「ピアニストを撃て」(Tirez sur le Pianiste)
1960年フランス
監督:フランソワ・トリュフォー
脚本:フランソワ・トリュフォー、マルセル・ムーシー
音楽:ジョルジュ・ドルリュー
出演:シャルル・アズナヴール、マリー・デュボワ、ニコル・ベルジェ、アルベール・レミー他
原作:デイヴィッド・グーディス(Down There)
映画のオープニングではジョルジュ・ドルリューによる音楽を、普段はあまり意識されないピアノのメカニズムの、つまりハンマーとダンパーの運動として視覚化している。このことは、これから始まる映画において普段はあまり意識されないカメラの運動に注目することを要請する。実際、この映画では意図したにせよしないにせよ、カメラの影が画面に映りこんでいる。また、本来透明なものの可視化という点では、車のフロントガラスの汚れがある。
トリュフォーは「ピアニストを撃て」の主人公を自分に似た者として描いたという。それは内気という性格的類似だけではないだろう。光と影をコントロールしながら映画をつくる存在である映画監督と白鍵と黒鍵を操り、音楽を演奏する存在であるピアニストという類似。アストリュックの「カメラ=万年筆」ならぬトリュフォーの「カメラ=ピアノ」。ゴダールは「カルメンという名の女」でラジカセをかついでそれを「音の出るカメラ」と言っていた。また、グレン・グールドは自らの演奏をデタッチメント(距離を置くこと)と言った。感情的に音楽に溺れるのではなく身体的にピアノと一体化すること。映画監督もまた、映画の世界に感情的に溺れることなく、身体的にカメラと一体化する。
暗黒叢書(セリ・ノワール=探偵小説、犯罪小説などの総称)の魅惑。
ヌーヴェル・ヴァーグの映画作家たちにとって、セリ・ノワール、あるいはフィルム・ノワールと呼ばれるハードボイルド・タッチのアメリカ映画は少年の頃に熱中したものであり、そのときの興奮が映画をつくるうえで大きく影響している。「極端にロマンティックな筋立てと極端に現実的な人物描写を混ぜ合わせたおとぎばなし」(エラリー・クイーン)であるそれらに、トリュフォーはコクトーに共通するものを見出す。
「アメリカの犯罪小説、いわゆるハードボイルド小説に、わたしはコクトーと共通する何かを見出すのです。デイヴィッド・グーディスの原作に見出したのも、コクトー的雰囲気に彩られたお伽噺そのものでした。そしてギャング映画を ”むかし、むかし、あるところに……”というスタイルで描くつもりで『ピアニストを撃て』を撮ってみたのです」
コクトー的雰囲気。それは夢や幻想、そして鏡、あるいはフィルムの逆回転ということになるだろうか。「ピアニストを撃て」のなかには鏡が様々なところに出てくるし、シャルリとレナのキス・シーンとレナの部屋をパンしていく映像がオーヴァー・ラップし、二人がベッドの中にいる場面に着地する部分はコクトー的と言えなくもない。
鏡・愛・死をめぐって(ミシェル・レリスにもいくらかの目配せを)
1.クラリスに彼女が初めて経験した仕事(骸骨ショー)のことを語る台詞がある。彼女が全裸で棺桶に横たわるのを男たちが鏡を通して凝視するというもの。ここでは対象を間接的に見るという倒錯が語られるとともに、鏡と死(棺桶)がさりげなく結びついている。
2.シャルリとレナが二人で歩いているとき、ギャングたちが後をつけていることに気づいたレナが手鏡を差し出し、そこにギャング二人の顔が映る。現実にはありえないが、ファンタジックな印象を与える。
3.テレザがエドゥワール(シャルリ)に告白をする場面での台詞
「私は鏡を見る、これが私? これがテレザ? 違うわ、テレザじゃないわ、別人よ」
興行主との「ある取引」に応じたテレザはそのことによって引き裂かれてしまう。似ているが同じではない鏡に映った自分の姿を彼女はどうすることもできない。鏡の距離、埋めることのできない自分自身との距離(見ないことの不可能性)。
4.雪の山小屋で割れた鏡に映るシャルリの姿がある。シャルリもまた二重に引き裂かれている。思考と行為がずれ、常に遅れる。この遅れが彼を取り返しのつかない状況に追いやる。臆病さ、内気さと呼ばれる彼のこのような性格は、そもそも家族の中で一人だけ音楽の才能を認められ音楽院に入り、今までとまったく違った環境に置かれてからのことではないだろうか。兄弟のいる隠れ家の中で、彼は自分に流れている先祖の血について考える。自分は誰なのか。
「ピアニストを撃て」自体がことごとくずれた映画で、サスペンスに満ちた緊張感のある場面から弛緩した場面に変わるなど、テンポやムードがめまぐるしく変化する。犯罪映画であり、恋愛映画であり、喜劇であり悲劇であり、というように様々な要素が混在してもいるし、場面と台詞もずれている(ギャングたちのおしゃべり―語らないことの不可能性)。ずれを保持しながら複数のセリーが戯れる対位法的な映画。
→山田宏一「探偵小説とヌーヴェル・ヴァーグ」
宮川淳「鏡について」(「鏡・空間・イマージュ」所収)
松浦寿輝「グールドの肉体」(現代詩文庫「松浦寿輝詩集」所収)
1960年フランス
監督:フランソワ・トリュフォー
脚本:フランソワ・トリュフォー、マルセル・ムーシー
音楽:ジョルジュ・ドルリュー
出演:シャルル・アズナヴール、マリー・デュボワ、ニコル・ベルジェ、アルベール・レミー他
原作:デイヴィッド・グーディス(Down There)
映画のオープニングではジョルジュ・ドルリューによる音楽を、普段はあまり意識されないピアノのメカニズムの、つまりハンマーとダンパーの運動として視覚化している。このことは、これから始まる映画において普段はあまり意識されないカメラの運動に注目することを要請する。実際、この映画では意図したにせよしないにせよ、カメラの影が画面に映りこんでいる。また、本来透明なものの可視化という点では、車のフロントガラスの汚れがある。
トリュフォーは「ピアニストを撃て」の主人公を自分に似た者として描いたという。それは内気という性格的類似だけではないだろう。光と影をコントロールしながら映画をつくる存在である映画監督と白鍵と黒鍵を操り、音楽を演奏する存在であるピアニストという類似。アストリュックの「カメラ=万年筆」ならぬトリュフォーの「カメラ=ピアノ」。ゴダールは「カルメンという名の女」でラジカセをかついでそれを「音の出るカメラ」と言っていた。また、グレン・グールドは自らの演奏をデタッチメント(距離を置くこと)と言った。感情的に音楽に溺れるのではなく身体的にピアノと一体化すること。映画監督もまた、映画の世界に感情的に溺れることなく、身体的にカメラと一体化する。
暗黒叢書(セリ・ノワール=探偵小説、犯罪小説などの総称)の魅惑。
ヌーヴェル・ヴァーグの映画作家たちにとって、セリ・ノワール、あるいはフィルム・ノワールと呼ばれるハードボイルド・タッチのアメリカ映画は少年の頃に熱中したものであり、そのときの興奮が映画をつくるうえで大きく影響している。「極端にロマンティックな筋立てと極端に現実的な人物描写を混ぜ合わせたおとぎばなし」(エラリー・クイーン)であるそれらに、トリュフォーはコクトーに共通するものを見出す。
「アメリカの犯罪小説、いわゆるハードボイルド小説に、わたしはコクトーと共通する何かを見出すのです。デイヴィッド・グーディスの原作に見出したのも、コクトー的雰囲気に彩られたお伽噺そのものでした。そしてギャング映画を ”むかし、むかし、あるところに……”というスタイルで描くつもりで『ピアニストを撃て』を撮ってみたのです」
コクトー的雰囲気。それは夢や幻想、そして鏡、あるいはフィルムの逆回転ということになるだろうか。「ピアニストを撃て」のなかには鏡が様々なところに出てくるし、シャルリとレナのキス・シーンとレナの部屋をパンしていく映像がオーヴァー・ラップし、二人がベッドの中にいる場面に着地する部分はコクトー的と言えなくもない。
鏡・愛・死をめぐって(ミシェル・レリスにもいくらかの目配せを)
1.クラリスに彼女が初めて経験した仕事(骸骨ショー)のことを語る台詞がある。彼女が全裸で棺桶に横たわるのを男たちが鏡を通して凝視するというもの。ここでは対象を間接的に見るという倒錯が語られるとともに、鏡と死(棺桶)がさりげなく結びついている。
2.シャルリとレナが二人で歩いているとき、ギャングたちが後をつけていることに気づいたレナが手鏡を差し出し、そこにギャング二人の顔が映る。現実にはありえないが、ファンタジックな印象を与える。
3.テレザがエドゥワール(シャルリ)に告白をする場面での台詞
「私は鏡を見る、これが私? これがテレザ? 違うわ、テレザじゃないわ、別人よ」
興行主との「ある取引」に応じたテレザはそのことによって引き裂かれてしまう。似ているが同じではない鏡に映った自分の姿を彼女はどうすることもできない。鏡の距離、埋めることのできない自分自身との距離(見ないことの不可能性)。
4.雪の山小屋で割れた鏡に映るシャルリの姿がある。シャルリもまた二重に引き裂かれている。思考と行為がずれ、常に遅れる。この遅れが彼を取り返しのつかない状況に追いやる。臆病さ、内気さと呼ばれる彼のこのような性格は、そもそも家族の中で一人だけ音楽の才能を認められ音楽院に入り、今までとまったく違った環境に置かれてからのことではないだろうか。兄弟のいる隠れ家の中で、彼は自分に流れている先祖の血について考える。自分は誰なのか。
「ピアニストを撃て」自体がことごとくずれた映画で、サスペンスに満ちた緊張感のある場面から弛緩した場面に変わるなど、テンポやムードがめまぐるしく変化する。犯罪映画であり、恋愛映画であり、喜劇であり悲劇であり、というように様々な要素が混在してもいるし、場面と台詞もずれている(ギャングたちのおしゃべり―語らないことの不可能性)。ずれを保持しながら複数のセリーが戯れる対位法的な映画。
→山田宏一「探偵小説とヌーヴェル・ヴァーグ」
宮川淳「鏡について」(「鏡・空間・イマージュ」所収)
松浦寿輝「グールドの肉体」(現代詩文庫「松浦寿輝詩集」所収)
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