1月6日(木)。関東南部は降雪模様。東京が雪に弱いのは、在京38年の経験で熟知しています。殆どの車はスタッドレスさえ履いていません。住んでいた調布市の長い坂では交通事故が頻発しました。小さかった息子達は国分寺崖線の急斜面を利用してソリを楽しんでいましたが。私は駅まで行って、これは無理だと帰宅したこともあります。信州では積雪30センチぐらいでも普段通りですが、東京は10センチでも交通は麻痺します。冬期は信州のスキー場や温泉に訪れる人が多いのですが、スタッドレスだけでは不十分です。非常用脱出のためにチェーンかスパイクアタッチメントを携行してください。非金属チェーンなどで売られています。5000〜10000円位で前輪二つが買えます。装着したら時速40キロが上限。できれば30キロ以下で。写真は私のスパイクアタッチメント。北欧製で3つでひとつのタイヤ。2セットあります。万が一の場合は、これかチェーンがないと脱出できません。加えて雪掻きスコップ、手袋、氷溶解スプレー、暖房カイロや防寒具か毛布に非常食などが必要です。そして、車の屋根に雪を積んだまま走るのは非常に危険です。長野県条例に違反で検挙されることも。ブレーキでフロントグラスに落ちると視界が無くなります。後ろに落ちると事故を誘発することも。絶対にしてはいけません。
2022年1月5日の善光寺平は、やはり晴天。私が主宰する妻女山里山デザイン・プロジェクトで貝母(編笠百合)の保護活動をしている妻女山奥の陣場平へ登りました。猪狩りの猟師の轍があったので、一瞬車でと思いましたがそれでは運動不足解消にならないと徒歩で登りました。約1時間半の山歩きですが、いい運動になりました。
まず初詣に会津比売(あいづひめ)神社へ。私が子供の頃は、春秋の祭には参道に出店が並びお小遣いを握りしめてでかけたものです。会津比売神社は諏訪社系の神社なんですが、御柱はありません。全国でたった一社という非常に珍しい神社です。会津は福島の会津と関係があります。
崇神天皇10年9月9日、崇神天皇の伯父大彦命(おおひこのみこと)を北陸道へ、その子武淳川別命(たけぬなかわ わけのみこと)を東海道へ遣わせた。日本海側を進んだ大彦命は越後から東に折れ、太平洋側を進んだ武淳川別命は南奥から西に折れた。二人の出会った所を相津(會津、会津)という。『日本書紀』
相津と想定される会津坂下町青津。能登南部からの移住者を想定される弥生時代終末期の男壇遺跡・宮東遺跡があり、亀ヶ森古墳等がある。(会津学研究会サイトより引用)
この会津と、会津比売命の関係やいかに・・。大彦命は東征の後で、長野市篠ノ井の茶臼山動物園の下の長者窪という所に住み、薨去したと伝えられています。彼の功績を讃えて父出速雄命は娘に会津比売とつけたのではないでしょうか。
この会津比売神社の祭神、会津比売命(會津比賣命)ですが、東北の大震災以降、知られるようになった貞観地震の記述がある『日本三代実録』貞観8(866)年6月甲戌朔条(最初の行)に、「授信濃國-無位-會津比賣神 從四位下」と出てきます。官位のない会津比売命に従四位下の位を授けますよということです。かなり高い位を授かっています。
その理由なんですが、会津比売は、諏訪大社の祭神、建御名方富命(たけみなかたとみのみこと)の子、出速雄命(いずはやおのみこと・伊豆早雄)の子といわれているからなのです。しかも、神武天皇の子、神八井耳命(かむやいみみのみこと)の子孫といわれる、大和王権より初代科野(信濃)国造に任ぜられた武五百建命(たけいおたつのみこと)[古事記]の室(妻)といわれているからなのです。
■科野国造 武五百建命(たけいおたつのみこと)と妻 会津比売命(あいづひめのみこと)の家系図(諸説あり)
神武天皇--神八井耳命--武宇都彦命--武速前命--敷桁彦命--武五百建命--健稲背
大国主命--建御名方富命--出速雄命--会津比売命(出速姫神)
つまり、出雲系の出速雄命一族は、娘の会津比売命が、天皇系(大和系)の科野国造 武五百建命と結婚したことにより、官位を授与され、後に諏訪に戻って大祝(おおほうり)家となったわけです。貞観年間に、無位となっていた出速雄命、会津比売命の官位授与を申請したのは、当時の埴科郡の大領であった金刺舎人正長といわれています。金刺氏は諏訪系統の流れで、貞観4年(862)に、埴科郡大領外従7位金刺舎人正長とあります。『日本三代実録』[信濃史料] 無位にあった自分の先祖の復権をすべく申請したということでしょう。古代科野国は、出雲系と大和系が結ばれてできたといえるのです。
(左)会津比売神社(會津比賣神社)はいわゆる式外社(しきげしゃ・『延喜式』神名帳に記載の無い神社)ですが、「国史現在社」です。「国史現在社」とは、式外社ですが、『六国史』にその名前が見られる神社のことを、特に国史現在社(国史見在社とも)と呼びます(広義には式内社であるものも含む)。『六国史』とは、『日本書紀』、『続日本紀』、『日本後紀』、『続日本後紀』、『日本文徳天皇実録』、『日本三代実録』をいいます。
(右)拝殿の中の額には、「大明無私照」の文字。大明には私照なく、至公には私親なし。 太陽は、私心をもって選ぶことなく万物を照らし、真に公平なものは、私情によって人を選んで親しむということはないという张蕴古《大宝箴》の古代中国の格言です。大明無私照、至公無私親といいます。
(左)林道を登ります。積雪は5〜10センチほど。コゲラのドラミングが響きます。雪がなくても知っていないと車では登れない林道ですが、積雪があるとずっと難易度が上がります。(右)長坂峠。前方に斎場山(旧妻女山)。陣場平は左へ300mほど。
その長坂峠からの南西の眺め。拙書でも紹介の三峯山(1131.4m)。ここから見ると3つの峰があるのが分かります。山頂は麻績村が経営する小さなスキー場があります。市街地から近いので小さな子供がいるファミリーにおすすめです。
少し歩いて眼下は土口集落。その向こうに川中島の戦いで有名な雨の宮の渡しがあります。奥に伸びる里山の尾根は、五里ヶ峯から伸びる尾根の先端で一重山。少し前に紹介した森将軍塚の前方後円墳や長野県立歴史館、古墳館があります。ぜひ訪れて欲しい博物館です。
積雪期にはアニマルトラッキングが楽しめます。左は副蹄がはっきり分かるのでイノシシです。足の大きさから40キロ前後の個体と思われます。右は、3つの足跡。これは野うさぎでしょう。
猟師の轍は天城山(てしろやま)方面へ。左下に歩くと陣場平。右の林道を300mほど下ると堂平大塚古墳。4月17日(日)の松代夢空間主催の「妻女山 花と歴史のハイキング」では、私がインタープリターをします。お申し込みは夢空間へ。
陣場平へ向かう小道にタヌキの足跡。雪の無い季節にここを歩いているので道跡が見えなくなっても覚えていて歩くのです。
陣場平。貝母は3月上旬には雪の下から芽生えます。それが好きと訪れる方もいます。昨年はメンバーと周囲の球根を掘り起こして、真ん中の貝母がない部分に植えました。この春にどれだけ増えるか楽しみです。
陣場平の北東の隅にある昭和時代の地理の重要な文化遺産の菱形基線測点。ハイキングのインタープリターでも必ず説明しています。これを探していて、貝母を発見したのです。
比較すると分かりやすいでしょうか。左が副蹄がはっきりしているのでイノシシ。右は副蹄が見えないのと蹄の間に雪があり、なおかつイノシシは下りていかない様な急斜面を下って行ったのでニホンカモシカかと。以前の記事でアップしましたが、寒立といって雪の中で反芻するために立って休んでいるニホンカモシカを見ることがあります。
長坂峠手前から見る斎場山。
長坂峠に戻って斎場山を目指します。長坂峠からは数分。途中から見る左に陣場平、右に天城山(てしろやま)。右手前の枯葉はヤマコウバシ。クスノキ科クロモジ属なので、枝を折るといい香りがします。新葉が出るまでこのままなので、真冬でも目立ちます。落ちないので、受験のお守りにも使われます。
斎場山(旧妻女山:512.8m)。古代科野のクニの首長の墳墓です。第四次川中島の戦いでは、上杉謙信が最初に本陣とした場所として伝わっています。現在は赤松が繁茂して松代城(海津城)方面は見えませんが、当時は丸見えだったでしょう。
そこから西へ100mほど下ると御陵願平。イノシシのヌタ場があります。珍しい誰も訪れていません。猪狩りの猟犬に追われて命からがら火照った体を冷やしに氷を割って入った跡も何度か見ています。右は泥浴びしたイノシシが体を擦り付けた跡。これをたどっていくとイノシシの棲みかにたどり着きます。
長坂峠からの善光寺平。幹線道路には雪はありません。ただ日陰の道や集落の日陰の道は凍結しています。雪がなくてもミラーバーンになっているところがあります。下る途中に猪狩りの車が4台登ってきました。先に2台登っている人達の仲間でしょう。いやはや今日は猪の厄日だった様です。下から猟犬で追い上げて上で待ち伏せて仕留めます。ただ、横に逃げてしまったりそう容易いことではありません。知り合いの猟師も高齢で止めました。女性や若い人も増えてはいますが、お金もかかるし危険だし、ただ農作物の被害は甚大だしと、非常に困難な問題を抱えています。根本にあるのは里山の放置と無関心。東京などの大都市に住んでいる人達にも無関係のことではないのです。里山が崩壊すると大都市も滅びるのです。それを知ってほしい。妻女山里山デザイン・プロジェクトは、微力ながらそれを改善するために活動しています。
妻女山駐車場の奥にある妻女山里山デザイン・プロジェクトのメンバーが安置した大日如来の石像。多くのいわれがあってここに安置されました。建築関係のメンバーが覆屋を作ってくれました。後ろでは椎茸の原木栽培を行っています。
前の記事で妻女山展望台からのパノラマはたくさんアップしたので、今回は展望台後ろにある四阿からの北アルプスと茶臼山をアップします。週末まではなんとか晴れの日が続きそうな信州です。
◆『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。
★本の概要は、こちらの記事を御覧ください。
★お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせか、メッセージからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。
2022年1月5日の善光寺平は、やはり晴天。私が主宰する妻女山里山デザイン・プロジェクトで貝母(編笠百合)の保護活動をしている妻女山奥の陣場平へ登りました。猪狩りの猟師の轍があったので、一瞬車でと思いましたがそれでは運動不足解消にならないと徒歩で登りました。約1時間半の山歩きですが、いい運動になりました。
まず初詣に会津比売(あいづひめ)神社へ。私が子供の頃は、春秋の祭には参道に出店が並びお小遣いを握りしめてでかけたものです。会津比売神社は諏訪社系の神社なんですが、御柱はありません。全国でたった一社という非常に珍しい神社です。会津は福島の会津と関係があります。
崇神天皇10年9月9日、崇神天皇の伯父大彦命(おおひこのみこと)を北陸道へ、その子武淳川別命(たけぬなかわ わけのみこと)を東海道へ遣わせた。日本海側を進んだ大彦命は越後から東に折れ、太平洋側を進んだ武淳川別命は南奥から西に折れた。二人の出会った所を相津(會津、会津)という。『日本書紀』
相津と想定される会津坂下町青津。能登南部からの移住者を想定される弥生時代終末期の男壇遺跡・宮東遺跡があり、亀ヶ森古墳等がある。(会津学研究会サイトより引用)
この会津と、会津比売命の関係やいかに・・。大彦命は東征の後で、長野市篠ノ井の茶臼山動物園の下の長者窪という所に住み、薨去したと伝えられています。彼の功績を讃えて父出速雄命は娘に会津比売とつけたのではないでしょうか。
この会津比売神社の祭神、会津比売命(會津比賣命)ですが、東北の大震災以降、知られるようになった貞観地震の記述がある『日本三代実録』貞観8(866)年6月甲戌朔条(最初の行)に、「授信濃國-無位-會津比賣神 從四位下」と出てきます。官位のない会津比売命に従四位下の位を授けますよということです。かなり高い位を授かっています。
その理由なんですが、会津比売は、諏訪大社の祭神、建御名方富命(たけみなかたとみのみこと)の子、出速雄命(いずはやおのみこと・伊豆早雄)の子といわれているからなのです。しかも、神武天皇の子、神八井耳命(かむやいみみのみこと)の子孫といわれる、大和王権より初代科野(信濃)国造に任ぜられた武五百建命(たけいおたつのみこと)[古事記]の室(妻)といわれているからなのです。
■科野国造 武五百建命(たけいおたつのみこと)と妻 会津比売命(あいづひめのみこと)の家系図(諸説あり)
神武天皇--神八井耳命--武宇都彦命--武速前命--敷桁彦命--武五百建命--健稲背
大国主命--建御名方富命--出速雄命--会津比売命(出速姫神)
つまり、出雲系の出速雄命一族は、娘の会津比売命が、天皇系(大和系)の科野国造 武五百建命と結婚したことにより、官位を授与され、後に諏訪に戻って大祝(おおほうり)家となったわけです。貞観年間に、無位となっていた出速雄命、会津比売命の官位授与を申請したのは、当時の埴科郡の大領であった金刺舎人正長といわれています。金刺氏は諏訪系統の流れで、貞観4年(862)に、埴科郡大領外従7位金刺舎人正長とあります。『日本三代実録』[信濃史料] 無位にあった自分の先祖の復権をすべく申請したということでしょう。古代科野国は、出雲系と大和系が結ばれてできたといえるのです。
(左)会津比売神社(會津比賣神社)はいわゆる式外社(しきげしゃ・『延喜式』神名帳に記載の無い神社)ですが、「国史現在社」です。「国史現在社」とは、式外社ですが、『六国史』にその名前が見られる神社のことを、特に国史現在社(国史見在社とも)と呼びます(広義には式内社であるものも含む)。『六国史』とは、『日本書紀』、『続日本紀』、『日本後紀』、『続日本後紀』、『日本文徳天皇実録』、『日本三代実録』をいいます。
(右)拝殿の中の額には、「大明無私照」の文字。大明には私照なく、至公には私親なし。 太陽は、私心をもって選ぶことなく万物を照らし、真に公平なものは、私情によって人を選んで親しむということはないという张蕴古《大宝箴》の古代中国の格言です。大明無私照、至公無私親といいます。
(左)林道を登ります。積雪は5〜10センチほど。コゲラのドラミングが響きます。雪がなくても知っていないと車では登れない林道ですが、積雪があるとずっと難易度が上がります。(右)長坂峠。前方に斎場山(旧妻女山)。陣場平は左へ300mほど。
その長坂峠からの南西の眺め。拙書でも紹介の三峯山(1131.4m)。ここから見ると3つの峰があるのが分かります。山頂は麻績村が経営する小さなスキー場があります。市街地から近いので小さな子供がいるファミリーにおすすめです。
少し歩いて眼下は土口集落。その向こうに川中島の戦いで有名な雨の宮の渡しがあります。奥に伸びる里山の尾根は、五里ヶ峯から伸びる尾根の先端で一重山。少し前に紹介した森将軍塚の前方後円墳や長野県立歴史館、古墳館があります。ぜひ訪れて欲しい博物館です。
積雪期にはアニマルトラッキングが楽しめます。左は副蹄がはっきり分かるのでイノシシです。足の大きさから40キロ前後の個体と思われます。右は、3つの足跡。これは野うさぎでしょう。
猟師の轍は天城山(てしろやま)方面へ。左下に歩くと陣場平。右の林道を300mほど下ると堂平大塚古墳。4月17日(日)の松代夢空間主催の「妻女山 花と歴史のハイキング」では、私がインタープリターをします。お申し込みは夢空間へ。
陣場平へ向かう小道にタヌキの足跡。雪の無い季節にここを歩いているので道跡が見えなくなっても覚えていて歩くのです。
陣場平。貝母は3月上旬には雪の下から芽生えます。それが好きと訪れる方もいます。昨年はメンバーと周囲の球根を掘り起こして、真ん中の貝母がない部分に植えました。この春にどれだけ増えるか楽しみです。
陣場平の北東の隅にある昭和時代の地理の重要な文化遺産の菱形基線測点。ハイキングのインタープリターでも必ず説明しています。これを探していて、貝母を発見したのです。
比較すると分かりやすいでしょうか。左が副蹄がはっきりしているのでイノシシ。右は副蹄が見えないのと蹄の間に雪があり、なおかつイノシシは下りていかない様な急斜面を下って行ったのでニホンカモシカかと。以前の記事でアップしましたが、寒立といって雪の中で反芻するために立って休んでいるニホンカモシカを見ることがあります。
長坂峠手前から見る斎場山。
長坂峠に戻って斎場山を目指します。長坂峠からは数分。途中から見る左に陣場平、右に天城山(てしろやま)。右手前の枯葉はヤマコウバシ。クスノキ科クロモジ属なので、枝を折るといい香りがします。新葉が出るまでこのままなので、真冬でも目立ちます。落ちないので、受験のお守りにも使われます。
斎場山(旧妻女山:512.8m)。古代科野のクニの首長の墳墓です。第四次川中島の戦いでは、上杉謙信が最初に本陣とした場所として伝わっています。現在は赤松が繁茂して松代城(海津城)方面は見えませんが、当時は丸見えだったでしょう。
そこから西へ100mほど下ると御陵願平。イノシシのヌタ場があります。珍しい誰も訪れていません。猪狩りの猟犬に追われて命からがら火照った体を冷やしに氷を割って入った跡も何度か見ています。右は泥浴びしたイノシシが体を擦り付けた跡。これをたどっていくとイノシシの棲みかにたどり着きます。
長坂峠からの善光寺平。幹線道路には雪はありません。ただ日陰の道や集落の日陰の道は凍結しています。雪がなくてもミラーバーンになっているところがあります。下る途中に猪狩りの車が4台登ってきました。先に2台登っている人達の仲間でしょう。いやはや今日は猪の厄日だった様です。下から猟犬で追い上げて上で待ち伏せて仕留めます。ただ、横に逃げてしまったりそう容易いことではありません。知り合いの猟師も高齢で止めました。女性や若い人も増えてはいますが、お金もかかるし危険だし、ただ農作物の被害は甚大だしと、非常に困難な問題を抱えています。根本にあるのは里山の放置と無関心。東京などの大都市に住んでいる人達にも無関係のことではないのです。里山が崩壊すると大都市も滅びるのです。それを知ってほしい。妻女山里山デザイン・プロジェクトは、微力ながらそれを改善するために活動しています。
妻女山駐車場の奥にある妻女山里山デザイン・プロジェクトのメンバーが安置した大日如来の石像。多くのいわれがあってここに安置されました。建築関係のメンバーが覆屋を作ってくれました。後ろでは椎茸の原木栽培を行っています。
前の記事で妻女山展望台からのパノラマはたくさんアップしたので、今回は展望台後ろにある四阿からの北アルプスと茶臼山をアップします。週末まではなんとか晴れの日が続きそうな信州です。
◆『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。
★本の概要は、こちらの記事を御覧ください。
★お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせか、メッセージからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。