世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

天人楽・あとがき

2012-10-30 07:17:13 | 月の世の物語・天人楽

久しぶりに、髷を結っている什さんです。いや間違えた。これは、什さんが地上に生きている間に、天の国で王様をやっている、幻の王様です。

幻の王様も、魂の奥で、什さんとつながっていますから、本体である什さんの変化を感じて、苦悩しています。

こういう高度な分身の魔法の原理も、お話作家としては考えているんです。どうやってできるか。こういう細かい設定をつくるのも、作家の楽しみというもので。でも、煩瑣になるので書きませんが。まあ、同一人物に、限りなく近いですが、基本、違う人です。でも、全く同じ人とも、言える。

苦悩しているのはたぶん、本当の王様ではなく、王様のために存在を提供しているある存在です。王様自身は、ほとんどなんでもないことなのだ。けれども困るのは、天の国に住んでいる人たち。そして、什さんをそこまで追い詰めた人間たち。

什さんは人間じゃありませんから、地球で自分の仕事を見事に果たして帰ってくる。でもそのとき初めて、人間たちにわかってしまう。王様の正体が。

それは人間たちにとっても、もう、今までと同じではいられないという、現実にもなってくるのです。

天人楽は、人間たちの希望を描いて、終わりました。きっといつか、人間たちは、大切なことに気づいて、新しい道を歩いていく。けれども、それからが苦難の道。この王様は多分、それを考えている。

それがなんなのかは、もう書きません。けれども、人類の未来は、明るい。

なにもかもはこれからです。

月の世の物語、これにて。


2012-10-29 07:21:55 | 月の世の物語・天人楽

天の国の一隅に、二十人ほどの人が住む小さな村がありました。村は高い山の奥にあり、人々はそこで、山を耕して段々畑をこしらえ、虹色のラッキョウを育てていました。虹色と言うわけは、畑に並ぶ緑の草の根をひきぬくと、珠玉に似た丸いラッキョウが根元にかわいらしく膨らんでおり、その色は、赤だったり、黄色だったり、青だったり、ひきぬく草によって、色が違うからでした。なので人々は、この植物を八色ラッキョウと呼んでいたのです。七色でなく八色(やいろ)なのは、ラッキョウの色が、白を入れて、八種類に分けられるからでした。

ひきぬかれて、三日の月の薄い月光水で洗われた八色ラッキョウは、三日ほど風に干されたあと、望月の月光水を一、梅の酢を二、菜の花の油を一の割合で混ぜて、豆真珠の粉と塩と夢肉桂の粉をほんの少し入れた液体の中に漬けこまれ、しばし瓶の中で眠ります。そうして七日ほどすると、とてもおいしい八色ラッキョウのピクルスができあがります。村人は出来上がったピクルスの瓶を、籠に入れて背負い、山を下りて、山の下にある、船の停留所に行きます。そこでしばらく待っていれば、白いクジラのような大きな船が飛んできて、荷物を受け取り、それを天の国の港まで運んでくれるのでした。

八色ラッキョウのピクルスには、弱い忘却作用をもたらす成分が含まれているそうで、それを食べると、しばし、地獄での苦しみを忘れると言います。八色ラッキョウは、天の国の港から、船で深い地獄の管理人の元に運ばれ、管理人は地獄の底の苦しみにのたうつ人々の口に、時々そのラッキョウを放り込むのでした。すると罪びとは、こりりと、それを噛み、夢肉桂の匂いに涙を流し、ラッキョウのかすかに甘い酸い味を噛んでいるうちに、地獄での苦しみがしばし麻痺したようにわからなくなり、重い痛みや苦しみや労働がそれほどつらく思えず、楽になると言います。

罪びとには、少しきつい薬でありますから、そうさいさいと使えません。罪びとが、あまりに苦しすぎて、疲れ過ぎて、病気になってしまいそうになると、管理人が様子を見てそれが必要と判断すれば、そっとそれを口に放り込むのです。そうして、しばし罪びとは痛さも疲れも忘れ、まるで神が手を添えてくれているかのように、背負う荷物や引きずる石が軽くなるのです。その間、管理人たちは、罪びとに忍耐することの深い意義を繰り返し教え込みます。そして罪びとたちは、ラッキョウの効き目が切れてくるとまた、重く苦しい労働や苦悩に、再び耐えてゆくのでした。

このようにして、ピクルスにした八色ラッキョウには、忘却作用があるのですが、ピクルスではなく、生のままで食べると、反対に、大事なことを思い出すという作用がありました。それは、ラッキョウをひきぬいてから一日以内に食べないと効かないので、村の人以外には滅多に食べることができません。ですから、村の人々は、村の人のためのラッキョウ畑を少し残しておいて、ほとんどのラッキョウを、ピクルスにして、船で送ると、しばし、村のお堂に集まって、生の八色ラッキョウをつまみながら、香りのいい野生の茶を飲みつつ、魔法のような宴を行いました。

たとえば、竹読知(たけよみのしら)という者がおりました。たけよみのしらは、お堂で長机の前に座ると、机の上の皿に盛られた八色ラッキョウの、紫色をしたものを、早速口に入れて、こりこりと噛んで飲み込みました。そしてしばし、その味わいを楽しみつつ、黙っていました。他の村人は、少しの間、何かうれしそうな顔をして、たけよみのしらの顔を見ていました。やがて、たけよみのしらは、十分に八色ラッキョウの味をかみしめて、ふと、記憶のかなたに忘れ去っていた遠い遠い昔のことを、思い出しました。そして、少し目に涙を灯し、まるで何か歌を歌うように、言うのでした。

「…ああ、あの頃は、よかったなあ。わたしは、不思議な白梅の林の中を、歩いていましてね。遠くには、白い雪をかぶった美しい峰が見えた。白い麻の服を着た母さんと一緒に歩いて、春一番に咲く梅の林の中で、静かに鳥の声を聞いていた。母さんもわたしも、何も言わなくてね。なんだか歩いているだけで幸せだった。わたしは母さんが大好きで、いつも膝に抱きついて甘えていた。すると母さんは、わたしを抱きしめてね、あの頃のわたしの名前を呼んで、『いいこだ、いいこだ』と言ってくれたんですよ。それでね、わたしはほんとうにいい子になって、勉強して、とてもよい先生になって、たくさんの子どもたちに、読み書きや算数を教えましたよ」

たけよみのしらが話し終えると、他の人々の中からも、いいねえ、それはいいねえ、という声が上がりました。そして次に、野目青(やめのあをむ)というものが、白いラッキョウを口に入れました。やめのあをむは、かりかりと奥歯でラッキョウを噛みながら、ラッキョウの香りが、頭の中に深くしみ込んでくるのを感じました。そして、ゆっくりとその味と香りを楽しんだ後、少し目に涙を灯し、さりげなく髪をかきあげるふりをして涙をぬぐった後、静かに言ったのです。

「ああ、あの頃は、幸せだったなあ。潮風の吹く南の国の村に生まれましてね、父さんは船に乗って海に出て、虹色の魚や、蛸や、アワビなんかとってきてくれた。ある時など、白珠を封じた貝なんぞをとってきてくれた。ああ、覚えていますよ。貝を開くとね、ダルマみたいな形をした、大きくてとてもきれいに光る白珠が出てきましてね、母さんがそれは喜んだ。さっそく、職人に穴を空けてもらって、紐を通して、首飾りにしたんですよ。姉さんがそれをとてもうらやんだもので、母さんは、おまえが嫁にいくときに、あげようねと言ったんだ。姉さんときたら、それがあまりにうれしかったらしくて、その晩、わたしの大好きな木の実のスープを、三杯も食べさせてくれたのです。父さんのとってきてくれた魚もとてもおいしかった。暮らしはさほど豊かじゃなかったし、おなかのすく日が何日か続くようなこともあったけれど、みな、ほんとうに幸せだった…」

「ああ、ほんにねえ。よかったねえ」村人の誰かが言いました。「ほんに、ああ、家族がいて、友達がいて、みんな仲良くして、本当に互いを大切にしていたら、これ以上の幸せはないねえ」「うむ。貧乏でも、幸せだった。辛かったこともあったけど、幸せだった。ああ、あのときの母さんは今、どこにいるのだろう?」やめのあをむは、うっとりとため息をつきながら、言いました。

さて次に、灯日丸(あかるのひまろ)というものが、黄色いラッキョウを食べました。あかるのひまろは、そのラッキョウを口の中で舌にまきとったところで、一瞬吐きそうになりました。これはいかん、とあかるのひまろは思いました。でも、ラッキョウを吐きだすことはできないので、あかるのひまろは、いそいでそれをかりかりと噛み、飲み込んだのです。すると、あかるのひまろの頭の中に、濃い灰色の夢が現れました。あかるのひまろはしばし口をつぐみ、目を硬く閉じていました。それを見た村人のひとりは、小さく、ああ、と言いました。そして静かに口を閉じて、あかるのひまろを見ながら、彼が何かを語りだすのを、待っていました。

「ああ、本当に、姉さん」と、あかるのひまろは、言いました。「ほんとうに、ほんとうに、わたしではなかったのです。お姉さんのきれいなべっこうの櫛を盗んだのは、わたしではなかったのです」あかるのひまろは、そう言いながら、頬に涙を流しました。村人たちは、眉根のあたりにかすかに苦悩を見せながら、あかるのひまろを静かに見つめていました。
「どろぼうと、わたしを呼ばないでください。わたしは盗んでいません。本当です。でも、あなたがいつも、わたしのことを、どろぼうと呼ぶものだから、みなが、わたしのことを、どろぼうと言って、からかうのです。そして、近所で何かものがなくなると、みなわたしのせいになったのです。わたしは、みなにいじめられて、どろぼう、どろぼうと言われて、悲しかった。それで、大きくなると家を出て、あちこちを物乞いなどしながら旅したのです。辛かった。さみしかった。そしてわたしは、まだ若いうちに、とうとう、どろぼうの濡れ衣を着せられたまま、走る馬車に踏まれて、死んでしまったのです」

「それで、どうなすったのですか」村人の中でも、とくに気持ちのやさしい、木尾鳴(こをのなるこ)という女が、尋ねました。するとあかるのひまろは、ふと目を開けて、ああ、と深い息をつき、また「思い出しました」と言いました。

「ああ、あれは、当然のことだったのです。忘れていた。わたしは、あの人生の、前の人生で、母の手箱から玉の指輪を盗み、それを売った金でばくちを打ったのでした。ああ、それをわたしは、まだ幼い妹のせいにしたのです…」
「まあ、そうでしたか」と、こをのなるこは言いました。あかるのひまろは、しみじみと、言いました。「これでわかった。罪の濡れ衣を着せられるものの辛さが。だからわたしは、ある人生で、それを償うべく、勉強しました。そして、ある小さな国の裁判官になりました。どんな小さな裁判も、真実を正しく見抜くために、細やかに事情を調べました。そして、真実をはっきりと見分けてから、裁きを下したものでした。あの頃の勉強が、今も生きている。わたしは今も、真実を見つけることが好きで、勉強が本当に好きです…」
「それもこれも、始まりは、小さな罪だったのでございますね」こをのなるこが言いました。あかるのひまろは、うっすらと気持ちのよい笑いを見せ、こをのなるこを見つめ、言いました。「ああ、ほんとうです。あの過ち、あれがなかったら、今のわたしは、なかったかもしれません」

「過ちとは、いかなるものでしょう」ほかの村人が言いました。すると別の村人が言いました。「高きところにおわす方のお言葉があります。過ちても、改めないこと、それを過ちというのだと」「そう、過ちても、心から悔い、やり直せば、それは過ちではなく、むしろ、自らの宝となるのでございますね」「そう、そうですとも、わたしとて、今まで、何度過ちを犯したことか。未熟なるものに、過ちはつきものです。ひとつやふたつの過ちで、くじけていては、人は何もできません」「ああ、ほんとうにそうです。大事なのは、過ちを、過ちのままにしておかないことです。罪を償い、それを通して深く学び、よりよき己として成長し、すべての愛に、少しでもお返しができるようになるまで、怠らず、よきことを積み重ね、学んでゆくことです」「ああまったくそのとおり。つらくてもつらいといわず、くるしくてもくるしいといわず、やるべきことをやってゆく。昔から、よく教えられたものですね。人は苦労をせねば、愛を深く知ることができないと」

人々は、皿に盛ったラッキョウを囲んで、しばしの間、「罪」についての話をしました。
「苦しいことを、苦しいと言うて逃げては何にもなりません。怪や深い地獄にいる人などは、罪の浄化をなすときの苦しみや辛さなどから逃げ、巧妙な言葉のあやを用いて、神の道理を打ち破ろうなどとしますが」
「あわれなことでございます。それをやれば、ますます深い罪に落ちてゆく。そして、罪から逃げている限り、彼らは矛盾の苦しみから逃げることができず、常に苦しんでいる。これが存在痛というものでございます。こうして我々が、微力ながらも罪びとを助けていても、罪びと自身が悔い改めない限り、その永遠の矛盾の輪から、逃れることはできません」

だれかが、ふうう、と長いため息をつきました。見るとそれはこをのなるこでした。「ラッキョウのピクルスは、しばしの間、罪びとに苦しみを忘れさせます。それでしばし、罪びとは心が軽くなり、地獄の毒の苦しみも、労働の苦しみも、軽くなります。しかし、すぐにまた、罪を思い出す。そのとき、罪びとはまたひどく自らに落胆して苦しむ。わたしたちのやっていることは、はたして罪びとのためになっているのでしょうか」
「我々の作っているものは、軽い麻薬のようなものですから。もちろん、使わないにこしたことはない。けれども、それが必要なときもあるのですよ。それほど、罪に落ちた人は苦しいのです。彼らは、罪から逃げる故に、自分が存在することに苦しみ疲れ果てている」「わかります。罪びとを助けるためには、ときには、甘くも苦い、薬が必要なのです。われわれのやっていることが、どうか罪びとの心を、深く癒してくれるようにと、神に願います」「ええ、ほんとうに」

人々が話しあっていると、ふと、こをのなるこが、何かに導かれるように、机の上の皿に手を伸ばし、一つの赤いラッキョウをつまんで、それを口の中に入れました。すると、目の奥に、厚い闇のカーテンで隠された、なにか大きな傷のように痛いものが疼いているのを感じました。こをのなるこは、ああ、と声をあげ、顔を覆いました。指の間から涙の水が漏れました。こをのなるこは苦しそうに息をしながら、言ったのです。

「ああ、なんということを、してしまったのでしょう、わたしは。神よ、申し訳ありません。わたしは、嫉妬したのです。あの方に、嫉妬したのです。何ゆえに嫉妬したのか。それはあの方が、まるで人間のように思えなかったからです。ああ、苦しい。本当に苦しい。何で忘れていたのか。忘れることができたのか。ああそれは、高き所におわす方々の、わたくしへの愛でございましょうか。忘れなければ生きていけないほど、あれはつらいことでございます」

そのとき、たけよみのしらが、思わず言いました。「思い出してはなりません。それ以上、話してはなりません」しかしこをのなるこは、滝のように涙を流しながら、胸に手をあてて、何かに導かれるように、話を続けるのです。

「ああ、助けることは、できたのに。あの方を、お助けすることができるチャンスが、あったのに、わたしは、それをしなかったのです。いえ、気付きもしなかったのです。今なら、わかります。わたしは、遠いところを旅していって、あの方のところにいき、あなたを愛しているといって、お助けするべきでした。だのにわたしは、あの方のうわさを聞いて、わたしは、あのような人はきっと、ろくな死に方をしないだろうと思って、別に関わることもないと思い、何もしなかったのです。そしてあの方は、思った通り、あまりにもむごい目にあって、死んでしまったのです。ああ、お話ししましょう。風のたよりに聞いた、あの方の身に起きた死の、あまりの惨い悲劇に、わたしが茫然としたことを。そして氷のように立ちつくしたまま、しばし心を失ったことを。神よ、わたしは、何もしなかったということで、あの人を殺した人たちのひとりと、なったのでございます…」

村人たちは、まるでかたまった鉄のように動かず、凍りついた目で、こをのなるこを見つめていました。こをのなるこは、舌に残ったラッキョウのかすかな味をかみしめながら、しばし涙を流しつつ、黙っていました。やがて、突然蝶が閉じていた翅を開くように、あかるのひまろが、言いました。

「こをのなるこどのよ、わたしは知っています。あなたがこれまで、どれだけ人々のために尽くしてきたかを。そしてこの天の国で、どれだけ細やかな気遣いをして、ラッキョウを育ててきたかを。あなたがいなければ、豆真珠や塩や夢肉桂の塩梅がうまくいかず、ラッキョウをあのように美しく口にも甘く作ることができないことを」
ほかの村人が続きました。「罪とは、まことにつらきもの。己の犯した罪ほど、苦いものはないもの。それをあなたは飲み下し、心改めて、真の道を歩いてきたのです。あなたがどのように心やさしい方であるか、ここにいるだれもが知っています」

「ああ」とこをのなるこは、胸の奥から弱い吐息を出しました。そしてぬれていた涙を吹き、宙を見あげて目を閉じ、しばし、神に祈りました。そして村人たちが見つめる中、こをのなるこは、ふと微笑んで、まるでだれかに導かれるように、言ったのです。

「ああ、人類は、長い長い間、罪を犯してきました。深い深い、罪を犯してきました。ああ、その罪を、あかるのひまろさまのような方が、自らの宝とできるなら、人類もまた、その深い罪をすべて、己が宝とできる日が、いつかやってくるでしょうか?」

それを聴いて、その場にいただれもが、驚きの目をしました。
「なんと。ああ、本当に。いつか、人間が、その罪を、己が糧とできる日が来るなら、それはどのようなすばらしいことに、なりましょうか」
たけよみのしらが、思わず声を大きくして、言いました。やめのあをむは、胸が澄み渡るような思いを感じ、思わず、言いました。
「もしそうなれば、それはきっと、すばらしいことになりましょう。人間は、本当に、すばらしいものになりましょう。ああ、今は、一寸先すらも見えない闇ばかり。けれども…」

村人たちの間に、熱い感動が流れました。知らず知らずのうちに、皆が頬に涙を流していました。長机の上では、ラッキョウが、七色の星を盛ったように美しく光っています。それを見たたけよみのしらが、天を見あげながら目をつむり、感動に導かれるまま、歌を歌ったのです。

ゆくみちを 照らす灯もなき やみそらに せめて星焚け ちひさき蛍

ああ 今は 行く道を照らしてくれる
光のかけらもない 闇ばかり
けれどわたしたちは 人間の未来を信じて
今は暗い空に せめて 
星のように 火を焚こう
あの 小さな蛍の ように



2012-10-28 07:30:02 | 月の世の物語・天人楽

「ありがとう、船に乗せてくれて」と、竪琴弾きは、豆のさやの形の船の、後部席の隅にうずくまるように座りながら、言いました。少年は操縦席で紋章やスイッチをいじりながら、なんでもないように言いました。
「いや、ちょうど用がありましたし。窮屈じゃありませんか?荷物ん中で」
後部席の竪琴弾きの周りには、豆真珠の粉の入った袋や、干しキノコの入った籠や、月光水で作った梅酢の瓶や、何やらよくわからぬ包みなどが、たくさんありました。竪琴弾きは、周りの品物を傷つけないように用心しながら、身を縮めて座りつつ、言いました。
「ええ、大丈夫です。それにしても大荷物だ。船はちゃんと飛びますか?」
「飛びますよ。いい魔法玉をもらったし、これくらいの荷物、なんでもありません」
言うが早いか、少年は光る魔法玉を、舵の真ん中に描いてある紋章の中に放り込み、呪文を唱えました。すると、ことり、という小さな音を立てて、船は重さもないように、ふわりと浮かびました。

「おや、すごいな。まるで体が羽になったみたいだ」竪琴弾きが驚いて言いました。少年は得意そうに答えました。「すごいでしょう。スピードも速いんですよ。こいつなら、天の国まで、ほんの三十分でつきます」
「それはすごい。船はいいですねえ。自分で飛んで行ったら、多分六時間はかかります。本当に助かった」「ベルトきっちりしめてください。スピードあげますから」船の高度をあげながら少年が言うと、竪琴弾きは慌てて座席のベルトを締めました。とたんに、周りの風景が、絵の具をごちゃごちゃに混ぜたように、わけがわからなくなりました。船は、しゅん、と音を立てて、いっぺんに空高く月まで届くかと思うほど飛び上がり、そのまままっすぐに、天の国目指して飛んでゆきました。竪琴弾きは頬を打つ風の強さに驚いて、目をつぶりました。そうして、船が停まるまで竪琴を抱きしめてじっとしていました。

「つきましたよ」と少年の声が聞こえたので、竪琴弾きはようやく固まっていた体を緩めて、ほっと目を開けました。すると、賑わしい天の国の港の風景が見えました。港と言っても水際にあるわけではなく、広く平らな白い広場の上に、大きさも形も色もそれぞれに違う船が、行儀よく並んでいます。遠くに格納庫のような白い建物がいくつか見え、人もたくさんいて、船の周りで何かを面白そうに笑いながら話していました。よく見ると白い大地は石英の砂を固めたものであり、ところどころ、白緑色の草が行儀よく並んで生えていて、船のとまる位置を白い広場の上に描いていました。

「三十分どころか、二十分でついてしまいましたね」竪琴弾きは船から降りながら言いました。「今日は魔法玉の機嫌がいいみたいだ。何か、よいことでもあるんですか?」少年が紋章から魔法玉を抜きながら、竪琴弾きを振り返って言いました。
「いえ、ちょっとね。ぼくも久しぶりに琴の講義を受けようと思ったものですから」
「へえ、琴の講義を?そんなに上手なのに?」
「何事も、上には上がいるのですよ。あの聖者様が琴の講義をなさるのは、滅多にないことですから、このチャンスを逃しては、本当に悔いが残るところでした。仕事が長引いて、もう間にあわないとあきらめていたんですが、あなたのおかげで間にあった。でも早く着きすぎてしまったな。まだ三時間ある。学堂までの道が歩いて一時間、飛んで十七分とすると、ええと…」

そのとき、船に向かって、数人の男女が近づいてきて、少年に声をかけました。
「ああ、船乗りさん、お世話になります。荷物をとりにまいりました」すると、少年は、彼らの顔を見るなり、ポケットから小さな帳面を取り出し、それを見ながら、後部席の荷物を、順番に彼らに渡していきました。
「ええと、楠青玉(くすのあをまる)さんには、豆真珠の粉一袋、唐呼鶏(からこのとりよ)さんには、干しキノコ一籠、出海波(いづみのをなみ)さんには、月光水の梅酢ひと瓶、空白星(みそらのしらせ)さんには、三弦の琴…」

三弦の琴と聞いて、竪琴弾きはふと顔をあげました。見ると少年は、黒髪で、四角い背のがっしりした男に、白い布に包まれた荷物を渡しています。男が荷物の白い布をとりますと、桜の木の香りのする、真新しい三弦の琴と、それを弾く黒い弓が現れました。竪琴弾きは思わず、そばによっていき、声をかけました。
「やあ、よい琴だ。露草村の工房で作られたものですね」すると男は、少しびっくりしながらも、竪琴弾きを見て、微笑みながら、答えました。「はい、前の琴が、少し邪気に濡れて使えなくなったものですから、大急ぎで露草村から取り寄せたのです。あそこには良い琴作りの工房がありますから」「ええ、そうです。琴は露草村のものに限ります。よい職人がとてもよい仕事をしています。ぼくの竪琴もそこで直してもらったのです」そう言いながら、竪琴弾きは自分の竪琴を、男に、いえ、みそらのしらせに見せました。みそらのしらせは、竪琴弾きの竪琴を見て、びっくりしたように目を見張って言いました。

「おやあ、なんとすごい。どうしたらこんなに、弦(つる)が清まるのですか。ああ、わたしも、清めの魔法を使えますけれども、それで琴は、たいそうよい音になりますけれども、こんな澄んだ弦は見たことがない。ああ、なんとまあ、人間は、勉強が足らないことだ」
みそらのしらせは、竪琴弾きの竪琴を、本当に感心して、目を弦に触れんほど近付けて、しげしげと見てしまいました。そして少年が、「みそらのしらせさん、受け取りを下さい」と声をかけたとき、初めて顔を上げ、やっと竪琴弾きに失礼なことをしてしまったことに気づき、身を縮めて恐縮し、頭を下げて謝りました。
「いえいえ、なんでもないことです。琴をひくものなら、琴をみたらつい夢中になってしまうもの」竪琴弾きは笑いながら言いました。

みそらのしらせは、受け取りの紙を少年に渡しました。そして少年に、琴のお礼として、自分の工房で作っているきれいな赤いガラスの水入れの入った、木の箱を渡しました。その赤い水入れは、とても不思議な瓶で、月光水をたっぷりと入れて、七日ほど光にさらしておくと、月光水がほんのりと赤く染まって、その水は、一年ほど、闇において水を足さなくても、自然に月光水がたまるようになるのです。ですから、月光のほとんど差さない闇の地獄の管理人は、よくその水入れを利用しました。月光や水の渇きに疲れた罪びとを癒すには、とても便利な道具でしたから。
少年は、それぞれに、お礼の品をもらうと、それを船に乗せて、「それじゃあ」と、天の国人たちと竪琴弾きに挨拶して、また飛び立っていきました。

「今日は、聖者様の琴の講義があるので、天の国まで来たのですが、もしやあなたも、講義を受けるのですか?」
竪琴弾きは、みそらのしらせと並んで歩きながら言いました。するとみそらのしらせは言いました。
「はい、そうです。あのお方の講義が受けられるなど、滅多にないことですから、前々からそれは楽しみにしていたのです。それなのに、自分の琴が邪気に濡れてしまって使えなくなり、慌てて、新しい琴を取り寄せたのです」
「どうして、邪気に触れてしまったのですか?」
「はい、いつの間にか、琴の胴の中に、蜘蛛が住んでいたものですから」
「おや、蜘蛛の怪ですか。風に乗って、天の国に、紛れ込んできたのですね」
「はい、わたしはびっくりしました。ここで怪を見るなど、ほとんどありませんから。でもここは月に近く、光に毒を散らす作用があるので、怪が迷い込んできてしまっても、すぐに逃げてしまうそうです。でもあの蜘蛛は、琴の中の影にそっと隠れて、光から逃げていたようです」
「その蜘蛛は、どうしました?」
「はい、清めの呪文をかけて、菊香を混ぜた月光水を琴の中に流しますと、苦しそうに琴の中から出てきて、どこかへまた飛んでいってしまいました。つかまえようとしたのですが、蜘蛛のほうがすばやく、逃げてしまいました」
「ああ、それで琴が使えなくなったのですね」
「はい、蜘蛛が琴の胴も弦も、それは汚してくれた上に、消毒用の月光水など流しこんでしまったので、とうとうだめになってしまったのです。一応修理に出してはみたのですが、職人にも匙を投げられてしまいました」
「ああ、それは大変だったでしょう。新しい琴が、講義に間にあってよかったですね」
「はい、本当に、幸いでございました。ほんの三時間前に、受け取ることができました」

話をしながら歩いているうちに、二人はもう、学堂の前まできてしまいました。見あげると、月は、十六夜の月でございました。学堂の屋根の、水晶時計を見ますと、まだ講義まで、二時間ほどもあります。
「ああ、これは早く着きすぎてしまったなあ」と、みそらのしらせが言いました。「ほんとうですねえ。まだ誰も来ていない。空いた時間を、何に使いましょう?」竪琴弾きが言いました。するとみそらのしらせは、しばらく考えて、言いました。「そうだ、あすこにちょうどいい長椅子がありますから、あすこで、新しい琴を試しに鳴らしてみましょう。よろしければ、聴いてはくれませんか。まだ未熟者ではありますが」「ああ、いいですとも。ぜひ聴かせて下さい」

そうしてふたりは、長椅子に並んで座りました。みそらのしらせは、三弦の琴を構えると、弓で弦をこすり、それはきれいな音楽を、風の中に流しました。竪琴弾きは、目を閉じて、しばしその音に聴きひたっていました。まだ新しい琴のせいか、すこし音は戸惑いがちですが、まるで金花獣の鳴き声のような音は、それなりの技に長けて若々しく、難しい旋律を難なくこなし、竪琴弾きの胸をとても喜ばせました。ちなみに金花獣とは、天の国の森に棲んでいる、鹿に似た獣で、角に金色の花を咲かせており、月が満ちたよい夜にはそれはきれいな声で鳴くのだそうです。

みそらのしらせは、一曲ひき終わると、竪琴弾きを見て、「どうでしょうか?」と尋ねました。すると竪琴弾きは微笑みながら、「ああ、とてもよいです。すばらしいです。夢で金花獣の鳴き声を聴きました。ではぼくも、金花獣の真似をしてみましょう」と言いました。竪琴弾きは、自分の竪琴を弾き始めました。

すると不意に、彼らを照らす月光が、布のようにやわらかくなりました。みそらのしらせは、びっくりして、思わず手を月光に差し伸べました。月光を含んだ風が、本当に、見えない布のような感触になって、みそらのしらせの手の上を流れてゆくのです。
(ああ、なんときれいな音だろう。なぜだろう、なぜだろう。胸が熱くなる。この人の琴は、少し聞くと、どこか、技術だけなら、私の方が上だと感じるところがある。音を落とすことはないけれど、時々不意に、星が光を夜空に吸われるように音が小さくなる。それが、返って美しく胸に響く。なぜこんなきれいな旋律になるのだろう。まるでちがう。ああ、まるでちがう。人間にはまだわからない、なにかが違う。一体なにが、ちがうのか…)
竪琴弾きの曲が終わると、待ちかねたように、みそらのしらせは竪琴弾きに尋ねました。

「すばらしかった。ほんとうに美しかった。ああ、なぜなのでしょう。わたしもそうとうに勉強して、とても難しい技術を習って、それは上手に弾くことができるようになったのに、そんな美しい音は出せない。そんな不思議な旋律を奏でられない。何がちがうのですか?」

すると、竪琴弾きは、笑って答えました。
「美しいことをして、それを積み重ねて来ますと、自然に弾けるようになります。愛が深くわかってきますから。人間はまだ若い。まだぼくたちよりも、よほど年下なのです。まだ、積み重ねが足りなくて、当たり前。勉強をつみましょう。そうすれば、今よりももっと上手になる。精進しても、精進しても、上がある。今日教えて下さる聖者様の琴に比べれば、ぼくなど、はるか及ばない」

みそらのしらせは、涙を流していました。今初めて、自分が、琴の音の本当の聴き方を、知ったような気がしたからです。今まで、すばらしい琴の音楽は何度も聴いたことがありましたが、その真の音を聴いたことは、一度もないような気がしました。

竪琴引きと、みそらのしらせは、講義が始まる時間まで、琴の鳴らし方や琴の音の聴き方について、深く会話を交わしました。

そして、ようやく、聖者様の琴の講義が、始まりました。講義室には講義を待ちかねていた若者や天の国の人々が、たくさん集まっていました。竪琴弾きと、みそらのしらせは、前から三番目の席に並んで座り、聖者様の講義を受けました。聖者様は、十二弦の琴を持ち、半月の形をした白いばちで、弦をはじき、素晴らしい琴の曲を奏でました。それは美しく、技巧も奇跡のようにすばらしく、一秒の間に十音が小鳥の雛の声のように束になって鳴いていました。竪琴弾きも、みそらのしらせも、ただただ感心して、何も考えることができず、聴き入っておりました。やがて、受講生の若者の一人が、講義室に銀の蛾の群れが舞っていることに気づきました。みそらのしらせも、それに気がつき、講義室を見まわしました。銀の蛾は、それぞれに、琴の音の化身であり、聖者様の奏でる曲に合わせて、星の歌のような静かな琴の音を鳴らして、聖者様の琴の音に合わせてともに合奏をしていたのです。それがために、聖者様の演奏は、何十人かの人とともに弾いている琴の合奏のように聴こえるのでありました。

聖者様の弾いた琴の曲は、不思議な魔法を起こし、講義を受けた人々はまるで、目と耳をきれいに洗われたような気がして、真実をもっと深く見聴きすることができるようになりました。聖者様は、琴の音がどんなにか美しく、人の魂を導くかを教えてくれました。琴の道に精進し、それを深く学ぶ者は、どんな魔法が使えるかを教えました。美しいことを積み重ね、魂の位が上がり、技術が進歩してくると、その琴の音楽を聴くだけで、罪びとの心を硬くしばった糸をほどくことができることを、竪琴弾きとみそらのしらせは、学びました。

講義は、あっという間に終わりました。挨拶が終わると、聖者様はすぐに姿を消し、もう講義室のどこにもいらっしゃいませんでした。講義を受けたものは、深く感慨を受け、互いの目を見交わしたまま、何も言わず、ただただ茫然としていました。

みそらのしらせは、自分の琴を持って、学堂の外に出ました。そして自分が胸に受けた感動そのままに、弓を動かし、琴を弾きました。まだ未熟ながら、講義を受ける前とは全く違う音が流れました。竪琴弾きは、みそらのしらせに声をかけようと思いましたが、それをやめ、彼が感動のまま、門を通って去ってゆくのを見送りました。みそらのしらせは、琴を鳴らしながら、自分のガラス瓶の工房に向かい、帰ってゆきました。

みそらのしらせは、涙を滂沱と流しながら、家に帰る道中を、夢中になって琴を弾きつつ、歩いていました。すると、ふと、どこからか、きい、と耳を刺す声が聞こえました。みそらのしらせは、そこでふと我を取り戻し、琴を弾く手を止めて、足元を見ました。するとそこに、一匹の小さな蜘蛛がいました。みそらのしらせは、特に気にするでもなく、また琴を弾き始めました。蜘蛛は、月光水をかけられた恨みを晴らすために、みそらのしらせを狙っていたのでした。けれども、みそらのしらせの奏でる琴の音楽を聴いていると、なぜか力が抜けて、何もできなくなりました。

琴の音は風の中を流れ、蜘蛛は月光を避けて道の隅の草むらに隠れながら、だんだんと遠ざかっていく琴の音に聴き入っておりました。蜘蛛の心を何かが熱く揺さぶりました。
もし、蜘蛛に涙を流すことができたなら、きっとその顔は、今さっきまで川に溺れていたかのように、濡れていたことでありましょう。



2012-10-27 06:54:01 | 月の世の物語・天人楽

天の国は、月のよほど近くにございましたので、あまりにも月が明るく、空は月の光を濃く塗られ、闇の中にもどこか瑠璃のように青めいて、星などは一切、見えませんでした。けれども、国の隅の、桔梗ヶ原にゆけば、小さな星座が見えると言う話が、ありました。その話が本当かどうかは、行ってみた人でなければわかりませんでしたが、天の国の人は、興味を持っても、物見遊山のために、長い旅をすることなど、ありませんでしたので、ほとんどの人は、桔梗ヶ原から見える星座の話を、知識として知っているだけで、実際に見たことはありませんでした。

天の国の一隅の桔梗ヶ原には、その名の通り、青い桔梗が一面に咲いておりました。劫初より、ここに咲いていたわけではなく、そう遠くはない昔、ある天の国人(てんのくにびと)が、聖者様に種を頂いて、野にその種をまいてみたのです。そうすると、七日ほどかけて、桔梗は見る間に育ち、野は一面の青い桔梗の原になったのです。そしてそのとき、空をうっすらとおおう、月の光の薄絹が、ひらりと一枚めくれ落ち、墨で染めたような空に、七つ星で一組の、輝く星座が現れたのでした。その星座は、地球世界で見る、冠座に少し似ておりました。七つの星は、かごめかごめをする子どもたちのように、丸く輪を描いて並び、その様子がまるで小さな数珠のようでありましたので、人はそれを、数珠の星と呼びました。

七つの数珠の星には、それぞれに名前がございまして、光の明るい方から、初音、飛雁、百合、銀鈴、千鳥、絹玉、雫、と言いました。
数珠の星は、いつも空のてっぺんのあたりにありまして、不思議な笛のような歌を歌っていました。その歌は、人の耳には決して聞こえないのですが、桔梗の花には、聴くことができました。その星の歌を聴くと、桔梗は深くも澄んだまことの光を花に吸い込んで、密やかに根の中にため込みました。そうして、桔梗が花を終わらせる頃になると、この桔梗ヶ原を管理している、天の国人が、大きな籠を背負って、やってきました。

その人の名を、財芽光(たからめのひかる)と申しました。たからめのひかるは、桔梗ヶ原を見渡すと、半分ほど、桔梗が花を終わらせるのを見て、「ああ、そろそろ、いいでしょうか」と言いました。すると、彼を導いていた風の精霊がやってきて、答えました。「いいでしょう。花を終えた桔梗に、ひとつひとつ、『よいですか』とたずねなさい。そして桔梗が、『よい』と言ったら、花を引きぬきなさい」
たからめのひかるは、精霊のいうとおりにしました。ひとつひとつ、十分に枯れ具合のよさそうな桔梗を選んでは、「よいですか」と尋ね、「よいですよ」と答えてくれた桔梗だけ、根っこごと引き抜きました。桔梗の根は、蛍を隠しているかのように、所々青く点滅して光りました。それはまるで、空から捕まえてきた星のかけらを、桔梗が吸い込んで、ずっと隠してきていたかのようでした。

たからめのひかるは、十分な量の桔梗を引きぬきますと、それを入れた籠を背負い、桔梗ヶ原の隅から、ていねいに、桔梗ヶ原に向かってお辞儀をしました。空の数珠の星にも、深くお礼をしました。すると、数珠の星の棟梁である初音の星が、きらりと輝いて、たからめのひかるに、不思議な魔法の光を送るのでした。

たからめのひかるは、家に帰ると、引き抜いた桔梗の根を、庭に張った縄の上にかけて、しばらく月光を浴びせて干しました。そして、十分に根が渇きますと、それを微塵に砕いて、大がまの湯の中にいれ、ほんの少し豆真珠の粉をまぜて、あくをすくいながら、ゆっくりと煮込みました。火加減を見つつ、月光水を少しずつ七回に分けて入れ、三日ほどもかけて、水の気を大かた散らしますと、鍋の底に、不思議な青い月長石のような結晶がこびりついて残りました。その結晶は、薄青い星の光を宿し、星光はまるで生きているように結晶の中で動き、聞こえぬまことの歌を、繰り返し歌っているのです。
そうやってこしらえた結晶は、また砕かれて粉にされ、光る白い粉になり、一服ずつ小さな白い紙に包まれて、お役所に提出されました。それは、罪びとの毒気を浴びて少し病気になった若者たちの毒消しの薬ともなり、また、ほんの少し風にまきますと、星光の溶けた光る風が、暗闇に迷う人々のところにゆき、真実を語る星の小さな光の粒が、一粒や二粒、そっと罪びとの耳に棲みつき、それはまことの歌を歌いながら、ずっと罪びとの心を導いていくのでした。

たからめのひかるは、このようにして、桔梗ヶ原を管理しながら、不思議な星光のまことの光を含んだ、とてもよい薬を作っているのです。

ある宵のことでございます。たからめのひかるは、桔梗ヶ原の隅に立ち、少しいつもとは違う様子で、青い花咲く桔梗ヶ原を見まわしておりました。目を上げると、数珠の星たちがものいいたげに、きらきらと光っています。特に二番目の星の飛雁(ひかり)は、何とも奇妙に点滅して、小さな青い光の露を、たからめのひかるの前に落としました。すると桔梗ヶ原は、何かに気づいて、不安げに風に揺れました。たからめのひかるは、言いました。
「大丈夫ですよ、桔梗さん。わたしはすぐに帰ってまいりますし、わたしのいない間、ちゃんとここを管理して下さる人は、決まっていますから」

そう、たからめのひかるが言った後、すぐに、背後から声をかけてくる者がいました。振り向くと、そこに、王様のお宮のある町で、琴や笛の修理を仕事としている、鳥祢明(とねのあかる)という男が立っておりました。とねのあかるは、たからめのひかるの、古くからの友人でもありました。とねのあかるは、少し悲しそうな顔をしている、たからめのひかるに言いました。

「やあ、こっちにいましたか。家の方をたずねたら、あなたがいなかったので、たぶんここだと思って、きてみたのですが」
たからめのひかるも、微笑みを返して、言いました。「いや、おひさしぶりです。お元気でしたか」「ええ、元気にやっております。しかしこのたび、お役所の命が来まして、少しの間、仕事を変わるようにと、言いつけられましたので、ここに参ったのでございますが」
「はい、わかっております。わたしがここにいない間、どうかこの桔梗ヶ原を、大切に管理して下さいませ。薬の作り方は、そう難しいことではないので…」
「はい、もう、学堂で基本を学んでまいりました。書堂でも、何冊か専門書を借りて読み、重要な知識は得たつもりでございます。実践はまだですが、きっと精霊の方が導いてくださいましょう」

それを聞くと、たからめのひかるは、青く悲哀の染みついた瞳をして、じっととねのあかるを見つめました。そして笛のような吐息を吐いて、今にも泣きそうな顔になり、あわてて、とねのあかるに背を向けて、ひとすじの涙を隠しました。
とねのあかるは、たからめのひかるの気持ちを思い、やさしく言いました。
「人間世界に生まれるのは、ずいぶんとひさしうございましょう」
するとたからめのひかるは、とねのあかるに背を向けたまま、言いました。
「はい。六百年か、もっとか、忘れてしまいましたが、前の人生では、わたしは観音信仰を柱として小さな教団を作り、人々を愛の道へ導こうとしました。けれども、妙な宗教集団間の争いに巻き込まれ、わたしの教団は、武器を持った別の教団に襲われて、みないっぺんに死んでしまったのです。わたしもそのとき死んだのですが、残った信者はすべてをわたしのせいにして、信仰を捨て、去ってゆきました」
「観音は三十三相に自在に変化し、それを信じるすべての人を救うと言われています。しかし…」
「はい、この世界には、観世音菩薩と言う存在はありません。それは仏教の流れに生えたキノコのような伝説にも等しいのです。しかし、そこに真実をこめることはできる。わたしは、観音を、愛の寓意と読み、愛はすべてであり、それだからこそ自在であり、観音は全ての人の中に存在し、自らが観音となり、その愛によって己を含んだ全ての人を救うのだと、そう解釈して、それで仏教に愛の概念を取り込み、人々を導きたかったのです。それで、仏教の過ちを、少しでもなんとか修正しようとしたのですが」

そう言ったあとで、たからめのひかるは唇を噛み、星を見あげました。数珠の星の末弟である、雫の星が、妙な震え方をして、光っていました。
「今度もまた、それをおやりになるのですか?」とねのあかるが尋ねました。するとたからめのひかるは、星を見る目にかすかな涙をためながら、言ったのです。
「ええ、そうするつもりです。だが」
「ああ、言わずともわかります。多分、苦しいことでしょう。つらいことが、たくさんあるでしょう。人の世は今、本当に、悲劇を通りこして、恐ろしく滑稽なことになっていますから」
「知っています。だが、生きねばなりません。たとえすべてが崩れ去ろうとも、わたしは、何かをなしてこなければなりません。しかしあそこは、わたしのようなものが生きるのが、本当につらいこところ。一体どれだけのことをしてこられるか、それを考えると、どうしても胸を悲哀がふさぐのです」
「いと高きお方が、こうおっしゃったことがあります。『この中で、一番偉いのは、一番小さくて馬鹿な者だ』と」
「ああ、知っています。つまりは、新しきものを人の世に持ってゆくものは、それまでにすでにできあがった世界の中では、まるで馬鹿な、意味のわからないものに見えるのだと。本当の新しい真実を世界に持ってくる者は、いつも、既存の世に慣れた人の目には、世間のことなど何も分かっていない馬鹿に見えるのだと」
「そのとおり。あなたはきっと、たくさんの人に、馬鹿にされるでしょう。けれども、それを乗り越えて、まっすぐに真を信じてゆくことが、きっとあなたにはできるでしょう」
とねのあかるは、静かな声で、きっぱりと言いました。

たからめのひかるは、じっと目を閉じ、しばし何も言いませんでした。風が桔梗ヶ原を吹き、青い花が星だまりのように光って揺れました。それは、桔梗が、たからめのひかるを慰めるために、歌を歌っているようにも思えました。しかし、まだ学びの足らぬ人の身のたからめのひかるには、それがどういう歌なのか、わからないのです。ただ、何かとても大切なことを言われたような気がして、たからめのひかるの目はうるおい、胸が熱く震えました。
ふと、とねのあかるが、何かに導かれたかのように、声に出して、歌を歌いました。

光り来る 星のしじまを 胸に抱き ゆくみちはしる 君のこころを

あのように輝く星のことばは
静寂に包まれて聞こえないが
光とともに胸に抱いてゆこう
ああ あなたのゆく道はもう知っている
あなたの まことの心を

たからめのひかるは、とねのあかるを振り向き、少し驚きの混じった瞳で見つめました。とねのあかるは、何かがわかったようで、言いました。
「どなたか、見えないお方が、いらしたようだ。わたしの口を使って、あなたを、導きにいらしたようだ」
「ああ、そのようですねえ」
たからめのひかるは、目を細めて、微笑みました。そして天を見あげ、数珠の星を見あげました。飛雁の星が、かすかな針のような光を放って、たからめのひかるの頭の上に落としました。たからめのひかるは、深くお辞儀をして、数珠の星に感謝しました。桔梗の花たちは、悲哀にすこし沈みながらも、たからめのひかるのために、聞こえぬ歌を歌ってくれました。

そしてしばらくして、たからめのひかるは、周りにあるすべての愛に深く感謝の儀礼をすると、桔梗ヶ原に背を向け、とねのあかるに後をまかせ、にこやかに笑って、去ってゆきました。

たからめのひかると、とねのあかるが再びここで会うのは、これより九十年の後のことになっております。


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2012-10-26 07:20:53 | 月の世の物語・天人楽

北斗だ。北斗が、見える。

はじめに什が気付いたのは、そのことだった。(おかしいな、今は昼間で、星は見えないはずだが)什はそう思いながら、起き上がろうとして、初めて、自分がいつの間にか公園の芝生の真ん中にあおむけに倒れているのに気付いた。そして、目は動くものの、体は倒れたまま、芝生に吸いついたように、微動だに動けないことにも。
(おや?どうしたのだろう?)彼はしばしの間、棒のようにかたまった自分の体の中で、少し心が焦ったが、すぐに落ち着きを取り戻した。何が起こったのかは、すぐにわかる予感がした。

体を芝生に預け、そのまま、あらためて空を見ると、そこは昼間の青ではなく、夜の闇だった。そのくせ、自分の周りにある公園の遊具や大きな楠の木や、公園のそばの田舎家は、明るく、はっきりと見えた。まるで、昼の風景から、空だけ夜に塗り替えたようだ。

(とにかく、わたしは、たおれたまま、動けない)と、什は妙に穏やかな気持ちで、自分に言った。(今頃の季節なら、昼間の北斗は、あそこらへんに見えるな。子どもの頃、よく星座盤をいじっていたことがあるから、何となくわかる)什は、倒れたまま、しばし足元の方の空高くに見える北斗七星を見つめていた。(やあ、ミザールのそばに、アルコルが見える。それも妙に、はっきりと見える。どうやら、わたしは、死んだかな?長生きできるとは、思っていなかったが)

什がそう思うと、少し深いため息が、すぐそばから聞こえた。そして、聞いたことのあるようなないような、不思議な声が、言った。
「死んではいませんよ。死ぬところでしたが、危ないところは、なんとかしました」
(なんとかした?)什は、そう心の中で言いながら、首を声のした方に回した。突然軽々と首が動いたことに、少々驚きながら。すると彼は、自分のそばに、灰色のセーターを着た外国人の若者が、片ひざをついて座っているのを見た。彼は少年のような美しい顔だちをしていて、金髪を短く刈り、瞳は青玉を砕いて光を混ぜたような、見たこともないほどきれいな青だった。
(やあ、きれいな人だ。青い目が、空よりも澄んでいる)
什が笑いながら心の中で言うと、青い目の若者は、悲しげに笑いつつ、口の中でかすかに何かをつぶやいたあと、「こるみ」と言った。すると什は、なぜかそれに引き込まれるように、「ほ、きり」と言った。そして不思議に、什には、その意味がわかったのだ。それはこういうことだった。

「天の君、思い出されませ」「ああ、今、思い出しました」「あなたは死んではいけないはずでしょう」「たしかに、そのとおり。まずいことをしました。死んでしまったかな?」「いいえ、助かります。死にかけてはいますが、ある方法で何とかなります。その方法は…」「いわずともかまいません、わかっています」「おやりになりますか」「ほかになにがありますか」「しかしそうなると」「わかっています。わたしも人も、だいぶ痛い思いをする。しかし、できることです。このようなことを経験するのは初めてではありません」

什は、自分の肉体を離れてゆっくりと起き上がり、立ちあがった。そして、地面に横たわっている、自分の肉体を見た。「あぃき」と什は目を細めながら言った。…自分をこうして見るのは、ひさしぶりです。この肉体は、生まれる前のわたしとよく似ている。
目を閉じて横たわったまま動かない自分は、白く細い顔をしていた。短髪があまり似会わない。目を覚ましたら、髪を伸ばそうと、何となく什は思った。その什に青い目の若者は焦るように言った。
「なぇ」…ゆっくりとしていることはできません。あなたが死んでは困るのです。「ふみ」…心配することはありません。すべてはわかっています。

什は、肉体から離れたまま、ゆっくりと周りを見回し、そこにいる花や木たちの霊を見た。植物たちは何やら眩しげな顔で什を見つめていた。ああ、なじみの顔がわかると、什は思った。什が植物に興味を持ち、彼らに声をかけるようになったのは、ここ数年のことだ。学校を卒業して会社勤めを始めてからのことだった。彼は、社会に出て、初めて、自分が嘘を全くつけない人間だと気付き、この世で生きて行くことがとても難しい人間だと気付いた。そんな彼にとって、時には苦い嘘もつかねばならない会社の仕事は、とても苦しかった。それでも、無理に会社に通ったが、やはり職場になじむことができず、友人もできず、何気ない人の言葉に、心に刺を刺されるような苦しみを味わい続けなければならなかった。その苦しみを、詩を書いたり、植物に癒しを求めることで、何とかしていたのだが、それも追いつかなかった。心は傷の重みでどんどん重くなり、彼の心臓を傷めていった。そしてついに、彼は職場でやってはならないことをやり、それを理由に解雇されたのだ。

上司は彼に頭ごなしに言った。「この能無しめ!永遠にこの世からいなくなれ!」

その言葉は、瞬時に、什の心臓を砕いた。彼はその時死んだ。本当に、死んでしまった。だが、生きていた。口は勝手に動き、申し訳ありませんと言って、彼は上司に頭を下げて、会社を出て行った。彼が何をやったのか?説明するのもおかしいが、要するに、彼は、取引相手に対する愛に勝てなかったのだ。弱い者を、切り捨てることが、どうしてもできなかった。それが、会社の不利益につながることでも、どうしてもできなかった。それだけだった。

言葉は人を殺すこともできる、ということは真実だが、什のような生き物には、それは即死につながることがある。言葉だけで、心臓がとまることがある。什は死んでいた。だが生きていた。彼は最初の職場を解雇されてから、人の勧めで何度か職場を変えて仕事をしたが、どれも長続きはしなかった。どうしても、嘘をつくことができず、そして他人の嘘には簡単に引っ掛かり、罠に落ちた。人々はそんな彼を、影から陰湿に嘲笑った。どれくらいの月日を苦しんだのか。彼はとうとう、自分の内部がガラスのように砕けて崩壊して行くのを感じ、今日、本当に死を考えながら、ふらふらとこの公園まで来たのだった。

「をる」と、什は昔のことを思い出しながら言った。…あのときから、わたしのかわりにわたしを生きていてくれたのは、あなたですね。若者は答えた。「いてぃ」…そうです。あなたはもう死んでいました。わたしがかわりをやることで、心臓機能を守り、生命を保存しておりました。まだ肉体は生きています。「とみ」…神に感謝します。人類は助かる。「る」…おはやく。

什は若者を振り向き、まぶしく明るい不思議な笑いを見せた。それを見た若者は思わず目を伏せ、頭を下げた。什は彼に向かってにっこりとうなずき、人間の言葉で言った。
「ありがとう。感謝します。あなたのおかげで助かります。これからわたしは、わたしの段階を、自らあげます」
「はい」若者は静かに答えた。

什は空を見た。北斗が輝いている。ミザールのそばに、アルコルが寄り添っているのが、はっきりと見える。什は言った。「あの星のように、あなたはいつもわたしのそばにいるのですね」若者は早口で答えた。「天の君、それは真実ではありません。ここから見れば、あれらの星は夫婦のようによりそって見えますが、実際は、もっとはるかにはなれている」「そんなことは知っています。無粋をせずとも、夫婦でよいではありませんか。あなたはわたしの妻ですか、夫ですか」「では、妻の方に」若者は答えたが、心は火にあぶられるように焦っていた。早くしないと、本当に肉体が死んでしまう。「天の君、お願いたします」若者は頭を下げて、たまらずに言った。什は笑いながら、うなずいた。そして前を見ると、自らの肉体を見下ろしつつ、口の中で水晶玉を転がすような不思議な歌を歌った。それは、愛ゆえに、わたしであるがゆえに、今、わたしは、わたしを捨てます、と言う意味の、深い謎の呪文だった。

瞬間、什の姿が、金髪の若者には見えなくなった。一瞬、世界がぐらついた。暗い奈落の深みに引き込まれるようなめまいを、彼は共鳴としてともに感じた。戦慄の悲鳴が世界をガラスのように割ったような気がした。静寂が大気を重い砂にし、それが肺に詰まるかのように苦しかった。若者は、暗闇の壁の向こうに、絶望が大きな穴を開けているような恐怖を感じた。だが彼は口に苦い呪文をふくんでその惨い冷たさに耐えた。

その頃什は、どこかの暗闇の、深い奈落の底へとまっさかさまに落ちていた。どれだけ落ちても、底につかず、永遠に落ち続けるのではないかと思った。だが什にはわかっていた。奈落に落ちたことなど何度もあったからだ。彼は闇の中で自ら光を放ち、それに虹色に反射する自分の壁を見つけた。よし、あれが底だ、と思った。そして彼は、奈落に見つけた自分の底に指で触れた。氷が指の皮に吸いつくような痛みを感じたが、彼は迷わず、片腕だけで、簡単にそれを突き破った。音もなく、白い光が視界を埋めた。全身を砕くような痛みは一瞬だった。什は悲鳴も上げなかった。そして什は、いかにも楽々と門を抜け、古い自分の殻を脱ぎ、新たなものとなって、すぐに奈落から戻ってきた。

什の姿が、再び若者の目に見えた。長い時がかかったと思われたが、それはほんの数分のことだった。若者の目に、新しい什の姿が見えた。それを見た時、若者は、あまりの現実に、息を飲んだ。

新しい什は、何も言わぬまま、ゆっくりと自分の肉体に戻っていった。

風が吹いた。金髪青眼の聖者は、しばしの時を待った。やがて、公園の芝生に横たわった肉体の指が、かすかに動いたかと思うと、それはふと目を開けた。そして彼は、二、三度まばたきをしたかと思うと、ゆっくりと半身を起こし、小さなくしゃみをした。

「なんだ?眠っていたのか?こんなとこで」肉体に戻った什が、周りを見回しながら言った。もう、肉体を離れていた間あったことは、すっかり忘れていた。金髪青眼の聖者はほっと胸をなでおろした。

什は立ち上がり、空を見た。もちろん、もうそこは昼間の青空になっていた。星など見えるはずはないのに、什は何となく、北斗のことを思い出し、ミザール、ということばが、胸に蘇った。(ああ、なにか詩が浮かびそうだな。ミザール、アルコル、アルカイド、フェクダ…)

什はそのまま何にも気づくことなく、聖者に背を向けて、静かに公園を出て行った。聖者は密かにその後を追ったが、涙をこらえることができなかった。もはや、ここまでいかねば、できないことだったのか!

何が、あったのか?説明をするのも無粋だが。什は、死んだのだ。本当に、死んでしまったのだ。生きているあの什は、もはや元の什ではなかった。この生涯を終え、天の国に戻ったとしても、もう二度と、あの王に出会うことはできない。同じ人ではあるが、もう、あの美しい王と、同じ王ではないのだ、あの人は。彼は、生きるために、無理に愛の段階を上げ、それまでの自分を殺し、全く新しい自分として再生せねばならなかったのだ。そうでなければ、生きることができなかった。

天の国の人々は、何を思うだろう。王の新しい瞳を見て、何を感じるだろう。悲嘆の涙を流している聖者とは反対に、什は何か不思議な幸福感に包まれていた。仕事をクビになったことも、人に騙されてひどく嗤われたことも、何でもないことのように思えた。何もかもを愛の中に抱きしめられるような気がした。澄みとおる風が胸の中を通ってゆく。愉悦に心がひよこのように転がっている。道端の花々に目を向けながら、什は、そう言えば、今日は朝から、死ぬことばかりを考えていたと、思い出した。それで公園に向かったのだった。薬のようなものももってなかったし、木に首をつるせるような長い紐も持っていなかったが、なぜかあそこにいけばすぐに死ねるような気がしていた。

「そうか、わたしは一度、死んだのだな」什は言った。聖者は彼の後を追いながら、「はい、そうです」と彼には聞こえぬ声で言った。だがその声は、かすかに什の胸に響いた。彼は「ミザール、そしてアルコル」と言った。そして突然、後ろを振り向いた。そこに、誰かがいるような気がしたのだ。什は、見えない者に向かって、笑った。その信じられない笑いに、まるで赤子のような、あるいは狂者を思わせるような、澄むにもほどがあるほど澄んだ愛に染まった笑いに、聖者は目を閉じた。もはや、生きているはずのないものが、生きていた。

篠崎什は、その日から一年、床屋に行かなかった。髪を女のように長く伸ばし、不思議な微笑みをしながら、働きもせず、町をよく散歩する姿を、人に見せるようになった。彼は毎日のように詩作にふけり、やがて詩集を一冊出した。その冒頭にあった詩はこういうものだった。

ミザール 
そして アルコル

ともにいよう しばしのあいだ
君は見えず 君はいない
けれども君はいつも 
わたしのそばにいて
わたしが生きるための
空気をつくってくれるのだ
知っているとも

光を編む 透き通った神の指が
ゆっくりと開く 空の絵本の中で
わたしたちは 出会える
君を愛している
ああ 愛している

ミザール
そして アルコル



2012-10-25 07:04:22 | 月の世の物語・天人楽

天の国には、書堂が各地にたくさんございまして、天の国に住む人々の、よい勉強の場になっておりました。もちろん、学堂もたくさんございました。時々、聖者様や、お役人さまが、教師としてきてくださり、魔法の詩や呪文や、琴や笛の鳴らし方、道具の使い方、様々な道理の現れや人としての礼儀などを、教えて下さいました。

川音透(かわねのすくや)と言う者が、おりました。彼の仕事は、おもに月夜麦(つくよむぎ)という麦を育てることでありました。月夜麦は天の国にしか育たぬ麦で、天の国に降り注ぐ甘く強い月光を浴びて伸び、収穫の季節ともなると、畑は金色の波のうねる海のようになりました。かわねのすくやは、それはていねいに、まるで王子に仕えるしもべのように、月夜麦を世話し、育てました。そして収穫の季節となると、神と麦に感謝する丁寧な儀式を行い、精霊の風の助けを受けながら、白い月長石の鎌で、麦を刈ってとりいれました。麦が自分を愛してくれて、全てを与えてくれることを、かわねのすくやはわかっておりましたが、それでも、鎌を使わねばならないときは、涙が流れました。かわねのすくやは、こうして、月夜麦を育てることを通して、人間にはまだ、麦を刈ることが辛すぎるということを、学びました。精霊が助けてくれねば、自分が育てた、愛おしい麦の茎の、ほんの一本さえ傷つけることができないのです。

「ああ、われわれが生きるために、どれだけの愛が助けてくれているのでしょう」かわねのすくやは、麦を刈る手をふととめて、よく言いました。すると風を吹かせてくれた精霊が、鈴のような声でささやくのでした。「よく学びなさい。そうすれば、多くのことがわかるようになり、もっとすばらしいことができるようになります」
すると、かわねのすくやは、本当にそうだと思って、胸に深く精霊のことばを吸い込むのでした。そして、仕事が終わって、畑を休める季節に入ったら、また毎日のように、書堂に通い、勉強しようと思うのでした。

余談でございますが、かわねのすくやが育てた月夜麦は、しばし月光に干され、粉にひかれますと、とてもよい香りのする金色の粉になります。それは、別の職人によって加工されて、きれいな二枚貝の入れ物に入れられ、女性がお化粧に使うおしろいや紅になります。お化粧などせずとも、女性は美しいのですが、ほんのかすかに唇に紅をひいたり、額に花模様など描きますと、それは眩しいほど美しくなり、それを見る人は深くため息をつき、本当に幸福を感じるのでした。天の国の女性たちはもちろんのこと、深い地獄に苦しむ女性たちにも、少しずつ、このおしろいは与えられました。罪を得て地獄に落ちた女性たちは、ときに、その香りよいおしろいを顔に塗ると、蜜が肌にしみ込むように顔が気持ちよくなり、塗った色がしばし、本当の自分の肌の色になるのでした。少しでも美しくなれることが、どのように女性にとって救いになることか、かわねのすくやは、まだ十分にはわかっておりません。ただ、道理に従って、気まじめに働き、地獄の女性たちのために、月夜麦を育てているのです。

さて、かわねのすくやは、とりいれを終わり、麦を粉にひくと、出来上がった粉の袋を、職人の工房に持ってゆきました。そして、ようやく畑の仕事が終わると、家に帰っていそいそと帳面と筆箱を布鞄に入れ、少々遠くはありますが、国で一番書物のそろっている、王様のお宮のちかくの書堂に向かうのです。人にとっては、二日ほどかかる道のりでございます。けれども、かわねのすくやには、だれにもおしえていない秘密の楽しみが、そこにございましたので、どうしても足は、一番近くの書堂ではなく、少し遠いその書堂に向かうのでした。

書堂につくと、かわねのすくやは早速、書棚から何冊かの難しい本をとり、席に座って読み始めました。本を読んでいると、時々文字が星のように光る時があります。それは本が、かわねのすくやに、ここはとても大事なところだと教えてくれているのでした。そういうところを見つけますと、かわねのすくやは、道端に落ちていた珠玉を見つけたかのようにうれしくなり、さっそく帳面に丁寧に書きうつすのでした。そうして、畑の休みの期間、かわねのすくやは、書堂にこもったり、時に学堂の末席に座ったりして、勉学にいそしむのでありました。

ある宵のことでございます。かわねのすくやは、あいかわらず書堂の一席に座り、書物を読みふけっておりました。しばらくすると、なにやらさわさわと人声がして、何人かの天女の方々が、書堂に入って来られました。それに気付くと、かわねのすくやは、驚きあわてて、席を立ち、天女の方々に挨拶をしました。天の国に住む男性たちは、よく学び進んでおり、人として魂の位も高い人たちですので、女性に対する礼儀もちゃんと心得ておりました。
かわねのすくやの、人間なりにりっぱに洗練された挨拶を見ますと、天女の方々はそれは喜び、また、男性に対するとても立派な礼儀をされました。女の方々は、それはやさしく、深い尊敬の心をこめて、男性に挨拶をされます。それを受けますと、かわねのすくやは、自分がとても立派になったような気がして、あわてて心の中で自分を律するのでした。女性は男性をとても立派にしてくれますが、それを、当たり前のことと思ってはならないことを、かわねのすくやはちゃんと知っていたのです。

天女の方々は、四人ほどおられたでしょうか。今日はまた、王様が御椅子に座られたまま、奏楽の途中で眠ってしまわれたので、書堂にて書物に触れて学びを得ようと、みなで書堂に集まってきたのでした。かわねのすくやも、挨拶を終えると、ほっと安心して席に座り、読みかけの本に目を移しました。そのとき、書室の入口にいたおひとりの天女の方が、廊下の方を見て少し驚いたような声をあげられました。
「あら、醜女の君がいらっしゃいますよ」「まあ、ほんとう」

それを聞いた、かわねのすくやは、一瞬、心臓が爆発したように大きくなり、突然ぱたりと書物を閉じて、立ち上がりました。そして、幾分顔を赤く染めて、あわてて書物を書堂の管理人のところに持っていき、言ったのです。
「こ、これを、お借りしたいのですが」
すると書堂の管理人は、ちょっと驚いたように目を見張って、言いました。
「よろしうございますよ。けれども、お堂で読まれる方がよいのではありませんか。席も温まっておりますし」
「はい、あの、何故にか、川そばで、風に吹かれつつ、月の光で書など読むのも、よいかと思いまして」
「まあ、今宵は新月で、月の明かりはございませんよ?」
「え、あ、あ、その…」

かわねのすくやが、言いよどんでおりますと、後ろにいた天女の方が、助け船を出されました。
「お庭の隅の、岩魚の御池にいかれるとよろしいですよ。池のそばに長椅子がありまして、明るい月色灯が池を照らしておりますから」
「そ、そうですね。ありがとうございます」
かわねのすくやは、そういうと、借りた本を脇にはさみ、布鞄を持ってあわてて書室を出て行きました。廊下の途中で、醜女の君とすれ違いました。醜女の君は、微笑んで、そっと頭を下げて、かわねのすくやに挨拶をされました。かわねのすくやは、一瞬、醜女の君のかわいらしい小さな瞳を盗み見たあと、小さな声で、「し、失礼」と言って、足早に書堂をでていきました。

醜女の君は、相変わらず、羽衣を、顔を隠し気味にかぶり、書室に入ってきて、そこにいた方々に丁寧に挨拶をなされた後、書棚から、鳥の音の詩集を取り出し、席を選んでゆっくりと本を読み始めました。

それを見ていた、天女の方々は、少しとまどいがちな顔を交わしました。かわねのすくやに助け舟を出した一人の天女が、醜女の君に聞こえないよう、小さな声で言いました。「なんてことでしょう。せっかくの機会ですのに、わたくしときたら、もう少し気のきいたことができなかったのかしら」すると別の天女が同じく小さな声で答えました。「ほんに、ひきとめて差し上げた方がよかったでしょうか。でもあのご様子では、あまりにも痛々しくて」「人間の男性は、恋にはまことに未熟でございますから。遠いところをこの書堂に来たのは、あの方にお会いするためだったのでしょうに」「どんなに高い道理を心得ていても、恋にはかなわないのでございますよ。恋とはまったく、苦しいもの」「まあ、そういうあなたは、恋がお上手でいらっしゃるの?」「…あら、恥ずかしいこと。未熟をさらしてしまいましたわ。ほんに、恋が簡単にできる方法を、どなたか書いては下さらないかしら」「それは多分、聖者様にも、ご無理でございましょう」

「ではせめて、今日は恋を学びましょう」「よろしうございます。山梅集など、読みましょう。古い時代の恋の歌が、たくさん書かれてありますから」「何かよい知恵を、授かるかもしれませんわ」
天女の方々は、書棚から薄紅色の本をそれぞれにとり、席についてそれを読み始めました。醜女の君は、何一つ気付くことなく、ただ、詩集に読みふけっておりました。

かわねのすくやは、月色灯の照らす長椅子に座りながら、ぼんやりと池を泳ぐ岩魚を見つめておりました。借りてきた本は、読む気にもならず、布鞄の中に入れてありました。「なんでこんなに、わたしは愚かなのか」かわねのすくやは、そういうと、涙が目に盛り上がってきそうになりました。

かわねのすくやは、もうずいぶんと昔、月の明るい望の宵、ある庭の片隅で月珠を丸めている醜女の君を、見かけたことがありました。まだ、天の国に来て間もない頃でありましたから、彼女が何をしているのか、どういう人なのか何も知りませんでした。醜女の君は、月珠を作り終わると、羽衣で汗を吹きながら、それは澄んだきれいなお声で言ったのです。
「ああ、これで、どれだけの人をお助けすることが、できるでしょう!」

ああ、恋に落ちるということを、神が事前に教えて下さっていたら、あのとき、あそこには行かなかったものを。こんなに長い間、苦しむことがわかっていたら、決して行きはしなかったものを。難しい道理を、どれだけ勉強しても、何も、恋に胸を焦がされる痛みを癒してくれるものはないと、わかっていたら…

かわねのすくやは、ほろりと涙を流しました。見あげると、新月の大きな月は、自ら光る天の国の光を反射して、うっすらと暗色に灯り、静かな顔で彼を見下ろしています。

かわねのすくやは、今宵の自分の愚かさを、月に明かし、導きを求めました。月は何も言わず、ただ沈黙のうちに愛を語りました。かわねのすくやは、醜女の君のことを思い、胸にこみあげてくる熱いものを、せめてもと、小さな歌にしたいと思いました。その歌は、月以外に、決して知られてはならない歌でした。月は、かわねのすくやをみつめ、約束をずっと守ると、微笑みました。そうして、かわねのすくやは、月が傾けてくれた耳の中に、そっとささやくように、歌を落としたのです。

白珠の 貝も閉ぢつつ 夢歌ふ 君に琴の緒 触るもたまらず 

白珠の君を 思う心を 
ああ 硬く閉じる 水底の貝さえ 
そっと夢にささやくことが あるものを 
このわたしときたら 
あなたにさしあげる 歌のために 
琴糸に触れることすら できないのだ…




2012-10-24 12:18:48 | 月の世の物語・天人楽

さて、月の世にある天の国には、遠蕗根(とほのふきね)と言う名の、職人が住んでおりました。彼は、天の国の一隅に、小さな工房を頂き、そこで、稲見雪(いなみのをゆき)と言う名の、女の職人と二人で、水晶の粒の光を種に、月光を集めて、清らかに白い兎の置物を作っておりました。

どうやって作るかと言いますと、まず、工房の庭で、まるい銀の鍋の中に集めた水晶の粒に、月光をあてて、ゆっくりと月光を集め、魔法をかけて、水晶と光を混ぜてやわらかい粘土のようなものにします。そして、その光る粘土に、少しだけ(この分量が真に難しいのですが)、白い蛾の鱗粉を混ぜますと、粘土は少し光をおさめて白くなり、まことによい香りを発するようになり、柔らかさもちょうどよくなって、職人の手に扱いやすくなります。その白い光の粘土をこねまして、何度か伸ばしたり、ちぢめたりを繰り返して行くと、風のように軽かった光の粘土に、少し重さが出てきてまいります。そうやって少し重くなった光の粘土を、掌に載るくらいの小さな玉に丸めたものを、いくつか作ります。そしてその玉に、いくつか切れ目をいれ、形を整えて、小さくも愛らしい長い耳や、かわいい目鼻をつくり、手足の形もまろまろとやさしく作ってやりますと、それはみごとな、今にもぴょんとはねていきそうな、白い兎の置物ができあがるのです。

とほのふきねも、いなみのをゆきも、それはすぐれた職人でありましたから、一晩でそれはたくさんの兎を作りました。そしてその兎は、できあがると、しばしのあいだ、庭にしいた簾の子の上に並べて干されました。そして兎は、月を新月から新月まで、あるいは望月から望月まで、あるいは、三日の月から、三日の月まで、ひとまわり浴びますと、いつの間にか、いなくなっておりました。兎は、いと高きお方からの愛を受けて、動き出し、その使いとして、月の世の地獄に苦しむ罪人を少しでも慰めるために、歌を歌いにゆくのです。兎がそれから、どんなことをするかと言いますと、たとえば、ある細い月の照らす地獄で、重い大きな石に縄をかけて、長い年月をその石を引っ張り続けている罪びとのところに、兎が行ったことがありました。兎は、ひょいと罪びとの肩に乗って、小さな声ではありますがそれはかわいらしい愛を歌いました。罪びとは、兎のあまりのかわいらしさに、心を溶かされて、頑なだった心がほどけ、つい涙を流しました。そして、涙があふれ出して、止まらなくなりました。兎は、石を引く罪びとの肩に、ずっととまっておりました。ずっと離れずにいました。罪びとは、そんな小さな兎をそれは愛して、かわいがりました。そして、とうとう、自分の罪が、わかりました。愛すべきだった人々を、深く傷つけてしまった自分の過ちに、気付きました。そして心から、神様や、皆に、あやまりたいと、思ったのです。そうやって、罪びとが、心から愛に目覚めた時、兎は使命を終えて、月の光の中に消えてゆくのでした。

とほのふきねと、いなみのをゆきは、長い長い間、こうして、この天の国で、たくさんの罪びとを助けるために、働いているのでした。

ある夜のことです。とほのふきねが、何かの予感を感じて、ふと、粘土をまるめていた手をとめました。すると、ななめまえの机で作業をしていた、いなみのをゆきも、ふと顔をあげ、立ち上がって、工房の窓を開け、風を入れました。

「おや、匂いがしますよ。どうやら、そろそろのようですねえ」と、いなみのをゆきがいいました。すると、とほのふきねも、窓辺のほうにやってきて、風の香りをかぎました。「ああ、ほんとうだ。なつかしい。もう何年たちますかねえ」「それほどには、なりませんよ。いまは、それはむずかしい時代ですから」「それでも、五十年にはなりますよ。あの人のことだ。どんなかっこうで帰ってきますやら」「ほほ、おもしろい方ではありますから」

そのとき、風に乗って、それは水晶のように透き通った声の、美しい歌が聞こえてきました。
「ああ、王様が、歌っていらっしゃる」いなみのをゆきがいいました。とほのふきねは、それを聞くと、一瞬、胸を震わせ、身を縮めました。そして目に涙を灯しながら、言いました。「いつも、なんと、お美しい声なのか。ああ、わたしたちは、幸せだ。王様が、いらっしゃる。そしていつも、美しく、まっすぐに、正しくていらっしゃる。その幸せが、なんと美しいのか。わたしたちに、それがわかるのが、ああ、ほんとうに、幸せです」「まことに、まことに、そのとおり」

ゆこう みちはきびしく つらく そしてながい
だがわたしはゆこう それがわたしの
だれにもはじぬ まことのみちならば

王様のお歌は、ふたりの胸の泉を、それは清らかに澄ませて、その奥に生きている金の魂をかすかにふるわせてゆくのです。そしてふたりも、思うのです。目を合わさずとも、言葉を交わさずとも、ふたりは互いの心が同じであることがわかりました。きっと自分もまた、どんな苦しみもいとわず、真の道を進んでいくだろうと。

そのときでした。工房の戸をとんとんとたたく音がしました。それに気づくやいなや、いなみのをゆきがあわてて戸口に走り、戸を開けました。するとそこに、何とも青ざめた顔をした、ひとりの痩せた男が立っておりました。まるで肩に重い荷を背負ってでもいるかのように、背を曲げて、かすかに苦しく細い息をしています。いなみのをゆきがあわてて、癒しの呪文をとなえ、その男の体を支えました。とほのふきねもかけよって、男にやさしいことばをかけながら、工房の中にいれ、彼をやわらかい座布団の上に座らせました。いなみのをゆきは、コップに月光水をためて、男の口元にもってゆき、それを飲ませました。
しばし時間が経ちました。男の顔が、少し血の気を取り戻してくると、ほっとしたように、とほのふきねがいいました。
「ああ、ずいぶんと心配しましたよ。まるであなたが瑠璃のように青かったものだから」すると男は、少し笑って言いました。「瑠璃とはまた、青すぎる。せめて、露草玉といってください」

帰ってきた男は、月光水を何杯か飲んで落ち着き、深くため息をつきました。彼の名は、柿種日(かきのたねび)と言い、とほのふきねたちと同じ、この工房で働く職人でした。
「このたびは、何年でございました?」いなみのをゆきが、たずねました。するとかきのたねびは、落ち着いた様子で笑いながらも、しばし黙し、微笑みは崩さぬまま、かすかに苦しみの色を瞳に見せ、言いました。「五十四年で、ございました。急な、病でして。心臓が苦しいと、思いましたら、もう何もわからなくなりました。気づいたら、病院にいて、しばらくはもったのですが、治療のすべもなく、七日ほどの苦しみの後、ここに帰ってきた次第です」
「このたびの人生は、いかがでした」とほのふきねが、たずねました。するとかきのたねびは、目を閉じ、しばらく、甘苦いものをじっくりと味わうような顔をして、ほう、と長い息をついてから、静かな声で、言いました。
「…むずかしいもので、ありました。生まれる前、なさねばならぬと思っていたことの、十分の一のことすら、できませんでした。わたしは、人生を八十九年も授かり、その時を使って、人間の世に、愛と恵みを持っていくはずでしたが、どんなに苦労をしても、世間の硬い壁を越えることができず、誰も真剣に相手をしてくれませんでした。心労と焦りが病を生んだのか、人生は五十四年で無念に終わりました。せめて、できたことは、小さな本を一冊書き、それを残してきただけです。生きていた頃、わかっていた限りの、真の愛の意味を、物語に変えて書いてきました。それも、人々が読んでくれる可能性は、低いと思います。わたしが生きて、人の世に残してきたものは、しばしの間、家族が形見として残してくれるだけでありましょう」

とほのふきねと、いなみのをゆきは、悲しそうな目をして、かきのたねびを見つめました。かきのたねびは、薄い悲哀の水に、しばし心を泳がせた後、ふと風に気づき、顔をあげました。
「おや、王様が」とほのふきねが言いました。
「まあ、ほんとうに、また歌っていらっしゃる」
「なんとおやさしい声だ」

ゆこう みちはきびしく つらく そしてながい
だがわたしはゆこう それがわたしの
だれにもはじぬ まことのみちならば

「まことの、みちならば」風を追うように、かきのたねびが、王様の歌を、繰り返して歌いました。すると、ほたほたと、涙が、かきのたねびの目から落ちました。
とほのふきねも、歌いました。いなみのをゆきも、歌いました。

まことの、まことの、道ならば……

三人は同じ悲哀の水を泳ぎながらも、心に薄絹をかぶるようなあたたかな幸福を味わいました。

「ほんとうに、くるしかった。でも、よい人生でした」かきのたねびが、言いました。

とほのふきねと、いなみのをゆきは、そんなかきのたねびをかこみ、ほほえみました。何も言わずとも、すべては、わかりました。

とほのふきねは、むかし、キリスト教徒として、人の世に生き、業病を患う人たちの村に住んで、彼らのために、一生をささげたことが、ありました。いなみのをゆきは、昔、仏教徒として、阿弥陀の救いを信じ、親を亡くした子ども、親に捨てられた子どもたちのために、一生をささげたことがありました。かきのたねびは、むかし、ある国の政治家として生き、国同士が憎み合って起こした戦争を止めるために、命を賭して活動をしたことがありました。みな、そうやって、真のために人生をささげてきた人たちでした。

月の世の、天の国には、そんな人が、多く住んでおります。たいていは、職人として、魔法の技を学び、様々な美しいものを作っては、深き罪を犯した人々のために、尽くしているのです。



天人楽

2012-10-24 07:21:48 | 月の世の物語・天人楽

終わったと思ったら、なぜか何かが始まってしまうこの物語。
まるで無限につるを伸ばす植物のようです。

「天人楽」は、「てんじんらく」と読んでくださいませ。
どんなお話かは、読んでからのお楽しみとして。

今日の午後に、第一話を更新します。

「天人楽」全六編。
今日から六日の間、お楽しみいただけると、幸せと存じます。

では、午後にてお会いいたしましょう。