球形ダイスの目

90%の空想と10%の事実

[自分用]演奏会を終えて

2021-04-25 | オケと音楽
先週の日曜に演奏会を終えた。
実行委員長として、自分個人としてはかなりの努力をした。
こう言い切れるのは大学3年生の執行部の時以来だと思う。

それで大学3年生の時にはどのようなことを考え、どのようなことを皆に伝えたか、今回はどうだったのかということを考え直してみたい。
しかし、悲しきかな当時の日記帳は整理してしまったことと、
"今のこのメンバと同期でやれてよかった"という言葉以外は
碌に原稿も作らず思いつくまま言葉を垂れ流してしまった。
当時のことを意識的に積み重ねていないので、そこまで自分の肥やしになっていない。
なので、今回はそういうことの無いように、自身が少し成長した証として
この場に記録を残しておきたくなった。

ただ、仕事みたいにKPTをやると情緒的な部分が漏れるため、大学3年生さながらの文章の垂れ流しということもしてみよう。

[中止になった前回]
色々すっとばすが…練習は特定部分の暗譜を進めるなどして、個人的にはそれなりに実りのある進め方が出来つつあった。
実行委員長の仕事の方は、基本的に前任者のやっていることをなぞっているだけで特に自分としての創意工夫などは無く、それでも最低限の仕事を面倒に感じながらこなしていた。ペースは決して早くなく、手遅れにならなければOKという程度のものだった。
しかし、2020年になって状況が変わる。1月に武漢で感染症が増加している、
というニュースが流れたと思ったらダイヤモンドプリンセス号という豪華客船が日本に感染者を上陸させ、いつの間にか日本にもウイルスが持ち込まれた。
そして、演奏会の直前にコロナが蔓延、3/13に緊急事態宣言が出された。
2020年当時、緊急事態宣言とはどういうことなのかを肌で知る者はなく、
さらに志村けんの訃報などからコロナウイルスに対する一般市民の恐怖感や緊張感はかつてなく高まった。(咳をするだけで暴力沙汰になりそうなレベルであり、マスクの買い占め、転売などが盛んに行われた。)

演奏会を実行する側としても、今の状況で演奏会を開くという見通しに一気に濃い霧が立ち込めた。そうこうしているうちに、主要なメンバが演奏会の不参加を立て続けに表明するなど起こり、実質演奏会を開催するためのメンバの確保が不可能になったと判断され、主要メンバの中で、演奏会を中止せざるを得ないという空気が一気に高まった。口惜しくも団として演奏会を中止することとなった。

中止を決めたタイミングでは、ホールの返金なし(十万単位の損失)、演奏会の日の当日は誤って来場したお客様を返すために大ホールの入り口に待機していなくてはならないということになり、泣きっ面に蜂どころの話ではない。
釈然としない思いを抱えたまま、本来演奏会を実施するはずだった日へ。
最寄り駅にあるラーメン屋でラーメンを食べた。店主殿が、咳ばらいをしたくて仕方ないが今咳をしたらヤバい…という苦悶に満ちた表情をしており、何だかなぁと思ったのが印象的だ。ラーメンの後にホールに出向き、階段の前に立って、スマホをいじっている訳にもいかないため、普段合わせないような遠くに目のピントを合わせ、建物内の物音に耳を傾けた。
折角なので五感を働かせてこの時間で何かを感受しようなどということを考えたが、実際に感受できたのは高くて遠い天井と、正面の規則正しいガラスと、
時折人が出入りする音、少し遠くで聞こえる車の走行音だけだった。
どのくらいこれを続けなきゃいけなかったのか忘れたが、多分開場~開演までの時間だったはず。まぁ45分~1時間の間かな。退屈の海に溺れるかと思ったが、意外なほどアッサリと所定の時間は過ぎた。むなしい気持ちを無かったことにして帰宅した。

それからしばらく会議室なども取れなかったため次の回の計画は遅々として進まない。実際に動き出せたのは四か月後くらいになった。夏は感染者の数自体は減っていたため、人口的な割合で言うと相当低く、自分が掛かるのではないかという不安はあまりなかったと思う。
練習場所にはそれぞれの施設が工夫しながらパーティションを設けたりすることで対応していて、ちょっと面倒な決まりが増えたが普通に練習はできるというくらいの危機感で活動していた。これが秋にかけて…のはず。
自分の仕事も、前回の中止した分の財産をほぼ持ち越せるためこのときは全く仕事をしていなかったと思う。この時期はインペクさんにおんぶにだっこみたいな状況だったということかな。
一方、コロナ対策については人毎に結構運用がバラついていて、
会食そのものまでを禁じていく動きを徹底した人と、ソーシャルディスタンスに気をつけるが会食そのものは禁じないスタイルの人に分かれた。
自分は後者だった。平日は会社の指示のもと一切の会食を禁じていたし、この間出張も外出も一切ないわけなので欲求不満も大きく、週末のパートの飲み会が自分にとっては唯一と言っていい憩いの場だった。他愛のないことをダラダラ喋るだけだったけど、楽しかった。

…しかし冬が来て、年が明けてから状況が変わる。
1日の感染者が当然のように5,000人を超えだし、1/7~3/21まで緊急事態宣言が発出されてしまう。これにより外食は20:00までとなり、会食どころか外食自体が大変やりにくくなった。この期間を耐えきれずに、看板を下ろしたお店も多く見られた。
※一方で、パートとしては、練習が早く終わったときは必ずと言っていいほど飲みに行っていたが。
練習場所が22時までは取れなくなり練習時間が短くなったのが
団としては悪い影響になったと思う。

そして1月の中旬。団として、演奏会をやるのかやらないのかの方針を決めて欲しい、という話を頂く。ここからが今回の自分の仕事のスタートだった。
どうやって方針を決めるの?何があったら演奏会出来ないの?どこまでのことは起きても演奏会を継続するの?みたいな、これまでのマニュアルがないようなことを提唱しなくてはならなくなった。

が、一転、ここを提唱しだしてから、急に自分のやるべきことが分かってきたのと、団としての方針を決めていくうちに、自分の発言力が増していくのを感じた。最初は何をして良いのか分からず皆にお伺いを立てていたが、最後には自分のやりたいことを示し、基本的にこのようにやらせてもらうので、何か問題があれば言って欲しいという提案に変わるくらいには自分の軸が出来た。

以降、自分の考えることにケチはついたとしても全否定という形が取られることは基本的になくなり、かなりの部分に積極的に関われるようになった。
今回のコロナ禍が無ければ、中止になった前回と同様に
それまでと同じ仕事をやっつけでこなすだけだったと思うので、
自分の団への貢献という意味では非常に善いキッカケを与えてもらったことは間違いない。新型コロナウイルスに感謝はしないが。
まぁ、他の人の2倍の期間仕事をして、ようやく1人分の仕事が出来るようになったという話かもしれなかった。でもそれでいい。
とにかく今回自分がやったことというのは自分の肥やしにしたいのだ。
今は何事も高齢化している。演奏会の運営をまともに2回ぽっちやり切った年齢がアラフォーになってしまったとしても良いじゃない。

そして、僕によくしてくれた皆さん、本当にありがとうございました。

[短い文字で要約]
今回の対応はこれまでのノウハウが通用せず苦労した。しかし、コロナ禍で演奏会を開催する道を作ることで、これまでの委員長とは色の異なった働きが出来たし、委員長をやり抜くことも出来た。いい経験をさせて頂いた。サポート下さった皆様に感謝。
↑やっぱ結局ここなんだよな


際限なくダラダラ述べるつもりが、3500文字程度にしかなっていない。
おかしいな、15年前は、毎日2000文字以上、中身の良く分からない記事を書けていたんだけどな。今は全然文字数が書けない。昔は今よりも全然楽な状況に対して今よりも悲観的な向き合い方をしていた。

今は辛い状況をまともに向き合わずに受け流すことを憶え過ぎた。
二度と芽を出さないことを何かに願いながら地中に埋めた不幸の種。
毎日に疲れてぞんざいになっていく雑草の駆除。あいつらの発芽率は異様に高い。のか、発芽しなかったものを単に忘れるだけなのかは何とも言えない。

コメント
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