問があれば答えますので私のメルアドまで質問を下さい。レジュメも作らず睡眠時間4時間で即興で語っています。DVDはボリュームを目一杯に上げて聞いて下さい。wasaburo@hb.tp1.jp (クリックしてもメールが開かないのでコピーして宛て先に入れて下さい)

なお、微笑禅の会の口座番号に変更があります。入会手続き入会金なし。会費は年に5千円とし、ゆうちょの以下の振替口座 00130-7-447671 名称「微笑禅の会」に振り込んでください。その際は住所氏名他連絡先、男女の区別を明記してください。退会は自由ですので、私にメールか電話をください。

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以下は加藤幹郎さんの映画に関する著作である。私も数冊持っているが、読みごたえがあるので、映画の好きなひとは是非、買って読んで欲しい。タイトルの下の文章は加藤幹郎さんの概要である。

 

①『映画のメロドラマ的想像力』〔フィルムアート社、一九八八年、二八五ページ〕

 

 念願がかなう本書は、メロドラマという概念が二元論的イデオロギー(思想傾向)の基盤になっている。それゆえ、それは単なる恋愛映画の表象基本形のみではなく、たとえば戦争映画や終生映画などの芸術作品においても、生と死といった二元論に基(もと)づいた物語構造が、映画という二十世紀の娯楽/芸術媒体として浸透していった表象の歴史である。したがって、世界映画史の古典的作品から一九八〇年代までの傑出した映画作品群を、作家論、映画史論、技術論、物語論の諸アスペクトから講演したものである。また文芸雑誌や映画批評雑誌に掲載したものも収録した映画書籍である(ちなみに、本書は当然二四〇〇円だったのに、現在 Amazon.co.jp では昔の拙著群が四二〇〇円から五〇〇〇円などにて売られている)。

 

 

 

②『愛と偶然の修辞学』〔勁草書房、一九九〇年、二四四ページ〕

 

 本書は、三つの物語表象媒体の相関関係を、レトリック(修辞学)的水準をもとに論じる。すなわち映画、小説、漫画である。それらは必然より偶然、全体より細部にこだわる愉しい表象文化論。映画はイタリア、フランス、アメリカ、日本の作品論。そして小説は、急進的な革命小説家サミュエル・ベケット(一九六九年にノーベル文学賞を受賞したアイルランド人)がフランス語で書いた未邦訳の当時の新著論。また彼の先達たる英文学史を解体した、知名度高いアイルランド人だったジェイムズ・ジョイス、この二人の世界文学史上最大の〈モダニズム〉小説の新たな解明/解釈である。そして世界最高水準にある日本漫画作家たちの芸術的論考、ならびに漫画という媒体と読者との受容様態関係論。むろん、映画群はほぼ上記の書物の延長線上で新たに展開している。

 

 

 

③『鏡の迷路  映画分類学序説』〔みすず書房、一九九三年、一八四ページ〕

 

 古典的映画作品から、当時の傑出した映画芸術作家の秀逸な映画作品群まで、映画史上一貫して映画技術媒体とともに変化しつつ、共通する映画概念と人間表象の様態変化場面である。それらをキャメラ・ワークがどのような変貌と共通性を維持しているのか、作家論、作品論のレヴェルを超えて、映画の密度等、従来ありえなかった映画芸術観点から諸作品の映画史的連関性を考察した、映画思想の真の動機に満ちた本格的な書物である。

 

 

 

④『映画ジャンル論』〔平凡社、一九九六年、三五六ページ/文遊社[増補改訂版]、二〇一六年、四九二ページ〕

 

 ハリウッド映画の一九三〇年代から九〇年代までの、十種類の映画ジャンル論の機知に富む変遷(へんせん)史。それにともなう定義の再考、ならびに映画芸術作家たちが娯楽産業たるハリウッド映画会社群内におけるジャンル定式から、どのように独自の変更を加味してきたのか。そして諸ジャンルの厳密な歴史的定義検証と個々の映画作家がメディア社のもとで、いかに傑出したオリジナリティ(独創性)を創造していったのか。それらの両面性から、「映画ジャンル論」の意味と作家論の意義とを論証した、結果的にいたる重要な役割に満ちた信頼を表す学術的書物である。

 

 

 

⑤『映画 視線のポリティクス 古典的ハリウッド映画の戦い』〔筑摩書房、一九九六年、一八四ページ〕

 

 賢明なる小生は、一九九〇年八月から九二年二月まで「フルブライト客員研究員」として、カリフォルニア大学ロサンジェルス校(アメリカ最大の映画学およびメディア学が卓越した学部と大学院のある大学=ハリウッド映画産業の地元)や、一流大学たるカリフォルニア大学バークリー校や別のニューヨーク大学に滞在し、膨大な一次資料を各種アーカイヴで調査し、戦前に喜劇映画の特異なジャンル映画を監督していたプレストン・スタージェスとフランク・キャプラという一流映画作家たちが、戦時中、戦争プロパガンダ映画シリーズの監修を、政府から依頼された数年間の作家的芸術性と戦時イデオロギーとの類縁性、その他の映画作品群と文献資料論にて考察した書籍。

 

 

 

⑥『映画とは何か』〔みすず書房、二〇〇一年、二八三ページ/文遊社[増補改訂版]、二〇一五年、三〇六ページ〕

 

 古典的ハリウッド映画から決別した、「ポスト古典的」ハリウッド映画とも言える、新しき芸術たる娯楽映画も依頼する映画監督アルフレッド・ヒッチコック。彼の代表作たるスリラー・サスペンス映画『サイコ』(一九六〇年)のテクスト分析もある。また、ドイツ表現主義の超一流映画作家フリッツ・ラングは、ナチス・ドイツ戦争期ゆえにアメリカ合衆国に亡命して、ハリウッド映画作家として変遷(へんせん)しても、なお特異な芸術・娯楽映画作品をいかに制作しえたのかも分析テクストした。さらにまた、十九世紀初期の首都ワシントンDCの議会図書館アーカイヴでのリサーチによる、先駆者たる「アメリカ映画の父」と称されている、超有名なD・W・グリフィスの初期インディアン映画群。および、黒人専用劇場向けの黒人専用映画作品を、サイレント期から監督した特異な黒人映画作家オスカー・ミショー論。その他のアメリカ映画のメイジャー側面ではなきマイナーな側面についての、厳格かつ慎重なる論証書籍である。なお本書は、「第十一回吉田秀和賞(副賞二〇〇万円)」を受賞する(讃(たた)えて[心から誉(ほ)められて] 賞状を授与される)表彰状にて、小生に祝辞してくださった方は、有名な映画評論家たる東京大学名誉教授(二〇〇一年三月までの東京大学総長)たる蓮(はす)實(み)重彦(しげひこ)先生であった。さらにまた彼は、『朝日新聞』冒頭の「天声人語」にて小生に提出して下さり、その他の各新聞雑誌においても、才能たる多数の学者たちは拙著に関する書評を多々掲載(けいさい)されていた。

 

 

 

⑦『映画の領分 映像と音響のポイエーシス』〔フィルムアート社、二〇〇二年、三〇二ページ〕

 

 世界映画女優論、ハリウッド映画産業の地元ロサンジェルス市は降雨量が少ないために選ばれた地理なので、当然、プールという液体空間と映画作品との関係性の論証。従来の作家論とは異なる観点から、力量豊かな偉大なハリウッド映画作家たちを新作家論的観点から立証する。したがって、映画批評誌や文芸誌に依頼された種々の論文やエッセイの集大成ゆえに、東京大学名誉教授たる高名な蓮實重彦先生による『産經新聞』書評にて、本書が高く評価された賞讃に値する映画研究書である。

 

 

 

⑧『「ブレードランナー」論序説 映画学特別講義』〔筑摩書房、二〇〇四年、二四三ページ〕

 

 「映画作家(監督)の意図」だけでは成立しえぬ、繊細なる映画作品のすぐれた意義を多様なるコンテクスト(社会史、文化史、絵画史、映画史、主題論的分析等)を通して、戦時中のユダヤ人亡命者たちによって構成され、戦後、フィルム・ノワールと呼ばれる(日本では「暗黒映画」と言われていた)、唯一「悲劇」的側面をもちうる卓越した狭義ジャンル映画作品『ブレードランナー』。その伝統を踏まえて、一九八二年に製作されたSF映画が、当時のクローン(純系)科学との類縁性によって、人間の生と死の卓越したシェイクスピア的「悲劇」と比肩しうる映画作品でもある。それをテクスト分析であると同時に、コンテクスト分析として一冊の大部の書物で、一本の作品を多様なる文脈とともに解明した書籍。それはまた、元東京大学総長の蓮實重彦先生が現在インターネット上で高く評価しておられる。要するに、賢明な彼による巧妙な映画学書『映画への不実なる誘い―国籍・演出・歴史』〔NTT出版、二〇〇四年〕には、小生(京都大学大学院映画学助教授)の映画研究書についても執筆してくださった。実際、本作の拙著は二〇〇五年に2刷化され、二〇〇七年に3刷化されて厖大に売られていた。したがって本作は当時二八〇〇円だったのに、現在の Amazon.co.jp では、十二作が五五〇〇円から八四〇〇円まで依頼されている。

 

 

 

⑨『映画の論理 新しい映画史のために』〔みすず書房、二〇〇五年、二三〇ページ〕

 

 一九三〇年代から五〇年代にかけて、米国のきわめて優れた美術家(小箱オブジェ制作家)であると同時に、実験映画作家でもあったジョゼフ・コーネルを、小生はシカゴ美術館で資料検索検証を実施し、日本で見られることがなかったマイナーながら、素晴らしい芸術実験映画作品群との類縁性と特異性の論証。その他、世界映画史上最大の映画芸術作家ジャン=リュック・ゴダールのハリウッド映画史等への引用と独自性の検証、ならびにCGI(コンピュータ作成映像)期が定着した二十一世紀の新規映画論としての代表作映画の検証論証の書籍。要するに、技芸(芸術に関する技術)の熟練にも満ちていた映画論書。

 

 

 

⑩『ヒッチコック「裏窓」 ミステリの映画学』〔みすず書房、二〇〇五年、一五三ページ〕

 

 「みすず書房」が入門書シリーズとして、「理想の教室」群を日本の傑出した大学教授たちに依頼したさい(たとえば、東京外国語大学学長ロシア文学者や吉田秀和賞受賞学者たち)の一環として、小生も最初に依頼され、ジャン=リュック・ゴダールらの一九六〇年代のフランスのヌーヴェル・ヴァーグ新人作家たちが、大評価した英国人ハリウッド映画作家アルフレッド・ヒッチコックの代表作の特異性を論証した。つまり、単なるミステリ映画ではなく、映画という視聴覚媒体が「裏窓」の向こうに主人公が「見た」つもりの「殺人事件」を、観客も「見た」つもりになる古典的ハリウッド映画とは異質な映画的内面性(外見と内実の乖離)を論証した、わかりやすい短い革新的な映画学入門書である。同時に、ヒッチコックの芸術的革新性を新たな観点から論証した画期的書物。第六回本格ミステリ大賞最終候補作品。

 

 

 

⑪『映画館と観客の文化史』〔中公新書[中央公論新社]、二〇〇六年/二〇一七年、三〇三ページ〕

 

 多大に心掛ける(目指して努力する)べき米国と日本の、それぞれの映画群の黎明(れいめい)期から今日までの上映形態と観客の関係を分析解説するもの。要するに、当時の文化的・社会的背景から、各時代の観客が映画鑑賞によって、どのような欲望を満たしてきたのかを入念に考察する。そして映画館をめぐる日本初の網羅的省察を試みている。映画がいかに「場所」と関係づけられてきたか、十九世紀のパノラマ館から始まり、日本の弁士京都市をふくむ世界中のヘイルズ・ツアーズ(擬似列車映画館での列車映画興行)の模様(一九〇〇年代初頭から一九一〇年代まで)、米国のドライヴ・イン・シアター(一九五〇年代ブーム)、フライ・イン・シアター、客船内映画館、テーマパーク内映画館、アイマックスシネプレックスその他、また映画産業都市京都と新聞と観客との特異な関係のリサーチ、日本初の包括的な映画館(観客)論の展開。当時、本書は一万冊ほど売られて、二〇一七年に二刷化されて、また二万冊ほど刊行。しかも日本のすぐれた私立大学群にて、十年間以上(ほぼ毎年)、膨大にダイレクトな「国語」入学試験としても本書は利用されている。

 

 

 

⑫『表象と批評 映画・アニメーション・漫画』〔岩波書店、二〇一〇年、二三九ページ〕

 

 満足を与える、愉快な映画論、アニメーション論、漫画論に関する実(みの)りある研究たる三部構成。それぞれ独立した批評的テクスト分析だが、「ポピュラーな視覚媒体のなかに芸術的アスペクトを見いだすこと」という共通テーマ。根強い人気たる映画作家アルフレッド・ヒッチコックによる映画『レベッカ』(一九四〇年)の主題論的テクスト分析。特殊性たるスティーヴン・スピルバーグ監督のスペクタクル映画と、普遍性たる映画監督ジャン=リュック・ゴダールの反スペクタクル映画、そしてまたエドガー・G・アルマー監督のB級映画群を、さらにクリント・イーストウッド監督の西部劇映画を論証。また、すぐれた新海誠のアニメーション映画が可能にした情緒風景映画の特質も規定。さらに漫画作家荒木飛呂彦による厖大な『ジョジョの奇妙な冒険』におけるテクスト分析によって、古典的漫画における人間身体表象や齣(こま)割(わ)りや画面構成から常識を逸脱した、世界的に画期的なマニエリスム芸術漫画であることも論証した注目と人気に満ちた書籍である。

 

 

 

⑬『日本映画論 1933-2007 テクストとコンテクスト』〔岩波書店、二〇一一年、四四三ページ/上下二段組み〕

 

 深い感銘を受ける本書は、徹頭徹尾、映画を見て聴くことについての厖大な書物で、小生の才能を最大限に発揮させたものである。実際、映画の視聴は表象の倫理的領域にかかわる。それはイデオロギーの領域に、そして実践される社会的空間の問題に至り、とりわけ還元不可能な個性の想像力の領域にいたる。その意味で、日本映画史が映画の歴史の切断や区分にもとづく編年体的記述をなおさら意味するのである。そもそも、昔の概念的、歴史的理解だけでは真に映画を理解したとは言いがたい。映画とは、歴史的・概念的説明を超絶する映像と音響の具体的構築物だからである。それは全体化理論では、多様な手法を駆使した経験である。そのなかでも、もっとも還元不可能な経験のひとつが日本映画を見て聴くことなのであるから、映画芸術的価値に満ちた七六作の映画作品群。

 

 

 

⑭『列車映画史特別講義 芸術の条件』〔岩波書店、二〇一二年、一八七ページ〕

 

 本書は、絢爛(けんらん)たる映画理論一般には基本いっさい言及しない。要するに、比類なき才能を発揮した学問的認識のものである。ある映画作品群が、伝統を踏まえたうえで革新的であるがゆえに芸術的であるとすれば、それはなんらかの説明によって解明されるべきものではなく、世界映画史の多様な文脈(コンテクスト)上で具体的に究明されるべきものだからである。現代の少なからぬ人間たちは、芸術作品の革新的創造性と自己刷新的運動をとおして、生の活性化をはかるべきものだと思われる。そうした仮定にもとづいて、整合性ならびに総合性を旨(むね)とする包括的理論によっては、その真髄(そのものの本質)をとらえることなどできない映画芸術の具体的革新性の分析を、本書は、すぐれた映画作品群をとおして見事なバランスにて主眼したものである。