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モーツァルトCDの風景8:イタリア旅行

2011年10月04日 | モーツァルト
 モーツァルトのイタリア旅行は1769年から1771年にかけて(13~15歳)3回に及ぶ、いずれも父子2人の旅だった。
父レオポルトの息子の音楽教育の最後の仕上げはイタリアで音楽を学ばせることだった。
 第1回イタリア旅行は1769年12月13日(モーツァルト13歳)に父子を乗せた馬車が故郷を後にし、インスブルックを経て標高1300mのブレンナー峠を越えてイタリアに入った。
父と共にミラノ、ボローニャ、ローマを巡回する。システィーナ礼拝堂では、門外不出の秘曲とされていたグレゴリオ・アレグリ(Gregorio Allegri)の9声部の『ミゼレーレ』を聴き、暗譜で書き記したといわれる。ナポリでは数十日に及ぶ滞在を楽しみ、当時大変な話題の発掘されてから間もない古代ローマ遺跡ポンペイを訪れている。
 イタリア旅行は三度におよぶが、なかでも、ボローニャでは作曲者であり教師でもあったマルティーニ神父に、対位法やポリフォニーの技法を学んだ。教育の成果はすぐに現れなかったが、15年後の円熟期にモーツァルトは対位法を中心的な技法としていた。モーツァルトはほとんどの音楽教育を外国または旅行中に受けた。

<ローマ>
 ローマの古代遺跡フォロ・ロマーノ
紀元前6世紀頃からローマ帝国がテトラルキアを採用する293年にかけて、国家の政治・経済の中心地であったが、ローマ帝国が東西に分裂し、首都機能がラヴェンナに移されると異民族の略奪に曝されるようになり、西ローマ帝国滅亡後は打ち捨てられ、土砂の下に埋もれてしまった。
 フォロ・ロマーノは、東西約300m、南北約100mに渡って存在する古代ローマの中心部「フォルム・ロマヌム」の遺跡である。古代ローマでは、たいていの都市に政治・宗教の中心としてフォルム(英:フォーラムの語源)と呼ばれる広場が置かれていたが、このフォロ・ロマーノは首都に開設された最初のフォルムであり、最も重要な存在であった。


18世紀の風景画:フォロ・ロマーノ
モーツァルトは1770年イタリア旅行中にローマに滞在し交響曲を書き上げた。

<モーツァルト:交響曲旧9番・旧44番・旧47番・旧45番・旧11番 ホグウッド指揮/エンシェント室内管弦楽団 (L'OISEAU-LYRE F00L-20363)>


<グラッパ>
グラッパはパドヴァの北東に位置するビチェンツァ県の町。
この地の名の由来でもあるグラッパ山を控えている。
町の名を有名にしたのは、ブドウの絞りかすを発酵、蒸留させてつくるアルコール度の高いお酒、グラッパの生産も大変盛んであるから。
酒好きのモーツァルト父子が訪れたのかも。


グラッパのヴェッキオ橋
「交響曲旧第13番」は序曲風のスタイルとは一線を画した堂々たる交響曲である。
「交響曲旧第14番」は第3楽章にK.485のロンド主題が出てくる。「モーツァルトのロンド」と名付けたいほどいろいろな曲に登場する。


現在のグラッパのヴェッキオ橋


<北イタリアの宮廷劇場>

モーツァルトがイタリア旅行中に訪れたであろう北イタリアの宮廷劇場。
ミラノの宮廷劇場か?。

<モーツァルト:セレナードNo.11 K.375・「魔笛」(管弦楽版)K.620 ホーブリチ指揮/ナハトムジーク (GLOSSA GCD 920601 輸入盤)>
木管古楽器演奏で芳醇で典雅な響きを聴かせてくれる。

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