那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

ロベール・ブレッソン『田舎司祭の日記』(1950) 映画批評

2012年09月26日 | 書評、映像批評
このところ散逸した映画批評を復元しています。これもその一環です。映画ファンなら必見の作品、お奨めします。


ロベール・ブレッソン『田舎司祭の日記』(1950)

{あらすじ}

田舎の町に赴任してきた司祭が、「奇跡も何もない日常を日記につけていくことにする」と決意して、日常を記録していく。彼は胃が悪くパンをぶどう酒につけて食べるだけの食事を続けている。町の人たちは閉鎖的でなかなか心を開かない。
 町の名士である伯爵家では、伯爵と家庭教師の女性が不倫関係にある。それを知った娘が司祭に相談を持ちかける。司祭は伯爵の妻の悩みを聞きだす。妻は神を憎む心境だったが、司祭と話しているうちに心が開かれ、安らぎを得る。司祭の家に伯爵の妻から感謝の手紙が送られるが、その夜彼女はベッドから落ちて死亡する。
 彼女の死は、司祭が余計なことを妻に告げたために起こったのではないかと誤解を受ける。また、彼の食生活から、司祭はアルコール中毒患者だと村人の間に噂が広まる。
 司祭は悩みぬく。祈る勇気も生まれてこなくなる。遂に彼は道端で倒れ大量の吐血をする。
彼は電車に乗って都会の医院で診察を受ける。胃がんと告げられる。
 その帰り、元の司祭仲間で現在は女と暮らしている友人の家に行き、そこで再び倒れる。
画面に十字架が映る。司祭の上司のナレーションで彼が死んだことが語られる。最後彼は「全て神の思し召しです」と語って死んだことがわかる。

{批評}

どんなにつまらなくても一度は見なければならない映画というものがある。この作品もそうだ。私はブレッソンのファンだったが、この作品はどうにも気が進まず、長い間見ないで来た。
 まず、技術的なことから。一つのエピソードの前に日記が写され、その内容を司祭の声で読み上げる。そしてエピソードが終わると必ずフェイドアウトで画面が切り替わる。時間の省略はディゾルヴ。このルールがパラノイア的に守れていて、非常に折り目正しい、スタイリッシュな作品となっている。画面のつなぎは古典的な透明の編集。映像を異化するような実験的な編集は一度も現れない。

日記を見せて、なおかつ読むことで、次に展開する物語の大意が分かる。それに沿って映像が現れる。これは、徹底的にサスペンス性を排除した映画作りである。従って、ブレッソンの映画には、象徴性や、意味の連想(コノテーション)の要素がほとんどない。誤解の余地の全くない、中性的で清潔で、潔癖症の画面である。

この作品には、「ブローニュの森の貴婦人たち」や「スリ」や「抵抗」のようなカタルシスはない。これらの3作品は神の恩寵がハッピーエンドの形で現れる。この作品は「バルタザールどこへいく」「少女ムシェット」「ラルジャン」など、救済のない世界を描いた一連の作品の中で、もっとも地味で重苦しい作品である。おそらく、現代におけるキリストの苦悩を再現させたものだろう。

ブレッソンはジャンセニズムといわれるキリスト教の異端の信徒だった。運命予定説と自殺の肯定が特色だったと記憶している。ブレッソンによれば、人生は半分が予定通り、半分は偶然に進行するような感覚を持っている、と述べている。

この田舎司祭は敬虔な真面目すぎる男でありながら、映画の中では全くといっていいほど喜びなく、癌で死亡する。一度だけの喜びは、伯爵夫人の手紙で、「あなたのおかげで安らぎの気持ちになれた、あなたは私の子供です」と感謝の言葉を読んだときぐらいのものだ。
 キリストの人生も、マグダラのマリアが高価なオイルで体を洗ってくれたとき以外は、苦悩に覆われるものばかりで、最後には処刑される。「主よ、主よ、私をお見捨てになるのですか」との言葉を最後にキリストは息絶える。しかしキリスト教では、この死は人類の罪を背負っての身代わりの死であるとされる。田舎司祭の死もまたそのように解釈すべきなのだろう。最後のカットの十字架の固定長廻しがそれを意味している。

それにしても陰鬱な世界である。私は最近禅宗の高僧の本を読んでいるが、彼によれば、十字架の上で磔にあって死んだイエスは「気配りが足りない」の一言で切り捨てられていた。大悟に達すれば、そんな無残な死に方はしない。悠々自適と寿命を全うし、来世にどこに生まれるかまで悟って遷化する。この仏教の悟りの世界の歓喜や勇猛心と比較すると、キリスト教の運命への服従と忍耐は、重すぎる。が、現実にはこの田舎司祭の一生のような悲劇的連鎖で終わる場合も多く、ハッピーエンドの人生のほうが少ないかもしれない。

おそらく「田舎司祭の日記」の台詞のあちこちには非常に大切な教義の問題が隠れている。だから、この映画の本当の解説は、キリスト教の司祭が行うべきであろう。

なお、この作品には原作(ジョルジュ・ベルナノス)がある。また、こういう作品に最も向いている批評書としてポール・シュレイダーの「聖なる映画」がある。この本は私が繰り返し読んだ値打ちのある批評書だ。神の実在を証明するための映画、という特殊な映画を批評する特殊な方法論に基づいた本で、ぜひ一読をお奨めする。
 ちなみにこの作品はカトリック教会そのほか宗教団代から複数の賞を受けており、ブレッソン映画の完成作としてヨーロッパでは高い評価が与えられている。また、面白いことに研究者用の辞典を見ても、ブレッソンは、「天才」「奇人」「パラノイア」などの言葉で評されている。全く例外的な映画監督と言っていいだろう。