むらぎものロココ

見たもの、聴いたもの、読んだものの記録

ラス・ウエルガスの写本

2005-01-10 15:40:25 | 音楽史
huelgasVOX IBERICA Ⅱ CODEX LAS HUELGAS
Music from the Royal Convent of Las Huelgas de Burgos(13th-14th Centuries)
Sequentia
Barbara Thornton & Benjamin Bagby

lashuelgas北スペインのブルゴスにあるラス・ウエルガス女子修道院は1187年にアルフォンソ8世によって設立されたシトー派の修道院で、その建物はゴシックとイスラム様式がまざりあったユニークなもの。「ラス・ウエルガス写本」は、この修道院で編纂されたもので、ノートルダム楽派のオルガヌム、コンドゥクトゥス、モテトゥスなど12世紀から13世紀にかけてのポリフォニー音楽が幅広く集められている。その中にはスペインのローカルな特色が反映されているものもあり、また編纂に携わったファン・ロドリゲスにより、フランスのオリジナルに手が加えられているものもある。とりわけカスティリア王の死を嘆くプランクトゥスなどにスペイン地方の特異性が顕著に現れている。集められた楽曲には聖母マリアを讃えるものが多く、これは「聖母マリアのカンティガ」を編纂したアルフォンソ10世との関わりのみならず、中世ヨーロッパにおける聖母信仰の広まりを感じさせる。
ラス・ウエルガスが女子修道院ということもあって、女声だけの演奏による録音も多いが、セクエンツィア盤では男声だけの演奏も収録されている。ソルミゼーション用の楽曲の演奏もあり、修道院内での音楽教育の様子を想像してみるのも面白い。



ゴシック期の音楽

2005-01-09 21:18:47 | 音楽史
imagesMUSIC OF THE GOTHIC ERA
  
 
David Munrow
The Early Music Consort of London


12世紀後半のノートルダム楽派から14世紀のギョーム・ド・マショーまで、いわゆるアルス・アンティクヮとアルス・ノヴァの音楽が一望できるアルバム。
ノートルダム楽派はサンマルシャルタイプのメリスマティック・オルガヌムをさらに発展させた。オルガヌムは「オルガヌム様式」と呼ばれるメリスマティック・オルガヌムをより長く引き伸ばした部分と「ディスカントゥス様式」と呼ばれるテノール声部が対旋律と同じように速く動く部分の二つになり、この二つの部分で構成されるポリフォニックな部分と聖歌隊全員で斉唱するモノフォニックな部分が交互に現れて一つの大きな楽曲になる。レオニヌスは2声のオルガヌムを作ったが、その後のペロティヌスは4声のオルガヌムを作り、その響きはノートルダム大聖堂のような荘重さに至る。このペロティヌスによりオルガヌム形式は頂点を極め、それ以降の発展はなかった。
その代わりに13世紀後半から数多く作られるようになったのはモテトゥスと呼ばれる形式で、もともとモテトゥスはディスカントゥス様式で書かれた部分のドゥプルム声部の旋律に新しい歌詞をつけることから始まった。この歌詞はラテン語でも俗語でもよく、また内容は宗教的なものでも世俗的なものでもよかった。この新しく歌詞をつけられたドゥプルム声部をモテトゥスと呼んだのだが、次第にディスカントゥス様式の、特にクラウズラと呼ばれる部分全体をモテトゥスと呼ぶようになり、そのうちオルガヌムとは独立して作られるようになった。
モテトゥスは俗語を用いても、世俗的な内容を歌ってもよいため、当然のことながら世俗化していったが、その背景にはトルヴェールの世俗音楽があった。最後のトルヴェールと呼ばれたアダン・ド・ラ・アルは最初に世俗歌曲をポリフォニーで作曲した人でもある。ここにおいてトルヴェールの伝統とポリフォニーの伝統が融合した。
モテトゥスはドゥプルム声部、トリプルム声部それぞれに違う歌詞をつけて歌われる。それを聴き分けることはほとんど不可能だが、それをうまく利用して権力批判的な内容を歌うといったことがなされるようになった。
次にアルス・ノヴァだが、これはフィリップ・ド・ヴィトリの音楽理論書のタイトルから取られている。その意味は新しい記譜法といったもので、それまで使われてきたフランコ式記譜法の問題点(基準音価の三分割法)を改善するものだ。ちなみにアルス・ノヴァの記譜法を実際に使ったのは事実上ヴィトリとギョーム・ド・マショーの二人しかいないとされている。マショーのアイソリズムやホケトゥスなどの技法はアルス・ノヴァの記譜法あってのものだそうだ。



トルバドゥールの音楽

2005-01-08 19:29:14 | 音楽史
583Dante and the Troubadours


Sequentia
Benjamin Bagby & Barbara Thornton

このアルバムはダンテが「俗語詩論」および「神曲」などで言及したトルバドゥールたちの作品を集めたもの。
12世紀の南仏プロヴァンスにおいて王侯貴族を中心にトルバドゥールと呼ばれる一群の詩人兼音楽家が現れた。彼らは俗語であるオック語を詩作に用い、満たされない愛を歌った。彼ら以前には恋愛は病気や狂気、あるいは別離の悲劇として描かれる場合がほとんどで、満たされない愛を抱え煩悶し、それを昇華することで精神的な高みへ至り、その喜びを歌うといったことはなされたことがなかった。
トルバドゥールの文化が栄えた背景には、学問の中心地であるフランスで、ラテン語の教養と詩作を学ぶ者があまりに多すぎたため、教会での役職を得られず、あふれた者たちが宮廷に吸収されたということがあった。そしてこの宮廷文化の中心には最初のトルバドゥールであるギョーム9世を祖父に持ち、フランスのルイ7世の妃となり、離婚後はイングランド王ヘンリー2世の妃となり、フィリップ尊厳王とリチャード獅子心王を子に持つアリエノール・ダキテーヌがいた。
トルバドゥールの起源には諸説あり、定かではないが、一時有力だったのがアラブ起源説で、そのため、トルバドゥールの楽曲の演奏においては多分にアラブ的な要素を強調したものが多かった。確かにフィドルなど弓で弾く弦楽器は中央アジアからイスラム圏を経由してヨーロッパに伝わったので、演奏においてはアラブ的な影響による即興がなされていたと考えられる。
このアルバムに収録されたトルバドゥールのうち、アルノー・ダニエルは「神曲」の浄火篇第26曲にあらわれ、グィード・グィニツェッリの口から「我よりもよくその国語を鍛えし者なり」と称賛されている。このトロバール・クロ(密閉体)と呼ばれる晦渋な語彙と謎めいた比喩を用いた極めて技巧的な詩人からダンテは多大な影響を受けている。ギラウト・デ・ボルネイユはレモゼスの人として語られ、ボルネイユをダニエルよりも優れた詩人とみなすものは愚かだとされている。また、フォルケット・デ・マルセイヤは天堂篇第9曲に登場し、ベルトラン・デ・ボルンは地獄篇第28曲において詩人としてではなく、ヘンリー2世の子であるヘンリーを父に背くよう教唆した罰を受け、体から首を切り離されてしまった姿が描かれている。
トルバドゥールの詩はヨーロッパ各地へ波及した。もちろんイタリアにも流れ込んだ。12世紀頃のイタリアは都市国家の建設などに力を注いでいたために芸術の分野では建築以外に見るべきものがなかった。13世紀になってシチリア王フェデリコ2世がプロヴァンスから詩人を引き連れて帰還したのち、「シチリア派」と呼ばれる俗語を用いた詩人たちが登場するようになった。13世紀後半になって文化の中心がトスカーナ地方に移動すると、シチリア派を継承する「シチリア=トスカーナ派」が誕生した。そしてさらに、ボローニャの詩人グィード・グイニツェッリを始祖と仰ぐ、従来の詩から離れ独自の境地を切り開こうとする若い世代が現れた。これを「清新体派」(Dolce Stil Novo)といい、ダンテはこの派に属した。この派は超俗的な傾向を持ち、極度に抽象化された表現を用い、愛の観念を純化した。
イタリアの詩人にとって、ラテン語と俗語はその親近性のゆえにかえって緊張関係にあるもので、ダンテが「俗語詩論」を書いた背景にはこの緊張関係の切実さがあった。この「俗語詩論」はラテン語に抗して俗語を称揚するかに見えながら、実のところ俗語をラテン語の修辞学に拘束することによってより高めることを目指しており、彼の言う「高貴な俗語」とは「イタリアのどの都市にもありながらどの都市にも属するように見えない、高次の詩的創造に適した俗語」とされ、極めて理念的、人工的な性格を持つ。この「高貴な俗語」の性格をダンテが被った亡命という根無し草の運命と重ね合わせてみるのも興味深いところであるとともに、シトー派修道会が純粋な聖歌を求める果てにたどり着いた聖歌の改良と重ね合わせてみるのも面白い。さらには哲学史上有名な論争である実念論と唯名論との間の「普遍論争」とも。

ダンテ・アリギエーリ「新生」(岩波文庫)
ダンテ・アリギエーリ「神曲」(岩波文庫)
E.R.クルツィウス「ヨーロッパ文学とラテン中世」(みすず書房)
上尾信也「歴史としての音」(柏書房)
田村毅/塩川徹也編「フランス文学史」(東京大学出版会)
岩倉具忠/清水純一他編「イタリア文学史」(東京大学出版会)


シトー修道会の聖歌

2005-01-06 22:17:10 | 音楽史
fontfroideCHANT CISTERCIEN
(Monodies du XⅡsiecle)

Marcel peres
Ensemble Organum

シトー派の修道会は11世紀末に設立された。修道院の原点に帰ることを理想とし、修道僧たちは戒律を厳格に守りながら自給自足の清貧な生活をした。このような原点回帰もしくは純粋化は修道院での生活だけでなく、建築や音楽にも及んだ。フォントネーにある修道院は世界遺産になった。
この修道会3番目の僧院長であったアルダンは純粋な聖歌を求めて北フランスのメッツに写字生を派遣した。9世紀頃にローマ聖歌の中心地だったメッツであれば、純粋な聖歌が失われずに残っていると思われたからだ。しかし、写字生が持ち帰った聖歌は旋法が混乱したもので、アルダンが期待した純粋な姿とはほど遠いものだった。もともと雑多な影響関係で成立した聖歌に純粋なものなどあるはずもなく、この探索は最初から無理な話だったのだ。
アルダンの死後、シトー派の修道会では純粋な聖歌を探すことをあきらめ、聖歌を自分たちの手で改良することにした。過剰に装飾的な部分を排除し、旋法の性格を明瞭なものとし、混合を避けた。こうして合理的で美しいシトー派の聖歌が誕生した。
アルダンの不合理な欲望は死後に合理的な方法による捏造によって実現されたのだった。
この聖歌はシトー派の修道院で歌われるとそのときの残響がポリフォニックな効果をもたらす。アンサンブル・オルガヌムの録音でもフォンフロワの修道院が使われ、豊かな残響がとても心地良い。


アキテーヌのポリフォニー

2005-01-05 22:58:26 | 音楽史
pasmlPOLYPHONIE AQUITAINE DU XⅡ SIECLE
(St-Martial de Limoges)
Extraits des matines de Noel
Marcel Peres
Ensemble Organum

マルセル・ペレスは中世西洋音楽の演奏において非西洋的な側面を強調するアプローチを取っている。そのためにある種の異様さを感じさせもするのだが、強靭なエネルギーに満ちていて抗しがたい魅力がある。このアルバムにはサンマルシャル修道会のクリスマスの朝課で用いられる聖歌が収録されている。ジェラール・レーヌやドミニク・ヴェラールが参加。

単旋律であるグレゴリオ聖歌に対旋律を付け加えて歌うことからポリフォニー音楽が生まれた。その実例は9世紀後半の「音楽提要」の中にオルガヌムとして初めて記された。オルガヌムは聖歌の旋律である主声部(vox principalis)の下に例えば完全5度のオルガヌム声部(vox organalis)を加えることで成り立つ(平行オルガヌム)。さらに主声部のオクターブ下、オルガヌム声部のオクターブ上を加えるなどして3声、4声の複合オルガヌムを作ることもできる。声部間の音程は完全5度、完全4度、オクターブとなるのが一般的。しかし声部間の音程が三全音(例えばbとf)になる場合があり、これは「悪魔の音程」として忌避される。こうしたオルガヌムは声部間は1音対1音(punctus contra punctum)で対応していた。これが後の対位法(contrapunctus)の語源となっている。厳密には1音対1音の場合はディスカントゥスと言い、オルガヌムとは区別するようだ。
11世紀になると、厳格な平行オルガヌムから斜行や反行が用いられ、声部間の独立性がより強くなる自由オルガヌムに移行するようになる。この場合はオルガヌム声部が主声部の上に加えられる。(グィード・ダレッツィオの「ミクロローグス」)。
12~13世紀頃のオルガヌムの重要なものの一つがフランスのリモージュにあるサンマルシャル修道院に保管されていた(図書室の管理がすぐれていたらしい)4冊の写本であり、これはアキテーヌ様式として知られるネウマ譜によって記譜されている。アキテーヌのオルガヌムはメリスマティック・オルガヌムと呼ばれ、聖歌を下声部(tenor)とし、その全てあるいは一部の音が長く伸ばされ持続する上に速い動きの上声部(duplum)を付け加えたものである。

金澤正剛「中世音楽の精神史」(講談社選書メチエ)
→「オルガヌムの歴史」
H.M.ミラー「新音楽史」(東海大学出版会)
→「初期のポリフォニー(多声音楽)」



グレゴリオ聖歌

2005-01-04 21:42:35 | 音楽史
GREGORIANISCHER CHORAL
Tod und Auferstehung

Pater Godehard Joppich
Benediktinerabtei Munsterschwarzach

1.Karfreitag(聖金曜日の典礼)
→ヨハネによる福音書18,28-19,18の朗誦がなされている。
2.Ostersonntag(復活祭のミサ)
3.Christi Himmelfahrt(キリスト昇天祭のミサ)
イエスの受難から復活、そして昇天までを辿る。
Ordinarium(通常文)は収録せず、Proprium(固有文)を収録。

聖歌の収集と組織化に尽力したとされる教皇グレゴリウス1世にちなみグレゴリオ聖歌と呼ばれる。正式にはローマ聖歌。スペインのモサラベ聖歌、フランスのガリア聖歌、ミラーノのアンブロシウス聖歌など多様な背景を持つ。


古代ギリシャの音楽

2005-01-03 16:40:55 | 音楽史
pmgaMusique de la Grece Antique


Gregorio Paniagua
Atrium Musicae de Madrid

古代ギリシャの音楽はパピルスや石にその断片が残されている。ギリシャ人はアルファベットを用いた記譜法を発明し、それらはクルト・ザックスによって現代の記譜法になおされたりもしているが、パニアグワはそれらの断片を使い、創作もまじえつつ古代ギリシャの音楽を再現してみせた。復元された水力オルガンも使われていて面白い。メタリックな一撃で始まり、メタリックな一撃で終わるこのアルバムを聴きながら、古代ギリシャの悲劇的な闘争に想いを馳せてみる。

mousike ムーサの技芸

リラ(竪琴)
ヘルメスはアポロンから盗んだ牛の腸と亀の甲羅とでリラを作った。複数の音が同時に鳴るとどうなるか知りたかったからだ。ヘルメスはのちにこのリラをアポロンに譲り、リラはアポロンの楽器となった。リラは世界の調和を探求する協和音への関心から生まれ、その調和した響きによって人の心を鎮静化する。リラは詩の朗唱に寄り添ったり、数学上の比例(協和)を示すものとして、ロゴスの楽器である。

アウロス(笛)
ペルセウスがメドゥーサの首を切り落としたことで残されたメドゥーサの姉妹は嘆き悲しむ。それを見ていたアテーナーが、この悲しみにかたちを与えるためにアウロスを作ってやったという。これは人間の激しい情念を表わすものとしてディオニュソス的な楽器である。

虐殺されたマルシュアース
女神アテーナーは自ら作った笛を捨てた。その理由は笛を吹こうとすると唇を尖らせたり、頬を膨らませなければならず、自分の美しい顔が醜くなるからだ。また、笛を吹いているときは歌うことができず、ロゴスを語ることができない。笛は神々にふさわしくないものとして捨てられ、その捨てられた笛を拾ったマルシュアースはアポロンと音楽の戦いを挑み敗北し、皮を剥がされ殺されてしまった。(オウィディウスでは生きたまま皮を剥がされ、殺されていない)

八つ裂きにされたオルペウス
妻の死後、女性を拒絶した生活を送っていたオルペウスは、トラキアの女たちの怒りを買い、八つ裂きにされてしまった。投げつけた石も無力に落ちてしまうほどのオルペウスの竪琴や歌声を、すさまじい叫び声やプリュギア風の笛、太鼓や手拍子がかき消すと、調和が失われ狂乱が支配した。

アポロドーロス「ギリシャ神話」(岩波文庫)
→第1巻第4章2 マルシュアース
オウィディウス「変身物語」(岩波文庫)
→第6巻 マルシュアース  第11巻 オルペウスの死 
アテナイオス「食卓の賢人たち」(岩波文庫)
→水力オルガン
浅田彰「ヘルメスの音楽」(ちくま学芸文庫)
→リトゥルネッロ<ソン・メタリックの消息>
 メタリックな音の粒としてのヘルメスの逃走
田村和紀夫/鳴海史生「音楽史17の視座」(音楽之友社)
→「音楽」とは何か?
今道友信編「精神と音楽の交響」(音楽之友社)
→「思想の自己呈示としての音楽 アポローンとマルシュアース」