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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

松代夢空間主催の自然と歴史のハイキングで、斎場山(旧妻女山)、堂平大塚古墳、貝母満開の陣場平へ(妻女山里山通信)

2019-04-21 | アウトドア・ネイチャーフォト
 21日(日)は、松代夢空間主催の妻女山ハイキングで、花と自然いっぱいの里山を皆さんと歩きました。約4キロ弱で、子供でも歩けるコースです。私が歴史や自然の説明をお話しながら正午ちょっと過ぎまで歩き、下山後は近くの「はなや」であんず御膳をいただきました。大学の生物学や民俗学の講座を三つ四つぐらい受ける話と昼食がついてなんと2000円。非常にお得なハイキングだと思います。参加の皆様には拙書をたくさんお買い上げいただきました。感謝申し上げます。花粉症と寒暖差での自律神経失調症でたくさんのサインをするのは結構大変でしたが(笑)。おそらく200人以上が訪れています。今週末までは見頃だと思います。保全のため道具を持って車でほぼ毎日登りますが、お会いしたら必ず声をかけています。駆け足の春なので、あちこちに撮影や観察にいかなければならないので、本当に忙しい毎日です。

 快晴の前日に下調べと保全活動をした写真からアップします。春の日を浴びて輝く貝母。ほぼ満開ですが、一番上の方がまだつぼみだったりします。次の週末ぐらいまでは見頃かもしれません。落葉松で作った丸太のベンチがあるので、腰を掛けてゆっくりと花見と森林浴をするのもおすすめです。
皆さんには、これだけの群生地にするのに10年かかった話などをしました。今回私がしたのは里山ガイドとかインストラクターではなくて、インタープリターといわれる活動です。里山を案内するだけでなく、自然の生態系や歴史まで詳しく講義するというもので、近年生まれた言葉なのです。

 貝母の和名は編笠百合ですが、その理由は花の中を見ると分かるとお話しました。慎ましやかに咲く4月の茶花です。前日はサンコウチョウが月日星ホイホイホイと鳴いていたのですが、当日は残念ながら聴けませんでした。咳の薬の薬草ですが、筋肉弛緩剤の成分ですね。誤って食べ過ぎると心臓が止まるかもしれません。閾値(しきいち)がありますが、薬草は毒草でもあるのです。毒草は薬草になるともいえます。毒草でなくても春の山菜は、毒素を排出する苦味があったり、抗酸化作用があったり、非常に高い効果を有するものです。

「時々の 花は咲けども 何すれぞ 母とふ花の 咲き出来ずけむ」丈部(はせつかべ・はせべ)真麻呂(万葉集)
 これが貝母のことであるという説があります。丈部真麻呂は、遠江国山名郡(現在の静岡県袋井市)で徴兵され九州に派遣され国境警備にあたった兵士・防人(さきもり)でした。
 意味は、季節ごとに花は咲くのに、どうして母という花は咲かないのだろうか(咲くのだったら摘み取って共に行くのに)。防人というのは、21歳から60歳までの健康な男子が徴兵されました。任期は三年で、延長もされたそうです。食料・武器は自弁で帰郷は一人で帰るため、途中で野垂れ死ぬ者も少なくなかったとか。人民には重い負担になったようです。

 散り始めたソメイヨシノの向こうはヒノキ(檜・桧)の林です。寒暖の差があり朝晩は寒かったのでアントシアニンで春紅葉でしたが、ここのところの暖かさで緑色になってきました。上の鞍部は長坂峠です。すぐ右に斎場山(旧妻女山)、山頂は古代科野のクニの円墳であり、謙信本陣跡と伝わる場所です。西に400mほど下ると、国指定史跡の土口将軍塚古墳(前方後円墳)があります。

 山の日当たりの良いあちこちでクサボケ(草木瓜)が咲き始めました。オオヤマザクラ(ベニヤマザクラ)、ズミも開花。カスミザクラやヤマブキも咲き始めました。まもなくウワミズザクラやマルバアオダモも咲き始めます。ブログで逐一開花情報をアップするので、ぜひ御覧ください。

 会津比売神社の枝垂れ桜。白っぽいのは珍しいですね。ソメイヨシノはハイブリッドですが、他にも桜はたくさんの種類があり、同定は大変です。

 会津比売神社についての話もしました。諏訪社系の神社なんですが、御柱はありません。全国でたった一社という非常に珍しい神社です。
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 上杉謙信の布陣した山として妻女山(旧赤坂山、旧妻女山は斎場山のこと)を訪れる人は多いのですが、薬師山トンネルの陰にひっそりと佇む会津比売神社(あいづひめじんじゃ)を 訪れる人は稀です。里俗伝によると、古来は山上(斎場山西の御陵願平か)にあったが川中島合戦の折に上杉謙信が庇護していたため、武田信玄によって焼かれてしまい、武田滅亡の跡に現在の山陰にひっそりと再建された、ということです。

 この会津比売神社の祭神、会津比売命(會津比賣命)ですが、このところ貞観地震で有名になってしまった『日本三代実録』貞観8(866)年6月甲戌朔条(最初の行)の記述に、「授信濃國-無位-會津比賣神 從四位下」と出てきます。官位のない会津比売命に従四位下の位を授けますよということです。かなり高い位を授かっています。

 その理由なんですが、会津比売は、諏訪大社の祭神、建御名方富命(たけみなかたとみのみこと)の子、出速雄命(いずはやおのみこと・伊豆早雄)の子といわれているからなのです。しかも、神武天皇の子、神八井耳命(かむやいみみのみこと)の子孫といわれる、大和王権より初代科野(信濃)国造に任ぜられた武五百建命(たけいおたつのみこと)[古事記]の室(妻)といわれているからなのです。

科野国造 武五百建命と妻 会津比売命の家系図(諸説あり)
神武天皇--神八井耳命--武宇都彦命--武速前命--敷桁彦命--武五百建命--健稲背
          大国主命--建御名方富命--出速雄命--会津比売命(出速姫神)


 つまり、出雲系の出速雄命一族は、娘の会津比売命が、天皇系(大和系)の科野国造 武五百建命と結婚したことにより、官位を授与され、後に諏訪に戻って大祝(おおほうり)家となったわけです。貞観年間に、無位となっていた出速雄命、会津比売命の官位授与を申請したのは、当時の埴科郡の大領であった金刺舎人正長といわれています。金刺氏は諏訪系統の流れで、貞観4年(862)に、埴科郡大領外従7位金刺舎人正長とあります。『日本三代実録』[信濃史料]
 無位にあった自分の先祖の復権をすべく申請したということでしょう。古代科野国は、出雲系と大和系が結ばれてできたといえるのです。

 会津比売神社はいわゆる式外社(しきげしゃ・『延喜式』神名帳に記載の無い神社)ですが、「国史現在社」です。「国史現在社」とは、式外社ですが、『六国史』にその名前が見られる神社のことを、特に国史現在社(国史見在社とも)と呼びます(広義には式内社であるものも含む)。『六国史』とは、『日本書紀』、『続日本紀』、『日本後紀』、『続日本後紀』、『日本文徳天皇実録』、『日本三代実録』をいいます。

貞観地震と仁和地震と会津比売神社
•貞観元年(859年)河内・和泉両国の陶窯用の薪山争い起こる。饒益神宝を鋳造する。
貞観2年(860年)出速雄神に従五位下〔延喜元年(901年)の日本三代実録〕
•貞観3年(861年)4月7日、直方隕石が落下。落下の目撃がある世界最古の隕石。
貞観4年(862)埴科郡大領外従七位金刺舎人正長。廿日戊子 信濃國埴科郡大領-外從七位上-金刺舍人-正長(日本三代実録)
貞観5年(863)信濃国諏訪郡の人右近衛将監正六位上金刺舎人貞長、姓を大朝臣と賜わる。これ神八井耳命の苗裔(びょうえい)也。
•貞観6年(864年)富士山噴火(貞観大噴火)
•貞観8年(866年)閏3月10日、内裏朝堂院の正門・応天門が放火によって炎上、これを巧みに利用して伴氏・源氏の追い落としに成功した藤原良房は、同年8月19日、天皇の外祖父であることを理由に人臣初の摂政に任命された。応天門の変。
貞観8年(866年)に會津比売神に従四位下
•貞観10年(868年)7月8日、播磨国で地震。日本三代実録によれば官舎、諸寺堂塔ことごとく頽倒の記述。前年から引き続き、毎月のように地震があったことも見受けられる。
•貞観11年(869年)格12巻が完成。貞観地震とそれに伴う貞観津波が発生。貞観の韓寇。
•貞観12年(870年)貞観永宝が鋳造される。
•貞観13年(871年)式20巻が完成。貞観格式の完成。鳥海山噴火。
貞観14年(872年)出速雄神に従五位上
•貞観16年(874年)開聞岳噴火。
•元慶2年(878年)相模・武蔵地震(現在の関東地方における地震)伊勢原断層の活動によるM 7.4の大地震
元慶2年(878年)出速雄神に正五位下
•仁和3年(887年)8月22日(8月26日)に仁和地震(南海地震、M 8.0~8.5。東海・東南海との連動説も有り)。
 八ヶ岳が突然水蒸気爆発をおこし崩壊。千曲川・相木川を堰き止めて“大海(南牧湖)”や“小海湖”を造った。天狗岳と硫黄岳の東側斜面が大きく崩れた跡が今でも見られる。
•仁和4年(888年)決壊し、善光寺平までその被害は及んだ。
•寛弘8年8月3日(1011年9月3日)に再決壊。下流域に再び災厄を撒き散らして完全に消滅した。
 長さ3kmに達した「小海」は、古地図等からその後600年以上、江戸時代初期まで残っていたことが確認できるが、いつどうやって消滅したのか判っていない。
•延喜元年(901年)の日本三代実録。会津比売神社は式外社となる。
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 会津比売神社の参道。私が子供の頃は上に団塊の世代もいて、こんな小さな集落でも子供はたくさんいました。春秋の祭りには、この参道にたくさんの出店が出ましたが今は昔。

 斎場山を見学の後訪れたイノシシの大きなヌタ場。ここでイノシシの生態の話などをしました。知り合いに猟師がいて猪や鹿の肉をもらいました。現在は少なくなりましたが、鹿が見られるようになったのが気がかりです。

 堂平大塚古墳で古代科野のクニの話をしました。またこの古墳の所有者の話も。たくさんの逸話が残る古墳です。枝垂れ桜が満開で、花桃も咲き始めていました。次にすぐ下にある謙信の陣用水と伝わる蟹沢(がんざわ)を訪れ、説明を。

 最後に貝母が満開の陣場平へ。ここでは10年かかった貝母発見と大変だった保全活動の話と、信濃柿で作る柿渋や柿酢の作り方などをお話しました。時間がたっぷりあったので、色々なお話をすることができましたね。「はなや」の昼食後でもお買い上げいただいた拙書にサインをしたり、皆さんの質問に応えたりと充実した時間が過ごせました。解散後、花粉症の症状が酷いので、戸倉上山田へ。来年も行われると思いますので里山や歴史に興味のある方は、当ブログをご覧になるか、松代夢空間にお問い合わせください。
 皆さんにはURLカードをお渡ししましたが、何かお知りになりたいことがありましたら、メッセージからメールを下さい。これは非公開です。コメントも、非公開でお願いしますと書いていただければ公開しません。お気軽にお問い合わせください。

松代夢空間ホームページ
GWの前半は、山菜採りと松代夢空間のハイキングと春爛漫の髻山へ(妻女山里山通信)

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

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