むらぎものロココ

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ジェラルドのパーティ

2005-03-15 02:50:12 | 本と雑誌
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Robert Coover(1932- )


ロバート・クーヴァー「ジェラルドのパーティ」(講談社)

「パロディとは形式あるいは死の生への侵入である」

きれぎれの会話の断片がつぎあわされ、脈絡もなく(ときには絶妙に絡み合い)次々にたちあらわれては泡沫のように消えていく。誰にでも身体を開き、誰もがその交わりを人生の至上の時と感じているような女優ロスの死から始まるパーティは、特権化された主人公が活躍する物語の死であり、そのような物語の解体、分散化であり、また推理小説のパロディでもあって、最後まで事件の謎が解かれることもなく、誰一人納得できない犯人の確定によってなしくずしに「解決」されてしまう。死はありきたりの事柄のように放置され、パーティは続いていく。ホストであるジェラルド夫妻はそうした状況にあって、もはやパーティを仕切れず、せいぜい料理のことを心配するくらいだし、次々に起こる出来事を受け入れることしかしない。個人の持ち物はいつのまにか区別なく複数の人間に共有され、人違いを誘発する。パーティの参加者は仮面をつけた道化のように(あるいは日常の仮面をはがされて)それぞれの役柄を演じ、カメラの前で醜態を晒したりもするが、この祝祭的な空間においては、日常の生活では隠蔽される性や死、排泄物、そして様々な欲望が顕在化し、そのことが当然のことのように受け入れられるのだ。

自分のことを事細かに語り尽くす語り手の存在もなく、登場人物に確固たる性格を与え、効果的に配置しながらドラマを構成していく作者の存在もないこの猥雑な小説に対しては、それを腑分けし、ノイズの中から主旋律を取り出すような読み方にこだわることもない(例えば「ジェラルドのパーティ」を演劇と恋愛をめぐる小説として読むことは、従来の小説が扱ってきたテーマである恋愛とハイ・カルチャーとしての演劇を特権的なものとして見ているに過ぎないのではないかということはあるし、「物語の死」や「作者の死」をことさらに強調することもないのだろう)。すべては等価で(あるだろう)、何を読みとればいいのか、読者に手がかりは与えられていない。 

料理を手に取るのは自由。パーティの混乱に乗じて壁にかかっている絵を盗んだり、クローゼットの中にある衣裳を盗むのも自由。読者それぞれの関心に応じて気ままに参加し、せいぜい楽しめばいいのであって、関心のないところまで立ち入る必要もないが、何か話しかけでもしない限り、ぽつねんと心もとなく取り残されるだけだろう。速やかに立ち去るか、せめてボトルでも手に持って、タイミングをとらえて会話の輪の中に入ること。そこには芸術についての会話があり、奇妙な殺人事件の話もあり、数多のゴシップにも事欠かない。面白いパーティだったと思えば、今度は自分がホストになってパーティを開いてみるのも一興だが、つまらないと思えば途中で抜け出してしまってもかまわない。パーティなんてそんなもの、文学なんてそんなもの。ポストモダンの最初で最後のパーティにカタルシス(オルガスムと言うべきか)はない。


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