むらぎものロココ

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探偵小説の光と闇

2005-03-03 01:02:18 | 本と雑誌
野崎六助「北米探偵小説論」 インスクリプト(河出書房新社)

原稿用紙3千枚を費やして書かれたこの本はミステリ評論家としての著者の実存を賭けた畢生のライフワークと言っていいと思う。すべてをこの1冊に投入しようとする狂おしいまでの情熱がひしひしと伝わる。

本のタイトルは「北米探偵小説論」だが、例えばフォークナーやフィッツジェラルドといった作家も論じているし、スタージョンやP・K・ディックといったSF作家を論じたりもしている。また、サム・ペキンパーの映画「ワイルド・バンチ」についても論じられている。そもそも、この本は1910年代から80年代にかけてのアメリカ社会のなかでミステリがどのように書かれてきたかを問うもので、ジャズ・エイジの未曾有の繁栄から大恐慌、第二次世界大戦、世界の覇権を握って以降のベトナムでの失敗、経済的な落ち込みといった流れのなかでミステリは社会の病んだ部分と向き合ってきたとする。そこには社会の矛盾を一身に背負わされたマイノリティの存在があった。アメリカの左翼の政治的な闘争と挫折、黒人やその他の移民たちが受けた差別、社会復帰できないベトナム帰還兵、そしてフリークスやジャンキーといった存在。
こうした視点からミステリを読むと、ヴァンダインのファイロ・ヴァンスは知識人の挫折の物語となり、エラリー・クイーンは成熟に失敗した天才少年の成れの果てになり、ハメットの「血の収穫」の背景にはピンカートン探偵社がスト破りを請け負っていたことが改めて強調されていく。
これらはヒーローとして登場した探偵の没落を意味する。ハードボイルドはヒーローとしてのアイデンティティを守るために行動するタフな主人公を持ったが、社会が複雑化していき、闇が深くなればなるほどヒーローは無力な存在にならざるを得ないのだ。
そこに左翼的なセンチメンタリズムを感じないわけではないが、著者がアメリカの探偵小説から聞き取るものは挫折した者の悲しみであり、無力な者たちのうめき声だ。そしてこの本もまた「虚無への供物」なのだろう。社会の病んだ部分に触れながらもそれをエンターテインメントとしてのみ消費する出版界と読者の存在に対するものとしての。