モリモリキッズ

信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

信玄本陣は有旅茶臼山で今は無い!(妻女山里山通信)

2009-05-03 | 歴史・地理・雑学
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ にほんブログ村 歴史ブログへ 
にほんブログ村 写真ブログ ネイチャーフォトへ にほんブログ村 写真ブログへ
ブログランキング・にほんブログ村へ

 地元では、ほとんどが知っていることなのですが、第四次川中島合戦の折りに斎場山(妻女山)に布陣したと伝わる上杉謙信に対し、武田信玄が布陣したと伝わるのは、現在の茶臼山(北峯730m)ではなく、そのすぐ南にあったとされる有旅(うたび)茶臼山(南峯720m)なのです。

 ところが、この有旅茶臼山は江戸時代からひびが入り地滑りを起こして崩れ始め、大正時代から昭和にかけて何度も大規模な地滑りを起こして、ついにはその山頂が無くなってしまったのです。現在は699mの小ピークが残るのみです。大規模な地滑りは、昭和の大工事で止まり、その跡は茶臼山自然公園として、自然植物園やレッサーパンダで有名な茶臼山動物園、なぜか恐竜公園として市民に親しまれているのです。

 有旅茶臼山の尾根には、旗塚と称される直径3~4mの小さな塚が9基並んでいます。これは上杉謙信が布陣したとされる斎場山(妻女山)の7基の旗塚と同じ命名ですが、実際は旗を埋めた塚ではなく、平安時代の県司郡司の墳墓といわれています。旗塚というのは、江戸時代の人の創作です。戦国時代にばかり気を取られ、この地が古代信濃(科野)の国の発祥の地であったことを知らなかった故の間違いでしょう。

 その茶臼山に、中尾山温泉から最近整備された小松原コースを登って尾根に乗り、一本松峠経由で茶臼山へ登頂、帰路は有旅茶臼山から地滑り地帯が整備された茶臼山自然植物園を下り、小さな子供達が遊ぶ恐竜公園へ。そこから山麓の満開の林檎畑を歩いて戻るという約10キロほどの里山周遊コースを歩いてみました。

 最高気温が26度と上昇、尾根筋の森の中は快適でしたが、有旅茶臼山から恐竜公園、林檎畑は太陽を遮るものもなく暑さに参りました。しかし、山麓は純白の林檎の花が満開で、暑さも忘れるほどの爽やかさでした。この地は旧共和村といって林檎の名産地です。中尾山の山中にも、いくつもの林檎畑があり、白い花をここぞとばかりに咲き誇らせていました。クマンバチのホバリングも盛ん。最近大量死が問題になっているミツバチの養蜂箱も置いてあり、盛んに吸密のために飛び回っていました。ここの林檎は美味しいので有名で、わが家も毎年送られてくる共和の林檎を楽しみにしていました。

 林檎というとどんな曲を想い出すでしょうか。「リンゴの唄」「リンゴ追分け」「リンゴ村から」「りんごの木の下で」「青いリンゴ」「りんごのうた」「リンゴ売り」「ガラスの林檎」 「林檎殺人事件」。

 例年より早い芽吹きで山は既に新緑から夏山の様相さえ帯びてきました。植物園のヤマフジの花も開きそうでした。林道沿いに見つけたヤマフジの実をいくつか採ってきて、豆を煎って食べました。最初は青臭さがあるものの噛みしめると甘さが引き立つ珍味です。ヤマフジは、普通の藤の花(ノダフジ)と違いつるが左巻きで上がっていきます。また、花穂(かすい)が15センチぐらいと短いのが特徴です。

 恐竜公園では、大きな張りぼての恐竜相手に小さな男の子が戦いを挑んでいました。恐竜のお腹から尻尾に出る滑り台や、恐竜の口から顔を出せるものもあります。お尻が痛くなる滑らない長いローラー滑り台も昔のままでした。葉や貝の化石が出るとはいえ、なぜ恐竜なのかは不明ですが、息子達が小さい頃、連れてきて遊ばせたのを懐かしく想い出しました。まるで時が止まったように同じように小さな子供達が歓声を挙げて飛び回っていました。思わずあれは…、何年前の夏休みだったかなと感慨に耽りました。

★このトレッキングは、フォトドキュメントの手法で綴るトレッキング・フォトレポート【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】にアップします。ご高覧ください。

★川中島合戦と古代科野の国の重要な史蹟としての斎場山については、私の研究ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をご覧ください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする