むらぎものロココ

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豚小屋

2005-01-20 21:48:35 | 映画
D110476286「豚小屋」(Porcile)
1969年イタリア・フランス
監督・脚本:ピエル・パオロ・パゾリーニ
音楽:ベネデット・ギッリア
出演:ピエール・クレマンティ、ジャン=ピエール・レオー、
アンヌ・ヴィアゼムスキー 他


この映画は二つの物語が交互に展開する構成になっていて、ひとつはカニバリズム、もうひとつは獣姦を扱っている。パゾリーニによれば「豚小屋」は社会に反抗する若者とその若者を食い尽くす社会を描いたという。
ひとつめの物語。時代背景は不明。火薬や銃があるので14、15世紀あたりと考えるのが妥当かもしれないが、神話的な雰囲気は古代のようでもある。ピエール・クレマンティ演じる青年は火山の火口付近の荒地を餓死寸前の状態でさまよい、蝶や蛇さえ口にする。あるとき青年は白骨死体の傍らにあった甲冑と銃を手に入れる。そして一人の若い兵士に出くわす。青年は兵士を殺害し、死体の頭部を切り離し、蒸気を吹き上げる穴の中にその頭を放り投げたあと、兵士の肉を食べる。
やがて青年には仲間ができ、通りかかる人々をグループで襲うようになり、人肉食を繰り返していたが、その結果青年たちは捕まってしまう。そのとき青年は着ているものをすべて脱ぎ、裸形のまま連行される。青年たちは裁かれるが、その刑罰は荒地に縛りつけられ、野犬に食われるというものだった。青年はこの刑罰を静かに受け入れる。
この青年の姿には餓死寸前の極限状況のなかで究極の葛藤をくぐりぬけた者だけが持つある種の崇高さを感じさせる。青年は「私は父を殺し、人肉を食い、喜びにうち震えた」と呟く。パゾリーニはこのカニバリズムにスキャンダルなまでに拡張された青年の反抗を表現したという。キリスト教においては聖餐のパン(イエスの肉)とワイン(イエスの血)がカニバリズムと深く結びついているし、ユダヤ教においてカニバリズムはタブーとされ、人肉に近いという理由で豚肉さえ食することを禁じているが、イエスは「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」と言った。タブーを犯す青年の姿にイエスの姿が重なるゆえんだが、この青年にはイエスだけでなく、プロメテウスやエムペドクレスも重なるように見える。
カニバリズムというタブーを犯したことによって、青年は自然とダイレクトに一体化する境地に至ったのではないか。捕まったときに裸形をさらしたのは、自然の本質をつつみかくさず明るみに出したということではないか。その青年に対して再び衣服を着せ、剥き出しにされた本質を覆い隠してから、キリスト教の制度は青年たちを裁くのだが、青年にとっては制度上の裁きは何事でもない。自然と一体化した青年は自分もまた食われることを受け入れることができるからだ。

もうひとつの物語は第二次世界大戦後のドイツにおけるブルジョワ青年をめぐる話だ。ジャン=ピエール・レオー演じる青年ユリアンにはアンヌ・ヴィアゼムスキー演じるアイーダという許婚がいる。しかしユリアンは曖昧な態度を示す。彼は父親に対しても従順でも不順でもない曖昧な態度を示し、彼の母親とアイーダに対してはまるで正反対の顔を見せているなど、曖昧で複雑な多重性を持っている。こうした曖昧さはブルジョワであること、つまりすべてが与えられ退屈な毎日を過ごし、革命にシンパシーを感じながらも自分は打倒される側にいるというところから由来するものかもしれない。ユリアンは饒舌であるが肝心のことは何も話さない。彼にとって話すということは聞かれてはいけないことを隠すためのようで、彼が隠していることは屋敷の敷地内にある豚小屋に入っては飼育されている豚と交接を繰り返していることだ。
ユリアンの父親である実業家のクロッツはヒトラーのようなひげを生やし、一人のときはハープでナチス党歌を演奏する。彼は豚と呼ばれていて、それは「資本家=ファシスト=豚」というステレオタイプを示す。クロッツはライバルとして台頭してきたヘルトヒッツェという実業家の身辺をスパイを雇って調査させている。スキャンダルになるものを嗅ぎつけ、それをネタに脅すつもりでいるのだ。そして、ヘルトヒッツェが戦時中にユダヤ人の死体を大量に調達し解剖学の実験に使用していたことを突き止める。しかしヘルトヒッツェもまた、クロッツの息子が豚との獣姦を繰り返していることを知っていた。互いに弱みを握った二人はそれを抑止力として、互いに協力することを決める。その合併披露のパーティーの日の朝、ユリアンは豚小屋に出かける。しばらくするとパーティー会場にクロッツの使用人たちが来て、何かを伝えようとしているがなかなか言い出さない。ようやく一人(ニネット・ダヴォリ)が口を開き、ユリアンに起こった出来事を告げる。一部始終を聞いたヘルトヒッツェは他言しないよう指示する。
この物語はシンメトリックな画面で構成されるが、あえて古典的な様式で描くことにより、腐敗したブルジョワの空虚さをよりいっそう際立たせている。
パゾリーニの生涯をもとにした小説も書いたドミニック・フェルナンデスは「シニョール・ジョヴァンニ」というヴィンケルマンの死の謎にせまる小説の中で、「18世紀末、市民階級の勃興とともに始まるその時期、新しい生産性と利潤のモラルが公の性生活から無秩序、奢侈、遊び、無償といった要素をいっさい取り除いてしまった」と書いた。市民生活は二重化され、快楽と同時に罰を求め、高尚な感情に捧げられた精神生活と卑しさを宿命づけられた肉体の生活に分裂する。市民の良識は互いを抑圧し、臭いものには蓋をしていく。蓋のしかたは権力によってもみ消したり、社会的要因、あるいは生理的、心理的要因など挙げ連ねてこちらとあちらの境界線を引いては安心したりと様々あるが、ここでは若者の反抗はついに崇高さへ至る契機を失ってしまう。

二つの物語をつなぐのはパゾリーニの作品の中で常に天使的な役割を果たしてきたニネット・ダヴォリであり、彼だけが両方の物語に登場する。