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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

泣く泣く妻女山のヤマフジを除伐(妻女山里山通信)

2009-05-14 | 歴史・地理・雑学
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 妻女山にあるわが家の山にあるヤマフジ。推定樹齢は40~50年でしょうか。写真のように急斜面をのたうって枝分かれして唐松にからみつき、一本を枯らしてその上部を空中に抱きかかえたまま、25m近くある唐松の上部にからみつき、曲げてしまっています。もう一方も別の唐松にからみついて上部を曲げています。このままだと唐松は2本とも立ち枯れしてしまいます。

 なんとか上部だけでも切れないかと思案しましたが、急斜面で高度もあるため不可能と判断。根元から切ることにしました。間伐や除伐の度に躊躇していたら仕事にならないのですが、今回のような見事なヤマフジとなると、やはりもったいないなと思ってしまいます。

 それでも、唐松を枯らすわけにもいかないし、立ち枯れるとまたやっかいなことになります。先日も立ち枯れて倒れた唐松が、妻女山への道路上に落ちそうになり、調度ゴールデンウィークで観光客もたくさん訪れるということで、急遽落としてもらいました。

 ヤマフジは、早朝には快晴でも上から雫がポタポタ落ちてくるほど水分を吸い上げます。そのため非常に切りにくいのです。今回も20センチぐらいの根元を鋸で切り始めましたが、5センチほどで動かなくなりました。そこで鉈でV字に割りながら鋸を入れました。その間も強風で幹や唐松がギーギーと音を立てて揺れ、大きな枯れ枝が落ちてこないかと気がきではありません。最後に樹皮一枚になり、鋸で切り落とすとザーッと大きな音を立てて切断された幹が急斜面を滑り落ちていきました。合掌。

 日本全国そうでしょうが、ここ妻女山も例外ではなく、山林の所有者が高齢化したり、若い人が無関心だったりして手入れのされない荒れた山林が増えています。私も時間を見つけてはわが家の山林の整備を続けていますが、手間がかかり、時に危険も伴うのでなかなか進みません。それでも里山は手入れをして初めて維持できるので、微力でも続けてゆこうと思っています。

 そんなある日のことでした。下草刈りをしていると、ご婦人から話しかけられました。なんでも関西から川中島合戦の史跡巡りにいらしたということでした。暑くなり虫も飛び始めて、なんとなく作業に入るのも億劫だったためにご案内をすることにしました。

 展望台へ行き、八幡原、海津城、山本勘助宮の跡地、鞍骨城の位置などを説明しました。実際に展望台へ来られても、どこが海津城だか分からずに帰っていく人がほとんどだと思います。なにより、歴史好きなら地元では多くの人が知っていることですが、展望台のある妻女山が、戦国時代は赤坂山、あるいは単に赤坂と呼ばれ、妻女山という名称はまだなく、西南西に見える円墳のある斎場山が謙信本陣跡といわれている、ということ。

 武田信玄全軍が、海津城下に入った後は展望台後背の陣場平という高原の平地に陣城を構えたと伝わっていることなどをお話ししました。もちろん史実と証明されたものではなく、江戸時代にかなりの脚色がなされていることも含めてお話ししました。ご主人は相当に戦国の歴史好きな様子でした。

 最近は、若い女性の戦国好きも多いようです。『天地人』の妻夫木聡で直江兼続に注目が集まったり、ということもあるようです。英雄史観には違和感も覚えますが、歴史に興味を持つ人が増えるのはいいことかなと思います。過去がなければ現在はないわけですから。人は刹那に生きればいいというものでもないでしょう。近年は、英雄史観で語られてきた戦国氏のパラダイムも崩れています。ほとんどの人は、英雄ではなく名もない武士や農民の末裔なわけですから。

★川中島合戦と古代科野の国の重要な史蹟としての斎場山については、私の研究ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をご覧ください。
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