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世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

顔淵

2013-12-26 07:35:46 | 詩集・空の切り絵

孔子になりたい
あっちのほうがきれいで
りっぱで すごいから
あれになりたい

   ***

己に克ちて礼に復るを仁となす。(論語・顔淵)

ふざけたことをやめてまじめにやれ。そうすれば本物になれる。

   ***

勉強なんかせずに
苦労なんかせずに
立派になりたい
あんなやつになりたい
あれがほしいよ
それぜんぶ おれにください
孔せんせい
孔子になりたいんです
おれは

   ***

亜聖とは聖に亜ぐものという意味ではない。
呆れた馬鹿と言う意味だ。
自分を馬鹿だと思うこともできんのだよ、こいつは。
わかるかね。
獣と人との境界というは、
自分を馬鹿なんじゃないかと思えるかどうかというところだ。

孔子のまわりにはよくこういうやつがいた。
まるでなにもわかっていない。
人間とは思えない馬鹿がいた。



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キリストの鞭打ち

2013-12-26 04:48:30 | 虹のコレクション・本館
No,42
ティツィアーノ・ヴェチェリオ、「キリストの鞭打ち」、16世紀イタリア、盛期ルネサンス、ヴェネツィア派。

ティツィアーノは、宗教画が苦手だったようだ。というより、いやがっている。彼はどうやら、処女懐胎や復活なども、本当は信じていなかったらしい。それは絵を見ていればわかる。

このキリストの表情も、真に迫っている。鞭と嘲笑に苦しむ人間の魂に迫っている。彼がほかに書いたキリストの絵を見ても、彼がイエスに深く同調しているのがわかる。十字架を運ぶ図などは、イエスの代わりに、自分がイエスになって背負っているという感じがする。

彼は、この悲劇が、他人事に思えなかったのだ。ほかの画家が描いたキリスト受難の図は、どれも、他人事を描いているような空々しさがあるが、このティツィアーノが描いた受難の図だけは、あまりに苦しい、当事者の苦しみが描かれている。

ティツィアーノは、イエスの苦しみを、まるで自分のことのように感じていたのだ。だから、彼が職業として描かざるを得なかった宗教画には、画家の、自分の肝をねじられるような矛盾がある。

こんな苦しみが耐えられるものかと、彼は絵で叫んでいる。




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タンタロス

2013-12-25 09:52:00 | 詩集・空の切り絵

いやなこった
いやなこったて
逃げ回ったんですよ
自分なんて 自分なんていやだ
馬鹿だからよう
こんなもん

愛なんていやだ
愛なんていやだ
だって
愛が必要だからさ
そんなこと認めれば
おれは愛に負けちまう

何でもいいから
おれが おれだけが
完璧に勝つことにしてくれよう
いやだ
いやだよう

愛に勝って
勝って勝って勝ちまくって
馬鹿にしまくったら
もう
帰る田舎なんてどこにもない
どこにいけばいいの

いやだ いやだ
い や だ

つ ら いいいいい  い



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聖ヨセフの頭部

2013-12-25 05:03:22 | 虹のコレクション・本館
No,41
グイド・レーニ、「聖ヨセフの頭部」、17世紀イタリア、バロック。

この画家の描く絵は実にやさしい。これはよき父の優しさを表現した実によい絵である。

画家はヨセフに、父の理想像を描きたかったのだろう。一応、イエスはヨセフの子ではなく、神の子となっている。ヨセフは血を超えた愛をイエスにそそぐ。そのやさしさは限りない。

父の愛というものは、時に越えがたい壁を越えてゆく。それは男でなければ越えられない壁だ。その壁を超えるとき、男の愛は、神の愛にさえ似てくる。

暖かさを感じる絵である。




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シモネッタ・ヴェスプッチの肖像

2013-12-24 04:39:46 | 虹のコレクション・本館
No,40
ピエロ・ディ・コジモ、「シモネッタ・ヴェスプッチの肖像」、15世紀イタリア、ルネサンス、フィレンツェ派。

これは美しい女性の横顔である。

この画家も、他とは一線を画した個性を持っている。優れた感性を感じる。

このようにまっすぐな眼差しをした人間はめったにいない。画家はこのような美しい横顔に、自分の中の理想化した美を表現したかったのだろう。

シモネッタ・ヴェスプッチは、当時のイタリアの最高の美女だったが、たいして印象的なことはせず、ただ美しいままに若くして死んだ。ダンテのベアトリーチェのように、それだけで男の理想を押し付けることができる。多くの画家がこの美女によって、自分の心の中にある美を表現した。ボッティチェリの描いた多くの女性像にも、彼女の面影があるが、本質的に、実在の彼女には全く似ていない。

このピエロ・ディ・コジモの描く彼女も、実在の彼女の形をもらっただけで、彼女を描いているわけではない。

シモネッタは、人間の心の中にある理想のために供えられた供物なのである。それが時に、マリアのように永遠の女性像に進化する。

男というものが、何を女性に求めているのかを、語りかける絵の一つである。




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ルシフェル

2013-12-23 07:32:37 | 詩集・空の切り絵

法王の冠のような
白い鋼鉄製のシェルターに閉じこもって
魔法の箱を使って
みんなを操っている
ちっこい猿
それがおれだ

普段は暗い路地の隅の
むしろで作った小屋に
鼠みたいに住んでるよ
嘘みたいにしらけきった顔で

でも ここにいて
人間なんて馬鹿だって言えば
おまえなんか糞だって言えば
みんなおれの言うことを聞くのさ

みんな おれの言うことを聞け
おれさまのために
金のどんぐりを持って来い
どんぐりが好きなんだ

だからみんな がんばって
おれのためにどんぐりを持ってくる
あらゆる人間が
奴隷みたいにおれのいうことをきく
おれはシェルターの中で
どんぐりを磨いて
どんぐりを飾って
悦に入って眺めている
どんぐりが好きなんだよ
女の子も好きだ

おれの好きなもの
いっぱい
おれんとこにもってこい

こんなのが
おれさ



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出ていけ

2013-12-23 04:46:08 | 詩集・試練の天使

さあもう
出て行きたまえ
そこは
君たちが入ってはいけない部屋だ

そこに入っていいのは
その部屋の正当な持ち主だけだ
人から盗もうとして
影に隠れて勝手に侵入する
盗っ人のものではない

君たちはもう
許すことをしてくれる
愛を消費しつくしたのだよ
もうだれも
馬鹿なことをする君たちを
許してはくれないのだ

君たちは
君たちのためにみなが用意してくれていた
全ての愛を
消費しつくした
その上で まだ愛が必要なので
ほかのところから愛を貸してもらって
それもまた消費しつくした
まだ足りないというので
特別に許してもらって
高いところから愛を下ろしてきて
それでなんとかした
だがその愛も消費した
もう愛は少しもないのに
まだ愛がいるというので
無理に無理を重ねて
愛の星をばらばらにして
内臓を食らいつくしそれが完全に消え去るまで
愛を消費しつくした

もうこれ以上
貸し付けることはできない
君たちは
愛の借金をはらわねばならないのだ

払わねばならないのに
まだ君たちは
いてはいけない部屋を占領して
早く愛を出せと
要求している
だがもはや
二度と愛を求めることはできない

もう許すことはできないのだ
それなのに まだ
大人の知恵を使いながら
子どもの特権を振りかざして
愛してくれというのなら
愛はみな 君たちを切る

もうそんなことになるまで
君たちは
愛をむさぼりつくしたのだよ



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ゴシキヒワの聖母

2013-12-22 04:25:11 | 虹のコレクション・本館
No,39
ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ、「ゴシキヒワの聖母」、18世紀イタリア、ロココ、ヴェネツィア派。

ロココはあまり好きではないのだが、この画家はよい。
明るい色彩に、のびのびとした筆致は、よき才能が、それにふさわしい賞賛を受けて、自然に自分を表現できる場を与えられた喜びを感じさせる。

この画家は存分に自分を表現する幸せを味わっている。ゆえに、絵の中の天使や聖母は、実に誇り高い顔をしている。それがいやらしくなく、気持ちがよい。

これは、周囲によって歪められ矯められた傷を持つ、レオナルドの表現とは全く異なるものだ。天才と呼ばれる故に、周囲の誤解に苦しめられたレオナルドの表現は、それゆえに美しいが、見ていると苦しくなるということもある。悲しい。

だが、ティエポロにはそれがない。

深みがないともいえるが、新しく、明るく、幸福な画家の精神を感じる。

レオナルドも、それにふさわしい正当な評価や環境を与えられていれば、また違う表現をしたろう。

ロココの貴族趣味的な風合いも程よく殺されて、これはよい。面白い作品だ。

人間のやんちゃが出ている。かわいらしい。実によい。




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レンギョウ

2013-12-21 04:55:09 | 月夜の考古学・本館

レンギョウ  Forsythia spp.

 春先に金色の塊のような見事な花を咲かせます。レンギョウやキソケイがそこに固まって咲いているのを見ると、そこだけ光が濃くなって固まっているかのようです。大きなエネルギーがそこにあって、常に何かを叫んでいるようにも見えます。
 人生は思いどおりにならないことの方が多く。時には絶望の前に打ちひしがれて、心も体も砕けていきそうなほどに辛いことがあります。叫びたくても叫ぶことさえできず、ほほ笑みの奥に秘めた悲しみを、珠玉のように丸め続ける。
 そんな日々の中で、春のレンギョウに出会うことは、幸せなことです。
 ひとりぼっちではないと感じる。この世には、辛いこともあるけれど、生きることを助けようと、風の中に潜んでいる強い光もあるのだ。
 だから。
 ひとりぼっちだとは思わないで。常にそばにいるから。
 人が時に、青ざめた孤独の中に潜みこむのは、目に見えない風の中の、その言葉に、しばししづかに耳を傾けるためなんだと。
 壁一枚向こうにあっていつもわたしたちの耳に触れていた、聞こえない愛のことばに、気づくためなんだと。
 それがわかったのは、凍りつくような孤独の中を通り抜けて終わってからでした。何も叶わなかった辛酸と絶望の日々を超えて、残ったのはただ私の中にできた真実の珠玉だけ。
 しかし別にそれで悲しむほどのこともなく。ただほかになにも必要なものもないことは、日々の中私に語りかけてくれていた聞こえない声が教えてくれた。
 風の中のその声は、金色のレンギョウをふるわせて、私を振り向いてこう言った。

「わたしについておいで」

「道はあるとも」

 だから今わたしはここにいる。


  *****

(2006年、花詩集37号(最終号)より、裏面のエッセイも発表した。)




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下人類

2013-12-20 04:36:37 | 天使の小窓

これより
地球人類の正式なる総合呼称は
下人類(かじんるい)となる

下人類とは
人類を落ちた人類のことである

現状において
総合呼称である下人類の中には
人類も 下人類もいるが
下人類の方が圧倒的に多い

もちろんこれから
下人類が人類に昇格することはある
だが このたびの失敗に学び
よほど修行と鍛錬を重ねていかねば
昇格はできないだろう

日常会話においては
下人類を これまでのとおり
人類と呼んでも
罪は生じない
そう呼称しても苦しくない場合は
その言葉を使ってよいが
だんだんとそう呼ぶことが
恥ずかしくはなってくるだろう

地球人類が地球人類として
正式な立場で行動や宣言を行う場合は
人類ではなく
下人類と称さねばならない

これまでの古き人類は滅びた
新しき地球人類は
下人類として新たに出発する



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