むらぎものロココ

見たもの、聴いたもの、読んだものの記録

梶井基次郎覚え書き

2005-03-14 21:11:27 | 本と雑誌
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梶井基次郎(1901-1932)
  
梶井基次郎「若き詩人の手紙」(角川文庫)

1920年(大正9年)9月9日畠田敏夫宛書簡
「元来身体が悪いので四六時中安静にしていることができない、机の前にすわっても不自然だし(不自由と訂正すこの自由という要件はすわっていてもすわっているというような気のしないこと、まったく足のやり場などの無心にありうること、心が肉体の苦痛によりその甘き想像を犯されざること)横になっても本が読めないゆえに大根の種をまくために兄さんが耕しておいた畑の土の上へ、身体を横たえて、夜露のちゅるちゅる啼くのをききたいのは必然なんだ、ちょうど海を見て飛びこみたくなるのと同じところだ。それに俺は空の星を見ると無際限という気がすーっと頭へしみて本当に聖い想像に身を狂わせることに悦楽を感じるんだ。」

梶井基次郎のこの書簡の文章で注目に値するのは、自己の身体を常に意識せざるを得ず、そのことを不自由と感じていることだ。病により、自己の身体が自己とは別の何かのように思えるということはよくあることだが、このような身体の分裂は梶井の中に大きな影を落とすことになる。このような不自由さを感じるということは、対象を常に異化していくことと結びつく。つまり梶井のこの病が、彼の感受性の身体的根拠となっているのである。分裂から再融合へ向かう欲求も強くあらわれる。それは自然との直接的な接触を通じて胎内回帰願望にも似た全的な連関が求められているし、それが大いなるエロスという、プラトン的な調子で表されている。

1922年(大正11年)4月14日近藤直人宛書簡
「私は近ごろ詩を作ります。みな未成品ばかりです。音楽および絵画のような効果をもたらす詩です。いろいろな色彩的な文字でデコボコに塗って、シンフォニーだと言ってやるつもりです。」

ここでは創作についての考え方を読み取ることができるが、視覚的なイメージを強調している。しかし、ある意味では、色彩のトーンや配色の様々な組み合わせに音楽を聴き取ろうとしていることがうかがえる。梶井が文学において文字のもたらす効果や、言葉の音楽性、そして手法を意識化することの重要性に気づいているのは興味深い。音を見ること、色彩を聴き取ること、このような感覚の錯綜は、あらゆる領域へと広がっていくだろう。
イメージの置換、アナロジー。

1922年(大正11年)7月7日宇賀康宛書簡
「俺は刻々と偉大になってゆく。考えてみると俺の結晶は素敵に長くかかるような気がする。それだけコンパクトな麗しいものが光を放つようになると思っている。混沌(カーオス)はだんだん広がってゆく、すなわち偉大なる宇宙(コスモス)を造るために。」
 
この文章は、梶井基次郎の代表作「檸檬」を予言しているようでさえある。そして、彼の思考のパターンを示す一つの例でもある。結晶化、そして混沌から宇宙へというような、プリゴジーヌ的生成。シュトルム・ウント・ドランクとしての彼の生活から色鮮やかなレモンが生成する。

1923年(大正12年)1月28日宇賀康宛書簡
「この間病者孤独論を草して君に捧げようと思ったが、論旨をデベロープするのにこじれてしまって、可惜、名論文は堕胎されてしまったが、この一端をここに言えば。結論は病人は彼の苦痛においてユニークなアインザムなものでそれを看護する人や慰める人の愛が素直に受け入れられないというのである。……感覚の記憶ということが、ただ概念としてしまい込まれているだけで、記憶を再現する時に如実に感覚の上に再現できないことであると思う。……人間が登りうるまでの精神的の高嶺に達し得られない最も悲劇的なものは短命だと自分は思う。……自分はファウストの貯積せられた知識が欲しくって仕方がない。」
 
病者孤独論とは、他者と共有しえないものを持っているがゆえ孤独を感じてしまうことを言っているのであり、それが病気であろうと詩的感受性であろうと同じことだ。このように梶井基次郎の場合は、病と才能が同義的にとらえられていることがわかる文章が多く、ここからも「感受性の身体的根拠としての病」の機能が見て取れる。
病んでいるという自覚から、自分に残されている時間がわずかしかないことを特に思い知らざるを得ないとき、しかし学ばなければならない知識や高めていくべき人格といった理想とするものとの距離に絶望せざるを得ない。この落差がアイロニーを生み、その落差が横滑り式にずれていく。すると、ファウスト的知性への憧憬といったものが、いつのまにか、無為な生活に甘んじてしまうことにすりかわっていく。
梶井基次郎にとって表現行為とは、概念としてしまいこまれてしまったものに具体的な感覚を付与し、再び生き生きとしたものにすることだろう。

1927年(昭和2年)5月6日淀野隆三宛書簡
「僕はだんだん意識して静的なものを書いてゆくつもりだ。このごろは誰も動的Dynamicということを心がけているようだが、僕は反対にますますStaticなものを書いてゆこうと思っている。」
 
湯ヶ島での療養生活で、梶井基次郎は病を克服するというよりは、病と共存するとでもいった境地に至ったのではないか。それから彼は、自己を無にして、一つの分光器のように対象をありのままに観察していくようになる。しかし、このことによって、病に閉じこめられていた彼の自我は、驚くべき自由度を獲得し、視点は様々な対象へと転化されていき、そのような複数の視点の交錯する場所としてのテクストが展開されていく。これはいわば「静中の動」といったもので、ここから梶井基次郎と西田幾多郎の「場所」とのつながりを見ることができるように思う。

1927年(昭和2年)11月11日淀野隆三宛書簡
「『器楽的幻想』とは自分かってな言葉だが器楽が達者に弾かれると下手がやればいかにも楽器でその音を作っているような気がするのと反対に音がその動作と遊離し動作がまた音とは遊離しているような幻想が起こる。」
 
楽器を操作していると意識することもまた不自由ということで、病のために自己の身体を意識せざるを得ない梶井の不自由と重なることは言うまでもない。反対に、自由に演奏された音楽は、まさにイデアのように天から降ってくる。弾いているのに弾いていないようなそして音楽の表情が演奏の狂いによって少しも乱されないということ。このようなイデアを梶井基次郎は求め続けていたのではないか。技術・手法を意識することなしにそれをこえた何かを彼は求め、受け入れようとした。「器楽的幻想」という彼の短編はコンサートホールの観客席で不意に自己の孤独を自覚する男の話だ。これはつまり、音楽に陶酔している間は、それによって自己と身体の分裂、他者との乖離などを忘却することができるということで、さきの「病者孤独論」とも関係してくる作品だと言える。

1927年(昭和2年)12月14日北川冬彦宛書簡
「心に生じた徴候は生きるよりもむしろ死へ突入しようとする傾向だ(しかし、これは現実的にというよりも観念的であるから現実的な心配はいらない)僕の観念は愛を拒否しはじめ社会共存から脱しようとし、日光より闇を嬉(ママ)ぼうとしている。僕はこのごろになって『冬の日』の完結が書けるようになったことを感じている。しかしこんなことは人性の本然に反した矛盾で、対症療法的である。特殊な心の状態にしか価値を持たぬことだ。しかし僕はそういった思考を続け作を書くことを続ける決心をしている。」

生から死へ。しかしこれは死から生へという運動に転換する。日光より闇。しかしそれは再び日光と向き合うための運動なのだ。カオスからコスモスへと生成する運動なのだ。特殊な心の状態にしか価値を持たないことを知りながらも彼はなぜ言うところの「対症療法的な作品」を書こうと決心したのだろうか。「病者孤独論」を思い出そう。他者から理解されないゆえに孤立してしまう存在は書くことで他者と関係しようとする。
 
梶井基次郎は、自己の心身の分裂を自覚すると同時に自我と宇宙の分裂にも気づいていた。それを再統合するため当初はファウスト的に、つまり自我によって全てを支配しようとする傾向を持っていたが、やがて、自己を無にすることで対象をありのままにとらえうるような境地に至る。これは主客未分といった非対象的な思惟へと向かうわけだが、しかし、自己と対象がなしくずしに癒着してしまうのではない。西田幾多郎の言う「場所」において、自己も対象も包まれて連関しているのである。これは病を克服しようとすることから病とたわむれ、共存しようとするプロセスなのだ。すなわち病と自己との絶対矛盾的自己同一。


ワインズバーグ・オハイオ

2005-03-13 16:42:02 | 本と雑誌
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Sherwood Anderson(1876-1941)

「ワインズバーグ・オハイオ」(新潮文庫、講談社文芸文庫)

この小説の舞台となっているのはアメリカ中西部にあるワインズバーグという架空の田舎町である。アンダスンはそこに生活する人々を25の連作短篇で描き、そこにジョージ・ウィラードという、作家志望でローカル紙の新聞記者をやっている若者を登場させて諸短篇を貫く有機的な紐帯としている。
時代から取り残されたような閉鎖的な田舎町の、どうにもならない痛ましさを描いていくアンダスンの筆致はストイックなものだ。架空の町を舞台にした連作というアンダスンの手法はフォークナーに影響を与え、その乾いた文体はヘミングウェイに影響を与えたと言われている。
どの話にも誰からもまともに相手にされないような、孤独で、重い過去を引きずり、理解に苦しむ考えを持った偏屈な人物が出てくる。「ワインズバーグ・オハイオ」は因習に満ちた社会の中で、そのような人物たちが心の中に抱えている抑圧されたものをコントロールすることができなくなって爆発させる瞬間を劇的に結晶化したことによる強いインパクトを持っていて、読んでいるうちに偏屈な人物たちの暗い話に人生の真実みたいなものが垣間見え、「売り物にならないひしゃげた林檎の味のよさ」に思わず引き込まれていく。
ohioアンダスンは、都市化が進み、マスメディアが発達することによって、みんなが同じ記事を読み、同じように物事を考えるようになり、個人がどんどん均質化していくことに危惧を抱いていた。この小説の序章的なものである「グロテスクなものについての書」には、「世界が若かった頃は至る所に真理があり、それらは全て美しかった」とある。ところが、人間がそのうちのどれか一つを自分の真理と呼び、それに従って生きるようになると真理は虚偽と化し、グロテスクなものになると言う。アンダスンはそうしたグロテスクな人間の姿を冷徹に見つめながらも告発するようなことはせずに(なぜなら、そうすることは自らもグロテスクになることだから)この小説を書くことによって再び美しいものへと、真理へとかえしていくのだ。
ちなみに、新潮文庫の表紙は夏の終わり、思い出がゆらゆらと輪郭を失い、かすんでいくようなイメージがとても美しい。


マルセル・デュシャン

2005-03-12 05:02:00 | アート・文化
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Marcel Duchamp
「テーブルを囲むデュシャン」1917
Marcel Duchamp autour d'une table

横浜美術館「マルセル・デュシャンと20世紀美術」展を見に行った。

この展覧会は7つのセクションに分かれている。
1.画家だったデュシャン
2.レディ・メイド(既製品を用いた芸術作品)
3.≪彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも≫(通称「大ガラス」)とその周辺
4.ローズ・セラヴィ(デュシャンの女性分身)
5.≪彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも≫制作放棄以後
6.デュシャンへのオマージュ
7.≪与えられたとせよ 1.落ちる水 2.照明用ガス≫(「遺作」)とその周辺

この7つのセクションを順にたどっていくことで、デュシャンの作品を編年体で見ていくことができるとともに、それぞれの作品に影響を受けた(引用とパロディ)他の作家の作品と見比べることができるように配置されている。初期のキュビズム的な絵画を見ることができるのと、立体写真であるにせよデュシャンの遺作を覗き見することができるというのはいいと思うが、「Tu'm」という、最後の絵画作品を見られなかったのは残念だ。

デュシャンは「芸術家が使用する絵の具のチューブは既製品だからあらゆる油絵は『手を加えたレディ・メイド』だ」と言った。そしてデュシャンは洒落や地口を好む。言葉もまたレディ・メイドであり、洒落や地口によって意味をずらされるというわけだが、それはルイス・キャロルやレーモン・ルーセルと関連づけられるし、ジャック・ラカンやジャック・デリダと結びつけたりもできるだろう。

デュシャンの作品に影響を受けた作品は、デュシャンの作品につけられたタイトルを文字通りそのままやってみたというものが多かった。これらの作品が並置されるとき、その間にはウィトゲンシュタイン的、もしくは吉本興業的空間が現出するだろう。レオナルドの「モナリザ」に髭をつけた「L.H.O.O.Q」というのは、そのアルファベをフランス読みすればElle a chaud au cul(彼女の尻は熱い)となるが、その作品に対して燃えた椅子の残骸を提示し、それは熱い尻のせいで燃えたのだとするアルマンの作品や日本人にしかわからないが、巨大なカラス=大ガラスというオヤジギャグを臆面もなくやってみせた吉村益信の作品、「階段を降りる裸体」というキュビズム的、あるいは未来派的な絵画作品に対して、全裸の女性が階段を降りていく久保田成子の「デュシャンピアナ」(映像)とゲルハルト・リヒターの「エマ」(写真)などなど。誰でも思いつくようなものといえばそれまでだが、実際にやってしまうところが芸術家たるゆえんなのだろう。しかしそれらの作品に驚きのようなものはあまり感じられなかった。


レニーの門下生たち

2005-03-11 21:09:00 | jazz
koniLEE KONITZ WITH WARNE MARSH
Lee Konitz(as) Warne Marsh(ts)
Sal Mosca(p) Billy Bauer(g)
Oscar Pettiford(b) Kenny Clarke(ds)
Ronnie Ball(p)

リー・コニッツとウォーン・マーシュ、そしてピアノのサル・モスカ、ギターのビリー・バウアーの4人がトリスターノの門下生であり、ベースのオスカー・ペティフォードとドラムのケニー・クラークはバド・パウエルとトリオを組んだこともあるバッパーであるが、ここでは基本的にトリスターノ派のスタイルに沿った演奏をしている。
コニッツとマーシュの息の合ったユニゾンやそれぞれのエレガントなソロがなんといっても素晴らしい。

収録曲
1.TOPSY
2.THERE WILL NEVER BE ANOTHER YOU
3.I CAN'T GET STARTED
4.DONNA LEE
5.TWO NOT ONE
6.DON'T SQUAWK
7.RONNIE'S LINE
8.BACKGROUND MUSIC


レニーは厳格な音楽教師

2005-03-10 20:41:00 | jazz
tristano



Lennie Tristano/The New Tristano

アトランティックに残した2枚のアルバムをまとめた2in1CD。
トリスターノの音楽は、ビバップのホットな演奏とは対照的なものであるとしてクール・ジャズと呼ばれた。
彼はジャズの私塾を開き、リー・コニッツやウォーン・マーシュを輩出したことで知られている。門下生たちはトリスターノ派と呼ばれるようになるが、トリスターノの偏屈さが原因なのか、次第に彼から距離を置くようになる。
トリスターノは自分の演奏を録音したテープの速度を変えて、音のピッチを変化させたり、奇妙な音色にしたり、ピアノを多重録音したりした。こうした試みは、ポリフォニックな効果を狙うということもあるだろうし、自分のピアノのタッチを消すとか主観から逃れて客観的に自分の音楽をとらえるといったことでもあるだろう。また、テクニックの追求ではなく、録音技術、つまりテクノロジーの可能性とそれが音楽に与える影響などを意識したという点でトリスターノは先駆的なミュージシャンだった。
彼はリズムには禁欲的でひたすらキープし、キープさせる。ベースのピーター・インドはいじめられているみたいだし、トリスターノ自身による徹底した鬼のような左手のリズム・キープは頑固、厳格、偏執といった言葉と結びつく。しかし、それだけではないということはリー・コニッツと共演した演奏から窺うことができる。

収録曲
Lennie Tristano
1.LINE UP
2.REQUIEM
3.TURKISH MAMBO
4.EAST THIRTY-SECOND
Personel
Lennie Tristano(p)
Peter Ind(b)
Jeff Morton(ds)

5.THESE FOOLISH THINGS
6.YOU GO TO MY HEAD
7.IF I HAD YOU
8.GHOST OF A CHANCE
9.ALL THE THINGS YOU ARE
Personel
Lennie Tristano(p)
Lee Konitz(as)
Gene Ramey(b)
Art Taylor(ds)

The New Tristano
10.BECOMING
11.YOU DON'T KNOW WHAT LOVE IS
12.DELIBERRATION
13.SCENE AND VARIATIONS
a)CAROL
b)TANIA
c)BUD
14.LOVE LINES
15.G MINOR COMPLEX
Personel
Lennie Tristano(p)





speak your piece and be quiet

2005-03-09 21:33:00 | jazz
hawesHAMPTON HAWES TRIO
 
 
Hampton Hawes(p) Red Mitchell(b)
Chuck Thompson(ds)

何よりもスウィングすることをジャズのベースに置いたハンプトン・ホーズのこのアルバムは、どこを切ってもスウィングが溢れ出る、まさにジャズの楽しさが凝縮されたアルバムである。最初の「アイ・ガット・リズム」から急速なテンポでこれでもかとばかりに弾き倒すかと思えば、極めてリリカルな面もあわせもつ彼のピアノは一つ一つの音が稠密で、それが独特の粘りを出しているが、アーティキュレーションが明確でしつこさはない。ホーズのソロ・ピアノによるリリカルな「ソー・イン・ラヴ」が終わったあと、快速テンポの「フィーリン・ファイン」に移る瞬間はゾクゾクするし、「オール・ザ・シングス・ユー・アー」も素晴らしい。
ベースのレッド・ミッチェルは重低音で曲を支えるが、「イージー・リヴィング」や「ジーズ・フーリッシュ・シングス」では素晴らしいベース・ソロを聴かせる。

収録曲
1.I GOT RHYTHM
2.WHAT IS THIS THING CALLED LOVE
3.BLUES THE MOST
4.SO IN LOVE
5.FEELIN' FINE
6.HAMP'S BLUES
7.EASY LIVING
8.ALL THE THINGS YOU ARE
9.THESE FOOLISH THINGS(REMIND ME OF YOU)
10.CARIOCA


片田舎組曲

2005-03-08 01:52:00 | jazz
mabcsBACK COUNTRY SUITE
 
 
Mose Allison(p,vo) Taylor La Fargue(b)
Frank Isola(ds)

ザ・フーの「ヤングマン・ブルース」、ヤードバーズの「アイム・ノット・トーキング」など、モーズ・アリソンの曲は多くのロック・ミュージシャンによってカヴァーされている。この組曲の4曲目「ブルース」が「ヤングマン・ブルース」の原曲で、ロジャー・ダルトリーの踏ん張ったヴォーカルとは対照的なモーズ・アリソンの線の細いひよわなヴォーカルが聴ける。歌っているのはこの曲と「ワン・ルーム・カントリー・シャック」の2曲。
モーズ・アリソンはビバップの影響を受けたピアニストで、スリー・コードのブルースに即興演奏を加えたジャズ・ブルースがイギリスのモッズから高い支持を得た。ブルースといっても泥臭くなく、シンプルでスマートな演奏で、白人のブルース解釈としてブリティッシュ・ロックに影響を与えた。
「バック・カントリー・スイート」は手つかずの自然が残る新天地に人々が次第に暮らすようになり、気だるい夏の夜と厳しい冬を経て喜びの春を迎えるといった流れで組み立てられていて、アメリカ南部の情景が浮かんでくるようだ。
「ウォーム・ナイト」の気だるさ、「スキャンパー」のタイトルどおりの敏捷なピアノが素晴らしい。

収録曲
BACK COUNTRY SUITE FOR PIANO BASS AND DRUMS
1.NEW GROUND
2.TRAIN
3.WARM NIGHT
4.BLUES
5.SATURDAY
6.SCAMPER
7.JANUARY
8.PROMISED LAND
9.SPRING SONG
10.HIGHWAY 49

11.BLUEBERRY HILL
12.YOU WON'T LET ME GO
13.I THOUGHT ABOUT YOU
14.ONE ROOM COUNTRY SHACK
15.IN SALAH


shank of the evening

2005-03-07 00:36:00 | jazz
BudshankBUD SHANK QUARTET
 
 
Bud Shank(as,fl) Claude Williamson(p)
Don Prell(b) Chuck Flores(ds)

このアルバムはボブ・クーパー作の「バグ・オブ・ブルース」から始まる。いかにもウエスト・コーストといった感じの、まったりとリラックスした演奏に和んでいると、次の曲「ネイチャー・ボーイ」で一気に暗転する。この曲でのシャンクのフルートは悲痛な響きを持っている。こうしたダウナーな演奏とは対照的に、「白いバド・パウエル」と呼ばれたクロード・ウィリアムソンのスピード感のあるピアノが活躍する快活な演奏、あるいはラテン的な狂騒などもあり、ヴァラエティに富んでいる。リチャード・カーペンター作のブルース・ナンバー「ウォーキン」をハード・バップを確立したことで有名なマイルス・デイヴィス・オール・スターズの演奏と聴き比べるのも面白い。音圧からして全然違うが。

収録曲
1.BAG OF BLUES
2.NATURE BOY
3.ALL THIS AND HEAVEN TOO
4.JUBILATION
5.DO NOTHIN' TILL YOU HEAR FROM ME
6.NOCTURNE FOR FLUTE
7.WALKIN'
8.CARIOCA


ヨットとトランペット

2005-03-06 00:57:00 | jazz
484227CHET BAKER & CREW
 
Chet Baker(tp,vo) Phil Urso(ts) Bobby Timmons(p)
Jimmy Bond(b) Peter Littman(ds) 
Bill Loughbrough(chromatic tympani)
 
1950年代も後半になるとウエスト・コースト・ジャズが全盛期を終え、ハード・バップが台頭する。チェット・ベイカーもハード・バップ的なものを意識しながらこのアルバムを作ったという。ビル・ラフブロウのクロマティック・ティンパニをフィーチャーした曲ではラテン的というよりエスニックな感じにリズムが強調されて、この独特なサウンドがアルバム全体を印象づけているものの、ジェリー・マリガン・カルテットのときと同様、フィル・アーソとのホーン・アンサンブルはスムーズでマイルドだし、ベイカーのアドリブ・ソロも明快で心地よい。マリガンの曲やアル・コーンの曲も演奏しており、リズム隊が多少ハードになっているとはいえ、ハード・バップというよりは、やはりベイカーならではのアルバムになっている。最後の曲 LINE FOR LYONS で彼の歌が聴ける。

収録曲
1.TO MICKEY'S MEMORY
2.SLIGHTLY ABOVE MODERATE
3.HALEMA
4.REVELATION
5.SOMETHING FOR LIZA
6.LUCIUS LU
7.WORRYIN' THE LIFE OUT OF ME
8.MEDIUM ROCK
9.TO MICKEY'S MEMORY(ALT.TAKE)
10.JUMPIN' OFF A CLEF
11.CHIPPYN'
12.PAWNEE JUNCTION
13.MUSIC TO DANCE BY
14.LINE FOR LYONS

bridgeメンバーがヨットに乗りこみ、その後ろでベイカーがトランペットを吹いているジャケットはウエスト・コースト・ジャズの典型的なイメージ・コンセプトで、ブルー・ノートの暗い色調をベースにしたジャケットデザインとはまるで正反対である。とても人気のあるジャケットで、ちなみにフリッパーズ・ギターとともに日本のネオ・アコースティック・シーンを担ったブリッジが、このアルバム・ジャケットを真似ていたりもする。


ピアノなしだったってことは

2005-03-05 20:50:43 | jazz
トマス・ピンチョンの小説「エントロピー」では「デューク・ディ・アンジェリス・カルテット」の楽器なしのセッションが試みられるのだが、デュークがその新しい着想を得たのが、ジェリー・マリガンのピアノレス・カルテットからだった。

「……けど、ふっと思いついたのよ、頭のぐんと冴えたときにな、マリガンの最初のカルテットがピアノなしだったってことは一つのこと以外に意味するはずがないって。」
「和音なしってこと」とベビー・フェイスのコントラバス、パコが言った。
「彼が言おうとしているのは」とデューク――「基本和音がないってことさ。音を横に引っぱって吹いてるときに、頼りにするものが何もないってこと。そんな場合にやることは、基本和音を心の中で考えるってことだ。」
ぞっとする思いがミートボールの心の中に浮かんできた。「そうしてこれを論理的に延長していくと次は」と彼は言う。
「あらゆることを心の中でやってしまうこと」とデュークは飾りけのない威厳をもって告げた――「基本和音も、横に引っぱるのも、何もかも」

867GERRY MULLIGAN QUARTET
 
 
Chet Baker(tp) Gerry Mulligan(bs)
Bob Whitlock(b) Chico Hamilton(ds)

このカルテットのアルバムはチェット・ベイカーとジェリー・マリガンのホーン・アンサンブルが素晴らしい。1曲が短く、コンパクトになっていて、一切の無駄がない。

収録曲
1.BERNIE'S TUNE
2.WALKIN' SHOES
3.NIGHTS AT THE TURNTABLE
4.LULLABY OF THE LEAVES
5.FRENESI
6.FREEWAY
7.SOFT SHOE
8.AREN'T YOU GLAD YOU'RE YOU
9.I MAY BE WRONG
10.I'M BEGINNING TO SEE THE LIGHT
11.THE NEARNESS OF YOU
12.TEA FOR TWO
13.UTTER CAOS#1
14.LOVE ME OR LEAVE ME
15.JERU
16.DARN THAT DREAM
17.SWING HOUSE
18.UTTER CAOS#2