昨日、子供を連れて少し遠くへドライブしました。実り始めた田んぼのふちに、真っ赤なマンジュシャゲがもう咲いていました。車をとめられる空地を探し、写真をたくさん撮ってきました。
秋が深まり始めている。とはいえ、南国の日差しはまだ色濃く夏を残しています。南の暑い日差しを浴びているマンジュシャゲは、まるで鮮やかな血を散らしているようにきれいでした。なんだか、とてつもなく、怒ってるみたいだ。
前回の記事にも書いたように、今日は頭の中を、思考の嵐が吹き荒れています。それがどうにも苦しく、いつもは吐かない苦い怒りをわたしも吐き出しています。このマンジュシャゲの花と同じように、わたしの中に、猛烈に怒っているものがいる。そういうものが自分の中で荒れているのがとても心地悪く、記事に書いて発散しよう、というところです。
マンジュシャゲの美しい花を見ながら、お楽しみくださいね。
ビーストの記事を読みながら、エゴとは何だろうということを、ひさしぶりに深く考えてみました。確か以前に、エゴとはほんとうの自分ではないということを考えて書いたことがあるのですが、まだ核心のとこがよわく、不満が残っていたのです。
今回たどりついたのは、やはり、エゴは自分ではない、ということでした。エゴは、まだ幼い弱い魂が、他者から借りてくる、あるいは与えられている、自分の仮の姿なのではないか。
たとえば、野生のライオンの写真を見るとき。そのライオンの中の自己と話をしようとすると、その自己がとても淡く、まだ小さいことがわかります。自分という感覚はあるのですが、何もできない幼い存在があるということを感じます。しかし、ライオンは強く、激しく美しい。それは、神の創造だからです。神が、ライオンのまだ淡い魂に、美しい自己の衣を着せ、仮の自分を与えている、という感じがします。
ライオンは、自分は美しく、強いと感じています。それは、神が、与えている、自分を、着ているからです。ライオン自身はまだ弱く、淡い自己の萌芽です。まだ幼く、外界に向かって、出ていくか、ひっこむか、ということしかできないように感じます。それを、そのまま、裸でこの世界に出せば、いっぺんに壊れてしまうでしょう。ですから、神は、まだ弱い自己の萌芽に、神の「自己」をかぶせて、助けてやるのです。ライオンは、神の自分を、自分だと思い、自分の強さ、美しさを信じて、生きている。誇り高く、自分はすばらしいものだと、思える。それは、幼い魂を導く、神の、当然の愛なのです。
しかし、神の「自己」は、ライオンの、ほんとうの自分ではありませんから、当然のごとく、色々と、まずいことがあります。本当の自分ではないから、そう苦労することなく、自分以外の誰かにやってもらえるので、自分の好き勝手にやってしまうのです。自分が、一番いいと思って、何もかも、一番だということにしたくなるのです。自分の幼さのわりに、自分がすばらしく強く、美しすぎるからです。
ライオンは、自分としての経験がまだ浅すぎるのに、神様のすばらしい美と強さをいただいているものですから、すばらしく、自分だけが一番だという、エゴに黒々と染まってしまうのです。自分はすばらしく美しい。それは当然だ。みんな、自分より馬鹿だ。幼い魂は、だれしも、そう考えてしまいます。
それは一面、そうでなければ、幼いものは、生きていけないからなのですが。しかし、それはあくまでも、仮の「自分」。まだ自分で、自分をやることができない、幼い「自己」のために、神様がくださる、仮の「自己」なのです。
つまり、エゴは、魂の幼いときに特に濃く生じる、自我の、現象のひとつなのです。
幼くて弱いのに、神のように美しく強いものをもっているものですから、本当に、自分のことだけしか考えずに、自分以外のものはみな、殺してしまいます。その弱さと、恐ろしさを、神の愛の衣で、守ってくれている。それが、エゴなのです。
わたしたちはみな弱く、未熟ですから、エゴをすっかり脱ぎ捨てることはできません。しかし、エゴの実相を見抜き、本当の自分に目覚めるとき、エゴのバランスを取りながら、自分として正しく生きることができます。それができるようになって初めて、「自分」として、「おとな」になったということです。
しかし今は、これができない人間が多すぎる。幼いエゴをむき出しにして、生物的自己保存欲のみで生きているのかと思うような人に、最近よく出会う。
今、人間は、近現代の人間疎外の時代を経験し、魂の中で分裂した自己の懊悩を経験し、本当の自分とは何かと目覚め始めている。もはや、子供ではない。そういう自覚をもった、「本当の自分」が、たくさん出てきている。
エゴとは、自分の弱さ小ささを守るために、他から借りてきた仮の自己なのです。それは、本当の自分ではないのですが、幼いうちはそれを本当の自分だと思っています。けれども、真実の自分に目覚めたとき、それが神の愛だとわかったとき、とんでもなく、美しいと、感じるのです。あまりにも、すばらしい。この世界は。自分というものは。
その真実がわかるようになるまで、神が守ってくれていたのだという、その名残が、エゴの残像です。それは、自己存在に、たぶん、永遠に記される、愛の記憶です。
エゴイスティックな自分に、浸りきって生きている人間は、もはや、人間とは言えません。それは、人間以前の存在です。人間はもう、本当の自己に気づいたのですから。
自分の、エゴと、向き合ってみましょう。それはどんなものか、見てみましょう。恐竜のように恐ろしく強いものが、自分だと思っている人は、恐竜から、自分を借りたのです。それを、ずっと、自分にして、生きて、弱い本当の自分を守ってきたのです。そしてそれがわかったら、その鎧を脱ぎ、こんどは本当の自分と向き合ってみましょう。それはどんなものか。すばらしく、美しいと感じれば、もう、始まっています。
新しい自分が。