むらぎものロココ

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梶井基次郎覚え書き

2005-03-14 21:11:27 | 本と雑誌
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梶井基次郎(1901-1932)
  
梶井基次郎「若き詩人の手紙」(角川文庫)

1920年(大正9年)9月9日畠田敏夫宛書簡
「元来身体が悪いので四六時中安静にしていることができない、机の前にすわっても不自然だし(不自由と訂正すこの自由という要件はすわっていてもすわっているというような気のしないこと、まったく足のやり場などの無心にありうること、心が肉体の苦痛によりその甘き想像を犯されざること)横になっても本が読めないゆえに大根の種をまくために兄さんが耕しておいた畑の土の上へ、身体を横たえて、夜露のちゅるちゅる啼くのをききたいのは必然なんだ、ちょうど海を見て飛びこみたくなるのと同じところだ。それに俺は空の星を見ると無際限という気がすーっと頭へしみて本当に聖い想像に身を狂わせることに悦楽を感じるんだ。」

梶井基次郎のこの書簡の文章で注目に値するのは、自己の身体を常に意識せざるを得ず、そのことを不自由と感じていることだ。病により、自己の身体が自己とは別の何かのように思えるということはよくあることだが、このような身体の分裂は梶井の中に大きな影を落とすことになる。このような不自由さを感じるということは、対象を常に異化していくことと結びつく。つまり梶井のこの病が、彼の感受性の身体的根拠となっているのである。分裂から再融合へ向かう欲求も強くあらわれる。それは自然との直接的な接触を通じて胎内回帰願望にも似た全的な連関が求められているし、それが大いなるエロスという、プラトン的な調子で表されている。

1922年(大正11年)4月14日近藤直人宛書簡
「私は近ごろ詩を作ります。みな未成品ばかりです。音楽および絵画のような効果をもたらす詩です。いろいろな色彩的な文字でデコボコに塗って、シンフォニーだと言ってやるつもりです。」

ここでは創作についての考え方を読み取ることができるが、視覚的なイメージを強調している。しかし、ある意味では、色彩のトーンや配色の様々な組み合わせに音楽を聴き取ろうとしていることがうかがえる。梶井が文学において文字のもたらす効果や、言葉の音楽性、そして手法を意識化することの重要性に気づいているのは興味深い。音を見ること、色彩を聴き取ること、このような感覚の錯綜は、あらゆる領域へと広がっていくだろう。
イメージの置換、アナロジー。

1922年(大正11年)7月7日宇賀康宛書簡
「俺は刻々と偉大になってゆく。考えてみると俺の結晶は素敵に長くかかるような気がする。それだけコンパクトな麗しいものが光を放つようになると思っている。混沌(カーオス)はだんだん広がってゆく、すなわち偉大なる宇宙(コスモス)を造るために。」
 
この文章は、梶井基次郎の代表作「檸檬」を予言しているようでさえある。そして、彼の思考のパターンを示す一つの例でもある。結晶化、そして混沌から宇宙へというような、プリゴジーヌ的生成。シュトルム・ウント・ドランクとしての彼の生活から色鮮やかなレモンが生成する。

1923年(大正12年)1月28日宇賀康宛書簡
「この間病者孤独論を草して君に捧げようと思ったが、論旨をデベロープするのにこじれてしまって、可惜、名論文は堕胎されてしまったが、この一端をここに言えば。結論は病人は彼の苦痛においてユニークなアインザムなものでそれを看護する人や慰める人の愛が素直に受け入れられないというのである。……感覚の記憶ということが、ただ概念としてしまい込まれているだけで、記憶を再現する時に如実に感覚の上に再現できないことであると思う。……人間が登りうるまでの精神的の高嶺に達し得られない最も悲劇的なものは短命だと自分は思う。……自分はファウストの貯積せられた知識が欲しくって仕方がない。」
 
病者孤独論とは、他者と共有しえないものを持っているがゆえ孤独を感じてしまうことを言っているのであり、それが病気であろうと詩的感受性であろうと同じことだ。このように梶井基次郎の場合は、病と才能が同義的にとらえられていることがわかる文章が多く、ここからも「感受性の身体的根拠としての病」の機能が見て取れる。
病んでいるという自覚から、自分に残されている時間がわずかしかないことを特に思い知らざるを得ないとき、しかし学ばなければならない知識や高めていくべき人格といった理想とするものとの距離に絶望せざるを得ない。この落差がアイロニーを生み、その落差が横滑り式にずれていく。すると、ファウスト的知性への憧憬といったものが、いつのまにか、無為な生活に甘んじてしまうことにすりかわっていく。
梶井基次郎にとって表現行為とは、概念としてしまいこまれてしまったものに具体的な感覚を付与し、再び生き生きとしたものにすることだろう。

1927年(昭和2年)5月6日淀野隆三宛書簡
「僕はだんだん意識して静的なものを書いてゆくつもりだ。このごろは誰も動的Dynamicということを心がけているようだが、僕は反対にますますStaticなものを書いてゆこうと思っている。」
 
湯ヶ島での療養生活で、梶井基次郎は病を克服するというよりは、病と共存するとでもいった境地に至ったのではないか。それから彼は、自己を無にして、一つの分光器のように対象をありのままに観察していくようになる。しかし、このことによって、病に閉じこめられていた彼の自我は、驚くべき自由度を獲得し、視点は様々な対象へと転化されていき、そのような複数の視点の交錯する場所としてのテクストが展開されていく。これはいわば「静中の動」といったもので、ここから梶井基次郎と西田幾多郎の「場所」とのつながりを見ることができるように思う。

1927年(昭和2年)11月11日淀野隆三宛書簡
「『器楽的幻想』とは自分かってな言葉だが器楽が達者に弾かれると下手がやればいかにも楽器でその音を作っているような気がするのと反対に音がその動作と遊離し動作がまた音とは遊離しているような幻想が起こる。」
 
楽器を操作していると意識することもまた不自由ということで、病のために自己の身体を意識せざるを得ない梶井の不自由と重なることは言うまでもない。反対に、自由に演奏された音楽は、まさにイデアのように天から降ってくる。弾いているのに弾いていないようなそして音楽の表情が演奏の狂いによって少しも乱されないということ。このようなイデアを梶井基次郎は求め続けていたのではないか。技術・手法を意識することなしにそれをこえた何かを彼は求め、受け入れようとした。「器楽的幻想」という彼の短編はコンサートホールの観客席で不意に自己の孤独を自覚する男の話だ。これはつまり、音楽に陶酔している間は、それによって自己と身体の分裂、他者との乖離などを忘却することができるということで、さきの「病者孤独論」とも関係してくる作品だと言える。

1927年(昭和2年)12月14日北川冬彦宛書簡
「心に生じた徴候は生きるよりもむしろ死へ突入しようとする傾向だ(しかし、これは現実的にというよりも観念的であるから現実的な心配はいらない)僕の観念は愛を拒否しはじめ社会共存から脱しようとし、日光より闇を嬉(ママ)ぼうとしている。僕はこのごろになって『冬の日』の完結が書けるようになったことを感じている。しかしこんなことは人性の本然に反した矛盾で、対症療法的である。特殊な心の状態にしか価値を持たぬことだ。しかし僕はそういった思考を続け作を書くことを続ける決心をしている。」

生から死へ。しかしこれは死から生へという運動に転換する。日光より闇。しかしそれは再び日光と向き合うための運動なのだ。カオスからコスモスへと生成する運動なのだ。特殊な心の状態にしか価値を持たないことを知りながらも彼はなぜ言うところの「対症療法的な作品」を書こうと決心したのだろうか。「病者孤独論」を思い出そう。他者から理解されないゆえに孤立してしまう存在は書くことで他者と関係しようとする。
 
梶井基次郎は、自己の心身の分裂を自覚すると同時に自我と宇宙の分裂にも気づいていた。それを再統合するため当初はファウスト的に、つまり自我によって全てを支配しようとする傾向を持っていたが、やがて、自己を無にすることで対象をありのままにとらえうるような境地に至る。これは主客未分といった非対象的な思惟へと向かうわけだが、しかし、自己と対象がなしくずしに癒着してしまうのではない。西田幾多郎の言う「場所」において、自己も対象も包まれて連関しているのである。これは病を克服しようとすることから病とたわむれ、共存しようとするプロセスなのだ。すなわち病と自己との絶対矛盾的自己同一。