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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

「善光寺と川中島の戦い」武田信玄と上杉謙信(妻女山里山通信)

2021-09-16 | 歴史・地理・雑学
 長野市博物館の企画展示に行ってきました。正式には、「THE EXPO善光寺2021 甲信越戦国物語」というらしいですが、「善光寺と川中島の戦い」です。常設展もおすすめです。ただ展示品が割と地味なせいか、フラッグなど小細工が多すぎて(笑)。まあ信玄の手紙とか地味ですもんね。

「海津大絵図」三村養益画。(部分・ほぼ全体は一番下に)。松代を中心として周囲の山や千曲川が描かれています。周囲の山は、松代から見た形なのです。当時の侍の家が当主の名前入で書かれているのが興味を引きます。描かれたのが1800年前後と思われるので、千曲川の流れは寛保2年(1742年)に発生した大洪水「戌の満水」の後で、幕府から1万両の借金をして大規模な瀬直した後の流路です。松代城と千曲川の間に古川という細い川が千曲川の旧流でしょう。右(東)にある奇妙山は瀧山と書かれています。
三村養益:江戸後期の画家で名は惟芳(房)。狩野養川院に師事する。松代藩の御用絵師で江戸在住。天保5年(1834)84才で没。息子はやはり 御用絵師の三村晴山で寛政12年(1799)~安政5年(1858)。狩野芳崖などを育てた。
松代藩の御用絵師達

 川中島の戦いで上杉謙信が布陣した妻女山山系の拡大図。山名や当時の村名を入れてみました。現在の妻女山は赤坂、斎場山は妻女山と。鞍骨城は倉骨城、象山は竹山と書かれています。上杉謙信が七棟の陣小屋を築いたと伝わる陣場平(甲陽軍鑑の編者小幡景憲の絵にあり)は表記がありません。現在は妻女山里山デザイン・プロジェクトで貝母(編笠百合)の保護活動を行っています。

 絵の最上部には善光寺が。現在とは微妙に名前や配置が違います。江戸時代後期は、庶民の旅も非常に盛んになりました。善光寺の御開帳には全国から善男善女が参拝に来訪。そんなさなかに善光寺地震、弘化4老中(1847)年が起きて大災害をもたらしたのです。死者総数8,600人強、全壊家屋21,000軒、焼失家屋は約3,400軒を数えました。

「川中島合戦錦絵 巻子(かんす)」右上には「信州川中島大合戦図」とあります。江戸時代にはこういった錦絵がたくさん描かれた様です。また、両軍の布陣図も描かれ善光寺や宿場町の人気の土産物として売られた様です。ほかに興味深かったのは戦国時代の馬の骨格標本。もちろんサラブレッドの様な馬ではなく、木曽馬の様な小さくがっしりした農耕馬です。当時の武士の身長は、150〜160センチぐらいなので問題なかったのでしょう。人を乗せて時速40キロぐらいで走れたそうですし、山を歩くのも得意だったとか。

 その善光寺地震で犀川がせき止められ19日後に決壊し、善光寺平に大被害をもたらした時の絵図。左上の大きな湖が決壊し被害は善光寺平だけでなく飯山や新潟の信濃川流域まで及びました。これにより松代藩の財政は復興費用のため破綻状態となり幕末まで解消しませんでした。この図は常設展示です。

 江戸時代に善光寺に奉納された武田信玄と上杉謙信の大きな位牌。今回の展示は、信玄や謙信にスポットを当てた英雄史観が垣間見えるもので、奴隷市や庶民の苦難に全く触れられていなかったのは残念です。この実証歴史学を教えてくれたのは学芸員の原田さんです。妻女山の初出を調べている時に紹介され教授されました。それは拙書を出版する際も非常に参考になりました。
「七度の飢饉より一度の戦」戦国時代の凄まじい実態 (妻女山里山通信)

 常設展示には、地質や縄文弥生時代の土器などが展示されています。右は男女のシンボル。少子化というのは民族滅亡の印なのです。左の土器は普段遣いのものでしょう。須坂市博物館の世界最古の土器もそうです。火焔型土器などは祭祀用だったのではないでしょうか。

 縄文時代の家屋の復元。以前、塩尻の平出遺跡へ行きましたが、縄文時代から平安時代までの庶民の家はそんなに変化がないのです。その近くには旧石器時代から使われていたという黒曜石の産地もあります。中央構造線とフォッサマグナが交わる信州は、非常に重要で面白いところです。

 弥生時代の青銅のブレスレット(銅釧)と管玉(くだたま)。細い管に孔を開ける技術には驚嘆します。縄文時代から弥生時代にかけて人口が急増します。それは自然増では考えられない数。大陸から大量の移民があったと考えるべきです。

 弥生時代の盾(複製品)。渦巻の文様は縄文土器の渦を想起させます。左奥の写真は武器ですが、同時代の春秋戦国時代の中国と似ています。私は美大出身でアートディレクターをしていたので形象学でものを観る癖があります。越に滅ぼされた呉が最初に来日。後に滅びた越も来日。魏志倭人伝には卑弥呼が平定する前に倭国大乱があったと記されています。呉と越の戦いでしょうか。上越市の斐太遺跡には、当時緊急避難的に作られた村の跡が残っています。鮫ヶ尾城の麓です。

 上杉謙信のシンボル。白狐に乗った烏天狗(鴉天狗)。飯縄権現の祭神です。左は謙信の兜の前立て。烏天狗は山伏の格好をしていますが、本来は鉱山を探し当てる山師だったのではと思います。徐福と一緒に来日した古代ユダヤ系の技術者集団? 飯縄権現は、密教の根本尊である大日如来の化身の不動明王として武田信玄と上杉謙信に尊崇されました。忍術の元も飯縄権現です。高尾山や鎌倉建長寺の半僧坊が有名です。
鎌倉アルプス-鎌倉散歩:烏天狗の建長寺半僧坊から鎌倉アルプスを巡ったフォトルポ。小津安二郎も。

 長野市西町上組の山車。寛政5年(1793)6月造とあります。大変綺羅びやかな造作です。天井には龍の彫り物。1793年は、将軍家斉が老中松平定信を罷免。寛政の改革は終わり、お金を使いまくる政治を開始。側室も何十人も持ち子供の数も55人。この頃から大奥の権勢が強まり改革をことごとく阻害し始めたという時代。庶民も遠慮せず綺羅びやかを求めた時代だったのでしょうか。

 鳳凰の下に三羽の鶴。山車が誰の作というのが記されていないのは残念です。宮彫り師はあくまで職人で社会的地位は必ずしも高くはなかったのです。

 博物館の前は八幡原の史跡公園。遠くに尼厳山と奥に奇妙山が見えます。両山とも拙書に載せている歴史も自然も非常に面白い人気の里山です。この右手には信玄と謙信の一騎打ちの像があります。まあ川中島の戦いは虚構と物語にまみれた戦ですからね。第一級史料もほとんどありませんし。だからこそ地名とか地元の伝承とかが大事なのです。ほとんどが川中島の戦いに関わり、その後に定住した人達なのですから。

「海津大絵図」のほぼ全図です。北は善光寺まで、南は狼煙山と地蔵峠まで。東は奇妙山、西は屋代と千曲川対岸の稲荷山宿までが描かれています。北国街道や北国街道東脇往還とか善光寺街道とか分かります。古い裾花川や犀口から川中島に流れる古犀川や御幣川なども描かれています。できれば松代藩の和算家・測量家 東福寺泰作の「松代府内測量図」もレプリカでもいいので常設展示して欲しいです。

 『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

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