球形ダイスの目

90%の空想と10%の事実

筆舌に尽くしがたいものをとて筆にぞ尽くす、君帰る

2012-03-30 | たぶん難解な話
※たまに書いたと思ったら7000文字超えの電波文。創作メモ。

今回の曲紹介原稿執筆を巡って色々考えたこと。
巷の本で小難しい言葉が並んでいる理由の一つとして、
"正しいことを言わなければいけない"という無言の重圧との格闘がある。
黒を白と言い切る手法でしかものが書けないアマチュアのもの書き。
読み返してみると、何度も同じようなことを書いていた。

子供は感情が昂ぶると泣く。
女性は感情が昂ぶると泣く。
僕は感情が昂ぶるとそれを表現する言葉が見つからず
いくつかの言葉にそれを込めて文を書く。
普段人にわかるように説明できることは、僕の感情の昂ぶりとは関係のない出来事ばかり。

僕は、自分の感情を冷静に文字で表現することが出来ない…


◇以下、創作メモ(順番だけ整理した)

[アプローチ1:ヒストリ追跡/構造解析]
 ある程度の年齢になってくると偉大な作曲家が何歳の時に何を成し遂げ、それと自分を比較して焦りに駆られるようなことがないではない。そんな偉大な交響曲運命はベートーヴェンが34歳の時にスケッチが始まったものである。

[曲に関する概論]
 苦悩から歓喜へ、という言葉から受けるイメージとして
作曲者の立場では"1楽章は苦悩、4楽章は歓喜"と配置するしかない。2楽章と3楽章に何を配置するのだろうか?とりわけ本交響曲では3楽章から4楽章がattaca(終止なし)で入るため曲の構成から"苦悩から歓喜"と論じることが非常に容易い。特に勉強していなくても
3楽章の終盤でありったけのエネルギをチャージして4楽章で一気に解放するイメージを持つことができる。実際は1楽章は4楽章との関係は薄く、4楽章との対という役割を3楽章に預け、自分は自由な立場で聞き手にインパクトを与えるハードパンチャーの役割を担っていることに気がついた。

[2楽章のイメージ:LS6変換の容易さ]
 その中で2楽章の持つ意味に関して書くのは難しい(アイデアに乏しい)。
個人的なイメージとしては人とのかかわりが薄く、晴れた日曜日に窓から日傘を差した美しい女性を眺めている(決して話しかけない)もの。
何回も繰り返される主旋律は少しずつ形を変えながら3+1回再現される。
変奏曲を書く心理というのは考えていて面白いものがある。
夢と現実と妄想のヴァリエーション。最近の音楽ではバリエーションというよりアレンジで曲の印象を変える操作をすることが多いため変奏曲の心理がそのまま説明することには少々無理があるのだが…

1.夢の動揺
 僕は君を横目で見ながら決して視線が合わないことに安堵しながらガッカリするような臆病で貪欲な気持ちになってしまっていて、だから横目で見て愛でていることだけでも僕の幸せ。一日でも長く終わらないで欲しいし夢なら醒める前に一度溺れさせてよ…
2.夢を思い出し…
 夢は醒めたけど夢の中の気持ちは憶えている、僕の足跡は霧のように隠れることはとてもできないことだけど、力強く決してもつれない確かなもの。それにしても今自分が考えていることの貧困さに比べて、夢の中で僕の眼前にあった光景はなぜこうも甘いのか、なぜこうも人の心をとらえて離さないものが出来るのだろうか…
3.とにかく4文字の倍数でありったけのことを書く
 俺とおまえとあなたと君と私とあいつと誰かと彼女のことが絶えず頭に流れてきながら本当に何物も考えまいと心に秘めながらどうしても考えずにはいられないと思いながらついつい考えてしまいそれがいつ辞められるのかいつ辞められるのかと思いながらもそれがやめられないことだけで忙しさを表現してきた私もそろそろ不惑を迎えます。
 美しく暖かい環境でひとりごつことが止められないウジウジした男の、眺めるならば味もあるが関わりたくはない友達のような、花を一枚剥いだら下はウンコだらけみたいな音楽。ウンコと言いたいのではなく、この楽章について書いていけば書いていくほど話が個人的なものを表現したかったような気がしてくるという話。うっかりスイッチに触ってしまったばかりに長く長い打ち明け話を聞くことになってしまった馬鹿馬鹿しさの積み重ねであった青春。終わってみればまたそのしょうもない打ち明け話の一つ一つが懐かしい。

3楽章
ふっと現実に目が戻る。窓には誰も映らず、キャンバスを彩る画材がないことを恨めしそうに眺めている僕。慣れ親しんだ僕の顔。僕の表情に合わせてさっと表情を変える、出来の良い自画像。暗い… 蝙蝠が羽ばたいている。不気味だ。
巨人が下り坂を転がり落ちるような地響き。何かの兆候か。勇気がでる。歩いて歩いて、歩いてゆけばこの暗い道を抜けて明るい場所に出てこられるのか。
それにしても長い。次第に光が差す。そこで俺が見た光は電灯やランプのような控えめな赤いものではなく、まるで太陽の…

4楽章
…僕の前に道はない、僕の後ろに整備された焼け野原。
後ろに誰かがついてきているのか?後ろを見られないから前だけを向いて、右手に火輪を巻いて俺は疾走する。”俺はアポロン、道を開けよ!!”俺はな、シチュエーションにBGMをつけるより音楽にシチュエーションをつける方が好きなんだよ。
自転車に乗りながら歌うおじさんと一緒にしないでくれよな、この灼熱感、決してささやかなものではないさ。後ろからドタバタと音が聞こえる。間違いない、何人?何匹という人やら獣だかわからないようなものまで一斉に俺の後ろを駆けている。俺の気を感じ取ってその勢いにあずかろうとしているみたいだ、全くずるがしこい奴らだよ。



静かで平和で孤独な日曜日と、口に出して言ってみた。
日曜日には、ぼくはねじを巻かないのだ。

自分位の年齢の時には何をしているのかと思ったら、難聴を挫けの原因としてハイリゲンシュタットの遺書を書いていた。周囲の環境に恵まれていたようには見えない。

"このように運命は扉をたたく"という言葉にうっかり触発されて、ショッキングな出来事が起こったときにあなたの頭の中で扉をノックされたことがあるだろうか?
私はない。厳しい現実というのは何かきっかけがないと像を持たないものだ。
母方の爺さんの死に化粧…

Wikipediaを参照しているけれど、修行時代に関する記載が残っていてそちらを読んでいる方が面白い。

苦悩を超えて歓喜へ
何の苦悩を超えるのか。何が歓喜なのか。
生活が苦しい苦悩?
ぼくはベ-トーヴェンという人物が死ぬまで

ロランの偉大さは、どんなに困難な状況におかれても、未来への夢を失わず、常に時代の変動の中心にいて、苦悩に耐え、不正と戦い、一歩でも理想に近づこうと努力した事にあった。ジャン・クリストフ。DQNから仙人へ一足飛びだ。

よほど数奇な時代の生まれでいなければ人は時代に翻弄されながらおそらくは慣れ親しんだ旧時代にいつも感じていたような心の安寧と苦悩や不正と戦っているはずだ。周囲から見てどう思われるかは別として、筆者は筆者で同じような思いを持っている。

原稿を書いていて気がついたこと。
前回執筆時(第9回)には幻想交響曲が多分に映像的な要素を含んでいると考え、各楽章を一人の男のモノローグ調に書いたことがあったのだった。それと同じことを曲紹介の度にやろうとしてみて、ちょっと話の整合を取るために調べ物をする。
その結果、”苦悩から歓喜”というベートーヴェンを語るのにいきなり1楽章で矛盾が出た、そうか、この楽章って別に苦悩を書いているわけじゃないのか。
 なんでなんだろうね、俺はSSは大嫌いなんだけどね。こういうのは逆にすごい好きなんだよ。変態って言わないで。多分個人の話は好きでも噂話が嫌いなのと感覚としては似ているような気がする。他人の他愛もないような話を親身になって聞くほど僕はそんな彼らには興味がないのだと思う。
 個人が小説を書く以上一個人のモノローグであるにいずれ決まっているはずなのだが、
ある創作物を自分の思い通りに変えたい願望をかなえるために書いているか、なんだかよくわからない自分の心に釣り針を垂らして強く引き上げること。

・ある新聞欄の投書欄に投稿したものとして
あいしてあいしてあいしてないよこいしてこいしてこいしてないよ
君から一日メールが来なくても別にそんなには寂しくないよ
どういうわけか壁紙には君の笑顔が映っているんだけど、
別に図抜けてかわいいわけでもないんだけど。
こいしてますか こいしていません
愛してますか どうでしょう

[コメント]
ひょっとしたら愛しているのかもしれませんよね…別に毎日コンタクト取らなくても大丈夫なんだけど代わりになる何かがいつも側にいる、それを君はどう考えていけばよいのでしょうね。



[文献調査1]
ベートーヴェンの音符たち 978-4-276-20064-7

第五に関する記述からのメモ。
21小説間は1小節を除き、後はTかD。きわめてシンプル。しかし後半15小節目からTDが1小節毎になり音楽の緊迫感が増す。20小節目だけ増6の和音。
C-mollのドミナント…G-mollのさらにドミナントである属7の和音。
これの根音であるDを抜く。

A’ D-Fis-A-C 根音のDを抜いてB’へ
B’ Fis-A-C 下方変位してc’へ
C’ Fis-As-C
このAsは、A’を見れば第五音。これをバス(一番下)に置く形を第二転回形という。
バスのAsと上のFisが増6度になりこれが響きの特徴になる。で、この和音はDの前に登場するのでSub Dominant. Sと表記するのが正解。
実際と骨格(非和声音)で殆ど差がないことに特徴がある。

その他のあがき
反行形など、色々構成をいじってみたものの改悪される印象を得るばかりであったということ。

他の部分からの情報収集にかんして
6番と5番、旋律的でなくモチーフの集積とも呼べる性格を持っていることで説明される。EnsagaのVaのソロ部分を思わせる、成程あれもモチーフのカスケードだ。

[文献調査2]
ベートーヴェンの精神分析 978-4-309-24414-3

苦悩から歓喜、大団円、ソナタ形式(という名の武器)
作曲家にとって曲の構成は武器である。表現したいものを表現するための…
音楽家には音楽家の、文筆家には文筆家の武器が存在するということだ。
形式という名の武器…
芸術家は自分の心理的課題と戦うために創造する。
作曲が遅れる・第五を創造するために必要な多くの独創が曲の完成を遅らせた。
The・パズルシンフォニー。
愛することと働くこと 眠い。
傑作の森は喜びによってもたらされたようでもあるが、それと過去との訣別の意も込めなければならないのだった。


[名曲解説全集]
非常に長くの時間をかけて推敲に推敲を重ねた必中の作。
初演は成功しない。
1楽章と4楽章がソナタ形式。2楽章の解釈は真に美しく瞑想的

書籍を読み終わってからの所感として。。。

[矛盾がある点]
作曲に時間がかかった目的を自己に巣食うトラウマからの…という個人的要因に求めるか、それとも必中の…という仕事的要因に求めるか。

1楽章は”優れた構成力”と言われるうちの一つ。
全くの音楽の素人としては”苦悩から歓喜へ”という曲を作るときに
ソナタ形式という構成上の選択肢があることを知って変えるのかもしれないです。

[物書きとしての自分への課題]
複数冊の書籍を見ればそれだけで矛盾は発見できてしまう。
その矛盾に苦しむことになる。ロクに調理も出来ない食材を料理に入れても
全体のバランスが崩れて邪魔になってしまうということだ。
材料は揃った。後はこれをどう組み立てていくか、それだけだ。

[で、自分は何が書きたいか/資料で得た情報の取捨選択]
×アダルトチルドレンの話は書かない。
×当時の女性関係の話も書かない。
○モチーフを組み合わせた曲であることは書く

一楽章は個人的な音楽であること、
この曲、4楽章はあまり書くことがないのです。過去への訣別、とくらいにしか。

[携帯に書き溜めた思考]
 ベートーベンのこともあるし、何がしかに使えるかもしれないドキュメントを書いていこう。これで僕は退屈することもない。良い文章が読みたいという願望が叶わないので、ならば自分で書こうと思っているのかというとそうではなく、限りなく排泄行為に近いものだ。ウンコ小便であろうとなかろうと、単純な排泄行為を見せられると不快感を催す程度にはヒトの感覚に共通項目はある。

親しみやすいものを親しみやすく書く…海原雄三を親しみやすく書く。碇ゲンドウを親しみやすく書く。親しみやすくないと考えるものを縦に並べてみる。
カイン。多分アイツは親しみやすくない。そういえば俺はシドとカインの関係が大好きなのだった。後日談としてかかれた話の中でラスボスの設定など作品としてクソな点を数多く持っているが、バロンでカインに"ずっとおまえの帰りを待っていた"と言ったシドには胸が熱くなった。俺も言われたことがあった。

一目惚れをしたことがある。ちょうど時を同じくして、"一目惚れなんて、めったにできるものではない"というコピーを盲信しこれっきゃないと思ってた小学校時代。あれ以来一目惚れなんてしていないので黒歴史ってほどではなく、むしろなんで一目惚れが起こったかに興味が向いた。しかし気が多いことだな…過去の記憶のせいで叫びたくなりそうだまずいまずい。
しかし、汚物とそうでないもの違いなんて弁別不能な混合比であることか否かが最大のパラメータではないかと思う。

運命は扉を叩く。運命とは?ヒトの感じる運命なんて…人も時代も風土も宗教も異なるドアを叩く。共感できない。ただ吹き荒ぶ風…二楽章。花柄を散りばめた白磁の茶器。登場人物が少なく、軍隊もいらなければ最悪女性の影がなくてもよい。劇を作るのであれば低予算な劇ができる。窓と花と不細工な男。男も視点を与える狂言回し以外の役割は必要ない。せめて服装だけでも整ったものがあればいいのにな。情緒ばかりがポコポコ浮かんで
一転して重苦しい。三楽章というキャラ付けのはっきりしなさが手伝って、立ち位置がはっきりしない。四楽章が至って健全勇壮な(一部センチメンタリズム)曲故の踏み台になっているようではあるのだが。苦悩を越えて歓喜へ、なんて言葉があるけど、あれってどういう意味だ?苦悩を越えるってどういう意味だ?ピアニストの名前が自分の頭から失われ思い出せない。いや、はじめからそんなものはなかったのか。新田という謎の苗字だけがぼんやりと頭に思い浮かぶ。

フーズフォーラスっぽいあんちゃんが乗る電車。

間違ったことを書かないようにすると決めると筆は止まる。常に正しいことばかり書こうとしたら、球形が次第にゆがんで単なる塔のようになっていく過程をどうみるのかってこと。
曲の紹介文。アプローチがいくつかある。
すでに対象について十分知っているなら以下のアプローチをしなくても自分の解釈に自信が持てるため問題はない。
問題は自分の解釈に自信が持てない程度しか知らないことだ。客観的な間違いのないものを書くか、主観的な間違いを含むものを書くか。間をとろうと努力するか。

これが仕事だったら、主観的なものが好まれる。本来何かを決められないものに対して何かを決めるわけで、片付かない机がきれいになる。
面白さを取って正確さを捨てることを時には求められる。

自分の人生にBGMがつかない退屈さについて考えたことがある人は決して少なくないと思うんだけれど。そして、どうせつけるなら淡白なものでなくドラマチックにしてほしい。自分が人にこう見られているのかとひどく奇妙な心持ちがしたものである。一方で他人の人生のBGMとしてつけられることが多いのは一体何なのか。

 一楽章の始まりはそんな願いを叶える為の音楽であったのかどうかはともかくも、単体での完成度を持つが、どこか偏りがあってがなるような、汚い机の上に散らかっているものを整理する代わりに配置だけ整えるような、構成について書かないと片手落ちの説明になるから入れずにはいられない、そんな気を起こさせる。個人的には一番感情移入しにくい楽章だと思う。だって、二楽章ではやすやすLS6変換できたのに今回はLS変換止まりだ。
 これは自分の感性のせいではなく、曲がそうさせるのだと思っている。幾分絵画てきな二楽章に対してどこまでも心象的な一楽章。主だった要因は多分そこ。主人公をやれる音楽と傍観を余儀なくされる音楽。技法への置き換え。
この曲の紹介を書くことに決まったその日から、という壮大な先入観どのように調理すべきか、ということを考えていた。命がドアを叩くという言葉から何を読みとるかということだが、俺自身の運命は、もっと影がいつの間にか自分の首を絞めてくるような印象を持っており、こんなに真っ向勝負を挑んでこないものだ。つまり、このフレーズが個人的なものであると解釈する部分については間違いがないと考えている。

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