那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

那田家の謎

2018年09月04日 | 歴史

集団ストーカの被害者の方は次のurlを押してください。 http://blog.goo.ne.jp/nadahisashi/e/21522a074264a7eb4afb4fd7df2e6531

  また「春名先生を囲む会」は私のHPに別途ページを作ったので次のURLをクリックしてお読みください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/haruna.html に最新の「春名先生を囲む会」の写真をアップロードしています。この会の趣旨と目的に賛同されるかたは毎月第三金曜日にの8時から誰でもOKですから夢庵西八王子店(平岡町)に来てください。正面を右に進むと座敷がありますからその座敷で待っています。手前のテーブルの場合もあります。なお、料金について変更があります。お酒の飲めない人は2千円にしましたのでお酒の飲めない人もぜひ賛同者となって「春名先生を囲む会」で講義を聞いたり、また積極的に講義をして下さい。今後は二回目から講演者に5千円は差し上げます。医療だけでなく歴史や芸術についても講義できるようになりました。私は八王子五行歌会の代表です。賛同される方は私まで電話を下さい。042-634-9230。出ないときは留守電にメッセージを残して下さい。次は煩悩と幸福観がテーマです。これは物凄く面白い話題になるでしょう。その次のテーマは「欲望とのつきあい方」です。これは宗教から精神世界まで幅広いテーマになります。是非ブログをご覧の皆様も「春名先生を囲む会」にご参加下さい。

私が微笑禅の会(非宗教)を作ったのは日本に10人の見性者が生まれ、10人が協力し合えば世直しが出来ると思ったからです。(ちょうど日本に10人の坂本龍馬が居たら世直しが出来るように)

後、微笑禅の会(非宗教)のネット会報は中止し、年に5千円の護持会費と数度の紙媒体での会報を出すことにします(メールで済ますこともあります)。私がロックフェラーほどの資産家であれば年に5千円の会費は無料にしますが、五行歌の会の主宰・草壁先生の言われる通り、お金を出さないと文化は育たないからです。本当に悟ってみたい人は次のurlをクリックして「見性体験記」をご覧ください。 http://w01.tp1.jp/~a920031141/zen.html             入会された方には「微笑禅入門―実践篇」(DVD)を差し上げます。もちろん会員から質問があれば答えますので私のメルアドまで質問を下さい。レジュメも作らず睡眠時間4時間で即興で語っています。DVDはボリュームを目一杯に上げて聞いて下さい。wasaburo@hb.tp1.jp (クリックしてもメールが開かないのでコピーして宛て先に入れて下さい)

なお、微笑禅の会の口座番号に変更があります。入会手続き入会金なし。会費は年に5千円とし、ゆうちょの以下の振替口座 00130-7-447671 名称「微笑禅の会」に振り込んでください。その際は住所氏名他連絡先、男女の区別を明記してください。退会は自由ですので、私にメールか電話をください。

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以前、このブログで「森家文書」について解説したことがあります。たまたま、手元に森家文書があったので、まず、これをわかり易く解読していきます(以前、鎌倉時代の徒然草よりも難解な森家文書を八王子市教育委員会にコピーを持っていき、解読を約束しながら、後日キャンセルされたことを思い出します。先日の八王子市個人情報条例、審査会、法制課の決定を批判したのと同様に、私が、アンチ創価というだけで、市役所の一部の部署は気に食わないのでしょう。もちろん例外もありますが)

まず、一読して森家文書が物凄いのは、敵方の文書を二つも森家が所蔵していることである。しかも、相手が、明智光秀(確か国宝、東大図書館にある)、と羽柴秀長なのだから、普通ではない。まず、最初から丁寧に解説します。

「森家由来書」から(現代人でもわかり易いように簡略化して解説します)。家伝によれば森家の祖は森監物藤原政次といい、南朝の後村上天皇に使えて、現在の海南市の荘園領主兼地頭であった。しかし、4代目の時、畠山氏によって、領地を失ったが、その孫が梶原大和の守に依頼して、畠山家から元の4分の1を返してもらった(と言っても、現在の海南市黒江一帯ですから相当広いと思ってください)。それから4代後の森家の名前は森甚介正俊であるが、この時に森家は織田信長(守護大名)に属していた。ちょうど本能寺の乱の直前の頃で、地元の有力な武士たちは、ある場所で会議を開き、全員が織田に味方すると書簡を認め、森甚介にその書簡を杖に仕込んで京都に持って行かせ、織田に味方する旨伝えると共に(ここが凄いところですが)、明智光秀の元に行き、援軍をした場合の土地の配分を約束させています。そこで、森甚介の仕事を仲間たちが褒めたたえ、明智光秀の書簡を彼の所蔵品と決定した。小牧の戦いの時には徳川家康(守護大名)に仕え、大阪に出陣し三十六人署名した中の筆頭であった(父親が繰り返し私に、尚史、お前の先祖は、と聞かれたら、「紀州若山黒江の掾・森丹治五郎兵衛の子孫でござる」と答えなさい、と教えてくれたのは、この時の三十六人の筆頭ではないかと思います。現在小牧市に問い合わせ中です。この官位は律令制では天皇から派遣されるときの身分であり、守(かみ)は今でいう知事に当たり、輔(すけ)は副知事に当たり、掾はそれらを補佐する書記官のような身分だったようです)。次いで、豊臣秀吉一派に敗れた時は侍の身分を捨て、農民になります。これも凄いのは、敵方の羽柴秀長の起請文(戦に勝つことを神に祈る祈祷文)を森家が所蔵していることです。森家は日本一の鉄砲隊・雑賀衆に指令をする立場にあり、また雑賀衆は根来衆ともつながりがあったことから、彼らを使ってこのような秘密文書を手に入れていたものと思われます。その後、森家は様々な有力守護大名に使えます。蜂須賀家に仕えた後は、石山の合戦の時は一向宗に仕え、浅野家にも使えます。私が、元中央義士会の会員であり、今でも、寝付けないときは、義士銘々伝を聞いたりして、涙ぐむのはその頃の血が騒ぐのでしょう(ちなみに、三波春夫は中央義士会の顧問でした。彼の死後、俵星玄蕃のyoutubeにおける著作権の問題で、私は直接、三波春夫の娘さんと電話で話したことがあります。理事長になぜ中央義士会の役員にしないのか聞いたところ、大事に育てられ過ぎた住む世界が違う人は付き合いにくい、との話でしたが、私は気が合いました)。そして浅野家がお家断絶となった後はまた海南市黒江に帰り、徳川政権になった時は代々代官になりました。(この部分だけ、森家文書には、森勝右衛門正久は徳川南龍公に召し出され、地士となる、と書いてあります。しかし、普通の地士がわざわざ召し出される意味はありません。先祖から聞いた口伝の方が、説得力があります。最も、土佐と同様に、紀州の(広くて歴史のある地域なので全体だと断定はできませんが、海南市全体は、農民も漁師も普段は平民として暮らしながら、決まった時間には鉄砲隊の一員として統制の取れた軍事練習をしていました。詳しくは司馬遼太郎の「尻くらえ孫市」をお読みください。

さて、問題はこの後です。何故私の苗字が那田になったか、という問題が残ります。江戸時代最後の森家を継いだ森八三郎(後日、福三郎と改名)は、妻(公家の乳母)を連れて紀州から淡路島にわたり、寺々を伝って(つまり、普通の奉行の管轄外になる地域を伝って)現在の愛媛県西予市野村町小屋という愛媛と高知の県境にある(竜馬脱藩の道の直ぐ横)に居を構えます。そして学問があるので、地元有力者に可愛がられ、代書(行政書士、司法書士、弁護士の仕事をまとめたような仕事)に付くわけですが、紀州を立ち去った理由は、戊辰戦争の軍略上の考え方が違うことから、仲間に命を狙われたと言われています。(いうまでもなく紀州は佐幕派でしたから、勤王派の主張でもしたのでしょう)

面白いことに、彼は最後の森家の長男ながら、不行跡により(徳川御三家の旗本ですから、酒か、女か、博打か、刃傷沙汰でも起こしたのでしょう。事実、仲間が酒に酔って飲み屋の二階から、「おいハチ、一緒に飲もう」と言ったのに腹を立て、「武士に向かってイヌコロのように、ハチとは何事か!」と怒りのあまり決闘状を叩きつけたが、上役に説得されて鞘に納めたという話が伝わっています)、有馬家に養子に出されます。森家と有馬家は姻戚関係にありましたが、森家が純粋な武士だったのと異なり、有馬家は坂本竜馬と同じように、漆塗りの商売で儲け、両替商になってさらに豪商になり、一人ぐらいは武士にしようと、士株を買った一族でした。私は大学生の時に有馬家を訪ねたことがありますが、古くて大きな長屋あと(経営者だったようです)と、江戸時代から伝わる見事な先祖の墓石群を見また。後日、愛媛の親戚の有馬家が、後継ぎがいなくなったために、和歌山の有馬家に養子に入った時、格式があまりに高かったこと、反対派のジェラシーの激しさについていけず、養子を止めて愛媛に帰ってきたそうです。つまり、有馬福三郎の男の子たちの子孫が有馬家、女の方の子孫が那田家になったわけですが、森家の最後の長男の子孫ですから、森家の直系の子孫は愛媛の有馬家と那田家ということになります。というのも、有馬家を尋ねた時に、海南市黒江の森家をよく知る(文通している人がいました)人と会ったとき、有馬家の最後の一人は女性で北海道に嫁いでしまい、墓はもう和歌山にはない、と聞いたからです。和歌山には分家の森家は残っているでしょうが、本家は全て愛媛に渡ってしまったわけです。

そこで、最後の謎が生まれます。私の父親の母(私の祖父)は有馬お梅と言います。この人は地元の山本一之丞という男と結婚します。有馬と山本が結婚したのに何故那田になったのでしょう。武士が娘を嫁がせるのですから、山本という男性も、よほど頭が良かったのか、性格が良かったのか、大きな長所を持っていたと考えられます。実は、和歌山には那田家が一軒だけあり、そこにも訪ねていき、先祖の話を一晩かけて話合いました。大正生まれの引退した警官とその息子さんとの二人暮らしでした。戦前は平民は警官にはなれなかったので、武士かと思ったところ、勉強が好きで毎日図書館に通っている息子さんが言うには、那田の姓は紀州の旗本にはなく、おそらく、雑賀衆の隠れ苗字ではないか、と言われました。しかし、雑賀衆に指令を出していた、森家の子孫が雑賀衆の隠れ苗字を名乗る意味がありません。何しろ和歌山に一軒のこっているのですから、既に(由緒ある姓にしても)後継ぎができています。

何故、私が那田の姓を名乗っているのか、いまだに謎です。ただ、私はこの姓が気に入っていることと、那田尚史というのは姓も名前も珍しいので日本中に一人しかいないこと、また娘の朗理、も長男の千宝も同様に日本中で一人しかいません。那田の姓は東北地方にもあり、全部で30軒ほどが那田を名乗っているようですが、先祖の話と那田の姓の謎とでこれまで面白いブログを書けるのは私だけでしょう。このブログは子供たちが(小さい時に森家文書を教えたことがありますが、当時は無関心でした)森家の由来を知りたくなった時の手掛かりになるように、時間をかけて書きました。一部には先祖自慢とジェラシーの念を持つ人もいるかもしれませんが、そういう人は、相手にしません。