今日の午前11時ごろ、近くのスーパーにお買い物にいく途中に、きれいな彩雲を見ました。
この現象、彩雲であってるかどうかわからないのですが、虹色に染まった雲が真一文字に伸びています。
太陽はこの不思議な虹の色に染まった雲の、上にありました。
何かのしるしでしょうか。いいことあるといいな。
今日二回目、予定外の更新です。皆様にも幸運のおすそ分けを。
わたしの住んでいる町は海辺にあり、その海の向こうの岸には、大きな飛行場があるので、よく空を飛行機が飛んでいます。時には、このように、白い筋を引きながら、銀の飛行機がまっすぐに飛んでいきます。
朝、ベランダに洗濯ものを干しに出た時などに、よく、こんな風に、小さな飛行機が、白いまっすぐな糸をひいて、太陽の的を目指すようにまっすぐに飛んでいるところを目にします。この写真では微妙にずれていますけれど、時には、見事に太陽の的に当たっている時もあります。
なんだか不思議な鳥が太陽を目指しているかのようにも見えます。
あれはいつだったか、冬だったと思うのですが、空に三本のまっすぐな飛行機雲がほとんど平行に、ほぼ同じ幅で空を横切っており、その三本の線が区切る空に描かれた青い二つの道の、一つには太陽が、その隣のもう一つには、半分に欠けたお月さまがいるのを見たことがありました。その時ふと、わたしはその意味がわかったような気がしたのです。それは日ごろ、私が感じていた心の痛みへの、神の答えのようにも思いました。そしてひとかけらの詩を書いたのでした。
太陽の道も 月の道も
目的地は同じ
ただ一筋の
まっすぐな道。
前にも似たようなことを言いましたが。正しいことと愛を信じて、まっすぐな道をゆく者も、暗夜に落ち、過ちの中に苦しみながら迷いさまよう者も、いずれは、神のもとに帰ってくるだろう。自分という、本当の存在となり、愛の国に帰ってくるだろう。
どんな深い闇に落ちてさまよおうとも、いずれはきっと、ここに帰ってくるだろう。
ともかくも、ここでは、太陽に向かってまっすぐに進む鳥のような飛行機が、まっすぐな尾を引いて飛ぶ姿が、よく見られます。
その風景は、空に書かれた神様からの手紙のようだ。
*
補・8月10日)
冒頭の写真をアップした日、ベランダに出てみたら、飛行機雲が見事に太陽の真ん中を貫いていました。ほんと。これが証拠写真です。

ね。ほんとなんですよ。空を見ていると、よくこういう不思議なことがあるんです。
今日は暖かで穏やかな日です。こういう日和を、ここらへんでは「なごい」といいます。「今日はなごいなあ」とかね。おくにことばです。
そのせいかどうか、今日写真を撮りにいつもののっぱらへ行ってみたら、菜の花が咲いていました。タテハチョウやシジミチョウもひらひら飛んでいました。写真を撮ろうと追いかけたけど、とてもかなうはずもなく、空の向こうに飛んで行くのを、指をくわえてみおくりました。
今日は空の写真をたくさん撮りました。きれいだったので。「なごい」日は風もないので雲もあまり動かずゆったりとしています。見ているうちに少し悲しくなってきました。今の病の身の苦しさが。
空を見ると自分が見える。どれくらい我慢すればいいのか、わかりませんが、とにかく、がんばります。
あたたかく、見守っててください。いつも愛しています。
苦しくてつらいときも、信じてます。この苦しみには意味があるんだと。
がまんできないってとこをがまんして、がまんして、またがまんして、どこまでがまんするのかわからないってとこまできても、がまんして、がまんして。がんばるしかないとがまんして。
そんな自分がせつなくなる。空を見ると。そこには同じ悲しみが流れているから。すべてを見て知っている何かが、わたしの苦しみを感じているのがわかるから。
空を愛している。心から。いつもみていてくれるから。
そのせいかどうか、今日写真を撮りにいつもののっぱらへ行ってみたら、菜の花が咲いていました。タテハチョウやシジミチョウもひらひら飛んでいました。写真を撮ろうと追いかけたけど、とてもかなうはずもなく、空の向こうに飛んで行くのを、指をくわえてみおくりました。
今日は空の写真をたくさん撮りました。きれいだったので。「なごい」日は風もないので雲もあまり動かずゆったりとしています。見ているうちに少し悲しくなってきました。今の病の身の苦しさが。
空を見ると自分が見える。どれくらい我慢すればいいのか、わかりませんが、とにかく、がんばります。
あたたかく、見守っててください。いつも愛しています。
苦しくてつらいときも、信じてます。この苦しみには意味があるんだと。
がまんできないってとこをがまんして、がまんして、またがまんして、どこまでがまんするのかわからないってとこまできても、がまんして、がまんして。がんばるしかないとがまんして。
そんな自分がせつなくなる。空を見ると。そこには同じ悲しみが流れているから。すべてを見て知っている何かが、わたしの苦しみを感じているのがわかるから。
空を愛している。心から。いつもみていてくれるから。
今日はみごとに晴れました。といってもこれは今日の写真じゃないんですけどね。今日の空は雨に洗われて磨かれた陶器のように澄んで光ってます。空がまぶしい。
でも、今日はもう4時から起きてたんですが、地震が起こったのにはびっくりしました。幸い被害は少なかったようですけれど。雨があるから心配ですね。
水はこわいですね。今回の雨でもう何人も亡くなってる。被害にあわれ亡くなられた方とそのご遺族には、心よりお悔やみ申し上げます。どうかこの雨が早くやみますように。
ところで、今日は朝から気分悪く、牛乳依存を続けています。しんどいと思ったらどうしても飲んでしまう。なぜかわからないけれど、とにかく牛乳を飲んじゃうんです。麦茶でも代わりになりますけど、とにかく牛乳。なんでこんなに牛乳を飲むのか、自分でもわからないです。
つらいと思ったら、冷たい牛乳を飲むときのそう快感が欲しくなるんです。それで気色悪さがなくなるわけじゃないんですけどね。一瞬でも忘れられるならと、つい冷蔵庫に手が伸びてしまう。
つらいときは、空でも見上げて、胸の悲しみを少し吸い取ってもらおう。
そうすれば、明日も明後日も、この気色の悪さと戦う気力がわいてくるでしょう。
できるとも、わたしはつよいんだ。
といいつつ、今日も牛乳に依存しながら、なんとかがんばるわたしです。
がんばってます。
でも、今日はもう4時から起きてたんですが、地震が起こったのにはびっくりしました。幸い被害は少なかったようですけれど。雨があるから心配ですね。
水はこわいですね。今回の雨でもう何人も亡くなってる。被害にあわれ亡くなられた方とそのご遺族には、心よりお悔やみ申し上げます。どうかこの雨が早くやみますように。
ところで、今日は朝から気分悪く、牛乳依存を続けています。しんどいと思ったらどうしても飲んでしまう。なぜかわからないけれど、とにかく牛乳を飲んじゃうんです。麦茶でも代わりになりますけど、とにかく牛乳。なんでこんなに牛乳を飲むのか、自分でもわからないです。
つらいと思ったら、冷たい牛乳を飲むときのそう快感が欲しくなるんです。それで気色悪さがなくなるわけじゃないんですけどね。一瞬でも忘れられるならと、つい冷蔵庫に手が伸びてしまう。
つらいときは、空でも見上げて、胸の悲しみを少し吸い取ってもらおう。
そうすれば、明日も明後日も、この気色の悪さと戦う気力がわいてくるでしょう。
できるとも、わたしはつよいんだ。
といいつつ、今日も牛乳に依存しながら、なんとかがんばるわたしです。
がんばってます。
これは、その日、のっぱらから見た空。静かな空でした。
人は、どうしようもないことにぶつかったり、失敗をしたり、泣きたいことがあったりすると、空を見たくなるみたいです。
だってあそこには、すべてを知ってるひとがいて、何もかもを受け入れてくれる。
今日、なんであんなことをいってしまったんだろう? もう少しやさしくいえばよかった。いえ、もっといい方を変えればよかった。そんな些細なことでも、人の心はぐじぐじと痛むもので、そんなときは空を見ると、ひととき、何かを忘れさせてくれる。そして、ま、いいか、なんてことになって、人は又生きていく。
問題は何も解決してないけれど、まあ、これからさ、なんて気楽な気分になれる。自分を信じようという気にもなれる。
だって空は許してくれるから。
おやまあ、またやったのか。つらいのか、くやしいのか。
空には、笑いながらそんなことをいっているひとが確かにいる。だから、空はいつも、どこまでもどこまでも、青いんだ。
わたしも病気で泣きたくなることなんてしょっちゅうです。でも、空を見ると、ああ、見ていてくれるものがいる、と感じる。そして答えてくれたりもする。
何でわたしはこんなに苦しまねばならないのですか?
すると空は答える。
もう苦しいことなど、何もないよ。
私には半分意味がわからない。でも半分はわかる。でもそれは秘密。教えない。
空はいつもわたしたちを見ている。
人は、どうしようもないことにぶつかったり、失敗をしたり、泣きたいことがあったりすると、空を見たくなるみたいです。
だってあそこには、すべてを知ってるひとがいて、何もかもを受け入れてくれる。
今日、なんであんなことをいってしまったんだろう? もう少しやさしくいえばよかった。いえ、もっといい方を変えればよかった。そんな些細なことでも、人の心はぐじぐじと痛むもので、そんなときは空を見ると、ひととき、何かを忘れさせてくれる。そして、ま、いいか、なんてことになって、人は又生きていく。
問題は何も解決してないけれど、まあ、これからさ、なんて気楽な気分になれる。自分を信じようという気にもなれる。
だって空は許してくれるから。
おやまあ、またやったのか。つらいのか、くやしいのか。
空には、笑いながらそんなことをいっているひとが確かにいる。だから、空はいつも、どこまでもどこまでも、青いんだ。
わたしも病気で泣きたくなることなんてしょっちゅうです。でも、空を見ると、ああ、見ていてくれるものがいる、と感じる。そして答えてくれたりもする。
何でわたしはこんなに苦しまねばならないのですか?
すると空は答える。
もう苦しいことなど、何もないよ。
私には半分意味がわからない。でも半分はわかる。でもそれは秘密。教えない。
空はいつもわたしたちを見ている。
祭りも終わって、夏休みも後半にさしかかりました。わたしは相変わらず、ひきこもり生活です。ここ数日体調がすぐれなかったのですが、持ち直しました。というより、軽い麻痺感覚の中を泳いでいるという感じ。本当は、痛いところを抱えているのですが、何かがヴェールをかぶせて、見えないように、感じないようにしているという感じです。
昨日は、カメラを抱えて、少し近所を撮影してきました。目的は、ご近所のお庭のフヨウだったのですが、近くによってみると、ありがいっぱいいて、花がとらないでと言ったので、やめました。空地や公園を歩いて、フウセンカズラやヒルザキツキミソウなど撮ってきたのですが、あまりこっちを見てくれません。わたしの調子の悪いのが、苦しいみたいです。
花が苦しむので、しばらく虫の写真に凝ってみようかなと思います。これは、昨日の、空の写真。弱めた雲の色の中に、何もかも忘れて溶け込んでしまいそうだ。痛いことも苦しいこともない。何もなくなって、すべて忘れて、眠ってしまってもいいような。
しばらく甘えていよう。
美しい青空の写真です。これは洗濯物を乾すためにベランダに出たときに見た空、だったかな。ひきこもりのわたしが写真を撮るポイントは、だいたいスーパーの駐車場、幼稚園や小学校の近く、うちのベランダと決まっています。
遠くに出かけたくても、なかなか体が言うことをききません。
隣町の美術館で、今いい展覧会をやっているので、見にいきたいのですが、この調子では、いけそうもありません。昨日は、せっかくのイヴなので、子供たちをつれて外食に出かけたのですが、レストランを出た帰りによったスーパーで、急に気分が悪くなり、しばらくトイレの中で死にそうになっていました。
なので、今日は一日ふとんの上で過ごすことにしています。子供のセーターの袖をちまちま編みながら、ほかにはなにもせず、何も考えずにすごそうと思っています。
せっかっくのクリスマスなので、それにちなんで今日は聖書のことばでも紹介しようと、計画を練っていたのです。おもしろい記事を書こうと思っていたのですが、昨日のことで、頭の中にあったことばが消し飛んでしまいました。かなりいいものが書ける予定だったのですが。
やれやれ、サイアクです。これより悲惨なイヴを過ごした方はいらっしゃるかな?
ともあれ。みなさまには、よいクリスマスでありますように。
お幸せがありますように。
今日もデジカメくんは、空の写真を撮ってます。時々花の写真も撮るんですが、気のせいかな、ちょっと復活してるみたい。赤いサルビアの花が、きれいに撮れました。もっといいのが撮れたら、また紹介してみましょう。
春までにはなんとか、新しいデジカメがほしいですね。
今日はクリスマスイヴですね。サンタの御用は、わたしはもう昨日すべて済ましてしまいました。体調面から、イベントを規則どおりにこなすことは、とてもできないと思ったからです。でも、子供たちはプレゼントをとても喜んでくれました。
本屋さんで、新しい編み物の本を一冊買い、4男にセーターを編み始めました。毛糸が足りるかどうか、微妙なところなので、ベストになるかもしれませんが、夜中までかかって、後ろ身ごろを編み上げました。
詩もぼちぼち書いているし、絵も紹介したいのがあるのですが、最近はなんだか、日常のつまらないことを、ちまちま書いているのが楽しいです。おもしろいこともなさそうな、毎日の病人生活の中で、小さな楽しいことをつまみだして、書いている。
ほんとうに苦しいときは、こんな感じなんでしょう。でも、苦しいとはあまり感じない。苦しいことを、苦しいと感じすぎないように、今はあらゆることをやってみて、なんとかしてる。そんな感じです。きっと今の苦しさは、過ぎてみて初めてわかるんでしょう。
とにかく、できるだけ、今を楽しんでみる。楽しそうでないことも、無理やり楽しんでみる。そんなことで、やってるのかな。
かなり、おもしろいですよ。
さて。
みなさまには、どうか、美しいイヴを、おすごしください。
今日のは、幼稚園の近くの駐車場から撮った空です。街中で撮ると、電線やアンテナなどが写りこみやすいので、これもちょっとトリミングしてます。
雲の穴の形が、まるで光る鳥のようです。
今日から、こどもたちは冬休みです。なので昨日は、学校に、懇談会や教育相談に行ってきました。幼稚園、小学校、中学校とはしごして、先生と子供たちについて話をしてきました。
体調から、あまりこみいった話はできなかったのですが、おもしろいなと思ったのは、学校の先生は、上に上がるほど、ふつうっぽくなってくるなってことです。幼稚園の先生は、年をとってても、まるで子供みたいにかわいい。にこにこして、おもしろいことを自然にやってる。いろいろあるんだろうけど、かなり、子供たちに染まって、あほっぽいことでもまじめにやって、うれしいなって顔の人がいっぱいいます。小学校の先生も、ほとんど同じ。
でも、中学校、高校になると、先生もちょっと、いばってきますね。素直になれない。やんちゃというより、手ごわくなってくる子供たち相手に、大人の手も使うぞって感じで、えらいんだぞって感じを出してくる。
高校の先生は、特に、つらいなって感じです。高校生になると、まるっきり先生をバカにしてきますから。それくらいの年齢の子は、世界中をあほみたいなものだ、て思わないと、生きられないってくらい、この世界の、微妙な、痛いとこがわかりはじめてくるからなんです。
要するに高校の先生は、生徒たちに、ばれちゃうなってとこを、なんとかしなくちけないから、つらいんですね。子供たちは、大人の顔の向こうにあるものを、ぜんぶ見破ってしまう。なんだこんなの、てんであほだって、思って、それが顔に出ちゃう。そして、苦しいことが増えてくる。
こどもたちは迷い始める。
いいことばかりじゃない。いやなこともいっぱいある。でも、自分にはまだ、まるっきり力がない。不安ばっかりだ。子供なんていやだ。大人なんてバカだ。痛いよ。苦しいよ。
目覚め始めた子供たちは、親から与えられたきれいな服を着て、上等な自転車に乗って、走ってる。でも、見えない孤独の檻に、ずっぽりとはまって、何かをずっと考えている。大人になりきれない、おれのちっぽけさがいやだ。
どうすればいいんだろう?
愛してるよって、わたしはいうよ。なんでもしてやるよ。全身で痛がっているおまえが、痛いよ。
ずっと見てるよ。
空も山も海も、みんな、おまえを見ているよ。