「アポロンの地獄」(Edipo Re)
1967年イタリア
監督・脚本・音楽:ピエル・パオロ・パゾリーニ
出演:シルヴァーナ・マンガーノ、フランコ・チッティ、ニネット・ダヴォリ 他
原作:ソポクレース(「オイディプス王」と「コロノスのオイディプス」に基づく)
●災厄に満ちたテーベ
オイディプスの悲劇の舞台となるテーベはカドモスによって建国され、隆盛を極めたが、もともと建国のときに軍神アレースの息子である大蛇を殺したということがあり、ことあるごとに神々からの災いを受けていた。カドモスはその罪を償うために隷従の身となって仕え、アレースの怒りを宥和すべく努力し、アレースの娘ハルモニアを娶るが、カドモスの一族には彼女の首飾り(自然の鬼子としての金属)に起因する災いが次々とふりかかった。テーベとは災厄に満ちた国なのだ。
●オイディプスの父ライオス
オイディプスの父であるライオスは一時期国を追われてペロプスのもとに身を寄せていた。ライオスはペロプスから息子クリューシッポスの教育を任されていたが、ライオスはクリューシッポスの美しい姿に思いを寄せるようになる。しかし、受け入れられなかったため誘拐し、その挙句死に至らしめてしまった。クリューシッポスは死ぬときにライオスが自分の息子に殺されるようにゼウスに祈り、それはアポロンの神託となってライオスにふりかかった。オイディプスの悲劇はこのときからすでに始まっていたのだ。それにしてもライオスが同性愛の傾向を持っていたということは興味深い。
ライオスはイオカステーを娶ってからも子を生まないように気をつけていたが、酒に酔ったときにイオカステーを妊娠させてしまう。ライオスは生まれた子を殺すように命じたが、子は殺されずにテーベとコリントの境に捨てられた。
●「アポロンの地獄」
この映画はオイディプスの悲劇を挟むようにして現代を舞台にしたプロローグとエピローグを持つ。プロローグでは赤子の誕生から始まり、母親に抱かれながら乳を飲む、まだ自然と未分化の状態が示されるとともに、自分からすべてを奪っていく息子に対する父親の複雑な感情が描かれることによって家族のエディプス・コンプレックス的関係が示される。この父親が息子の両足をつかんだシーンから古代ギリシャへと場面が転換し、オイディプスの物語が始まる。
●オイディプスの悲劇
捨てられたところをコリントの羊飼いに拾われた赤子は、オイディプスと名づけられ、コリント国王の子として育てられた。
成長するにつれてオイディプスは自分の出生に疑問を持ち、デルポイへ行くと「父親を殺し母親と交わるだろう」との神託を受ける。オイディプスは神託から逃れようとコリントに戻ることなく各地を放浪することになるが、その道中で知らずに父であるライオスを殺してしまう。
オイディプスがテーベの王となり、母であるイオカステーを娶ることになった契機は、テーベを苦しめていたスフィンクスの謎を解いたことによる。映画では謎を解くまでもなく、一瞬のうちに勝負がついてしまうが、その謎の答えは「人間」で、同時にオイディプスの運命を暗示しているものでもあった。すでに父を殺してしまったオイディプスは二本足で立つ青年でありながらも四本足の獣に堕しており、続く運命によって盲目となり先導者なしでは歩けなくなる、つまり三本足になるという運命を。このスフィンクスの謎の真意は「汝自身を知れ」というものだが、自分を知ることの残酷さがここに示されている。
オイディプスはテーベの災厄を取り除くためにライオス殺しの犯人を探索するが、すればするほど自らが犯人であることを次々と暴露していく。そしてすべてが明るみに出されたとき、イオカステーは首を吊り、それを見たオイディプスは自分の目を自ら突き刺し、彼はテーベを去る。人間はいかに逃れようとも運命からは逃れることができないが、それでも運命に抗して生きていかなくてはならず、その不条理を生きるところに人間の尊厳がある。
ソポクレースの悲劇ではここから先は「コロノスのオイディプス」へ続き、盲目となったオイディプスの放浪には娘のアンティゴネーが従うのだが、映画ではオイディプスの4人の子どもたちは登場しないため、鈴のついた帽子をかぶって伝令役を務めていた青年アンジェロが彼の目の代わりとなる。
●アンチ・オイディプス
エピローグでは古代から再び現代に戻り、オイディプスとアンジェロが都市をさまようが、まるで古代と現代が空間的に地続きのように見える。古代から現代へ追放される、あるいは排除されるために古代にやってきた存在としてのオイディプス。やがて彼らは、オイディプスがかつて母親に抱かれて乳を飲んだ場所にたどり着き、「人生は始まったところで終わるのだ」の言葉とともに、ここを最終の地とする。
近親相姦のタブーは「自然」と「文化」の分水嶺とされる。そしてエディプス・コンプレックスは近親相姦と父殺しの二重の禁止により、規範を内在化することで、子の主体が形成されていくというものだが、このようなエディプス的な家族を基盤としてパラノイア的蓄積の近代文明があるとして、このような文明を批判し、スキゾフレニックな逃走を示したのがドゥルーズ=ガタリだったとすれば、パゾリーニはむしろそれ以前の、母親に抱かれながら自然と一体化した状態へ回帰するという不可能な望みを望んでいるようだ。いくら光を望んだところで盲目のオイディプスにはもはや闇しかないように。鍵となるのは原初的な悪であり、自然と文化の裂け目にある物語としてのオイディプスの悲劇になるだろう。ソポクレースの悲劇では、コロノスに着いたオイディプスは「自分を受け入れるものには恵みを、追い払うものには呪いを」と言う。恵みか呪いか、オイディプスは今も地下にあってその力を失っていない。
1967年イタリア
監督・脚本・音楽:ピエル・パオロ・パゾリーニ
出演:シルヴァーナ・マンガーノ、フランコ・チッティ、ニネット・ダヴォリ 他
原作:ソポクレース(「オイディプス王」と「コロノスのオイディプス」に基づく)
●災厄に満ちたテーベ
オイディプスの悲劇の舞台となるテーベはカドモスによって建国され、隆盛を極めたが、もともと建国のときに軍神アレースの息子である大蛇を殺したということがあり、ことあるごとに神々からの災いを受けていた。カドモスはその罪を償うために隷従の身となって仕え、アレースの怒りを宥和すべく努力し、アレースの娘ハルモニアを娶るが、カドモスの一族には彼女の首飾り(自然の鬼子としての金属)に起因する災いが次々とふりかかった。テーベとは災厄に満ちた国なのだ。
●オイディプスの父ライオス
オイディプスの父であるライオスは一時期国を追われてペロプスのもとに身を寄せていた。ライオスはペロプスから息子クリューシッポスの教育を任されていたが、ライオスはクリューシッポスの美しい姿に思いを寄せるようになる。しかし、受け入れられなかったため誘拐し、その挙句死に至らしめてしまった。クリューシッポスは死ぬときにライオスが自分の息子に殺されるようにゼウスに祈り、それはアポロンの神託となってライオスにふりかかった。オイディプスの悲劇はこのときからすでに始まっていたのだ。それにしてもライオスが同性愛の傾向を持っていたということは興味深い。
ライオスはイオカステーを娶ってからも子を生まないように気をつけていたが、酒に酔ったときにイオカステーを妊娠させてしまう。ライオスは生まれた子を殺すように命じたが、子は殺されずにテーベとコリントの境に捨てられた。
●「アポロンの地獄」
この映画はオイディプスの悲劇を挟むようにして現代を舞台にしたプロローグとエピローグを持つ。プロローグでは赤子の誕生から始まり、母親に抱かれながら乳を飲む、まだ自然と未分化の状態が示されるとともに、自分からすべてを奪っていく息子に対する父親の複雑な感情が描かれることによって家族のエディプス・コンプレックス的関係が示される。この父親が息子の両足をつかんだシーンから古代ギリシャへと場面が転換し、オイディプスの物語が始まる。
●オイディプスの悲劇
捨てられたところをコリントの羊飼いに拾われた赤子は、オイディプスと名づけられ、コリント国王の子として育てられた。
成長するにつれてオイディプスは自分の出生に疑問を持ち、デルポイへ行くと「父親を殺し母親と交わるだろう」との神託を受ける。オイディプスは神託から逃れようとコリントに戻ることなく各地を放浪することになるが、その道中で知らずに父であるライオスを殺してしまう。
オイディプスがテーベの王となり、母であるイオカステーを娶ることになった契機は、テーベを苦しめていたスフィンクスの謎を解いたことによる。映画では謎を解くまでもなく、一瞬のうちに勝負がついてしまうが、その謎の答えは「人間」で、同時にオイディプスの運命を暗示しているものでもあった。すでに父を殺してしまったオイディプスは二本足で立つ青年でありながらも四本足の獣に堕しており、続く運命によって盲目となり先導者なしでは歩けなくなる、つまり三本足になるという運命を。このスフィンクスの謎の真意は「汝自身を知れ」というものだが、自分を知ることの残酷さがここに示されている。
オイディプスはテーベの災厄を取り除くためにライオス殺しの犯人を探索するが、すればするほど自らが犯人であることを次々と暴露していく。そしてすべてが明るみに出されたとき、イオカステーは首を吊り、それを見たオイディプスは自分の目を自ら突き刺し、彼はテーベを去る。人間はいかに逃れようとも運命からは逃れることができないが、それでも運命に抗して生きていかなくてはならず、その不条理を生きるところに人間の尊厳がある。
ソポクレースの悲劇ではここから先は「コロノスのオイディプス」へ続き、盲目となったオイディプスの放浪には娘のアンティゴネーが従うのだが、映画ではオイディプスの4人の子どもたちは登場しないため、鈴のついた帽子をかぶって伝令役を務めていた青年アンジェロが彼の目の代わりとなる。
●アンチ・オイディプス
エピローグでは古代から再び現代に戻り、オイディプスとアンジェロが都市をさまようが、まるで古代と現代が空間的に地続きのように見える。古代から現代へ追放される、あるいは排除されるために古代にやってきた存在としてのオイディプス。やがて彼らは、オイディプスがかつて母親に抱かれて乳を飲んだ場所にたどり着き、「人生は始まったところで終わるのだ」の言葉とともに、ここを最終の地とする。
近親相姦のタブーは「自然」と「文化」の分水嶺とされる。そしてエディプス・コンプレックスは近親相姦と父殺しの二重の禁止により、規範を内在化することで、子の主体が形成されていくというものだが、このようなエディプス的な家族を基盤としてパラノイア的蓄積の近代文明があるとして、このような文明を批判し、スキゾフレニックな逃走を示したのがドゥルーズ=ガタリだったとすれば、パゾリーニはむしろそれ以前の、母親に抱かれながら自然と一体化した状態へ回帰するという不可能な望みを望んでいるようだ。いくら光を望んだところで盲目のオイディプスにはもはや闇しかないように。鍵となるのは原初的な悪であり、自然と文化の裂け目にある物語としてのオイディプスの悲劇になるだろう。ソポクレースの悲劇では、コロノスに着いたオイディプスは「自分を受け入れるものには恵みを、追い払うものには呪いを」と言う。恵みか呪いか、オイディプスは今も地下にあってその力を失っていない。