球形ダイスの目

90%の空想と10%の事実

下の子ら

2006-02-04 | マジメな話
と、今日は接する機会を比較的多く得た一日だった。

様々な人が様々な救いを求めているなぁと思った。
今日の結論はそれであり、それを仔細に表現する努力はやめる。
あくまで、そこに準じて自分の体験を述べるだけにしたい。

この文章はどれだけの人がはっきり見ているのか不明なので
後輩宛に書いて意味があるのかもこれまた不明だ。
また、そこから価値(やわらかくしたいなら「甲斐」でもいい)を見出してくれるのかも不明。
ならば、とりあえず書いてみるのがよいだろう。



ちょっと自分の話をしよう。
後輩宛てっぽく書くって言っているくせに、年齢は彼らに合わせず、最近の話。

先日友人&後輩と話していて
「お前の話はわかりにくい」
って展開になったことがあった。

ここに書いてあることの多くの要素が日常会話にも籠っているわけで、
確かにわかりやすくなんか書いていない。自分の脳に素直に書いている。
だから、基本的に僕にはわかりやすい。

でも、実は、自分でも持て余すときがある。
無意識から発せられるメッセージを意識上の僕が完全に制御できていないのだ。
そのことに気づくのに、上に書いた二人の力を必要とした。
自分の脳から出てくる言葉に自分が溺れているなんて、かっこ悪い。
だが、そういう事実があると知れば、それは認める面白さもある。

それまでは、自分で編み出した技は自分が一番の使い手だと思っていた(格闘技の話ではない)。
言い方を変えると、自分で考えたいかにも完璧な計画は自分が一番実行できると思っていた。
しかし、そうではなかった。

オケの世界にいると、自作自演が一番優れているとは限らない、ということは
見聞きする。
他人から見たらそれと同じ。
僕も、自分という主体を離れてようやくそれと同様だということに気づく。

…たまに、興味を持ってくれる人がいる。
それは嬉しいこと。
嬉しいと感じたときに、それを求めていたことを知った。
"ズレ"ているので共感は得にくかろう。それは仕方がない。
それでも僕はそういったものを絶えず求めていた。

しかし、意識的にそれに気づくことは意外なほど少ない。
僕の"意識"さんは見栄っ張りなのか知らないが、本当に気づかないのだ。



今日は、そういう「渇き」を多くの人から感じた。
多分、頭で考える多くの人がいたからだろう。話をしようがしまいが、そういうことはわかる。
なぜこの子らは、ここまで、求めているのか…

デウス・エクス・マキナという神がいて、
物事がこんがらがったら、すべてそれを最適なポイントへ再配置してくれるらしい。
ありがたくもあり、余計なお世話でもある。



ここで、最近見つけた、ちょっと気に入っている詩があるので
それを紹介して今日のBlogを終えよう。


"動くために錨(いかり)を下ろすのが人間だよ。
船は流されぬために錨を下ろす。
人だって流されぬために錨を下ろすけど、
それは、動くためのもの。"

コメント
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