MoiMoi。のココデハナイ ドコカ。               

「この世界には私が撮らなければ誰も見たことがないものがあるのだと信じています」by ダイアン・アーバス。   

大学時代思い出すのはバイトだけかも。

2023-07-08 | コラム

人生で1番退屈だったのは高校時代。2番目に退屈だったのは大学時代かも。文学部は片親(父親は10代の時急死)なので就職不利と言う母親の考えで、受けさせてもらえず、しょうがなくまったく興味無い経済学部受験。

國學院大は受験科目が少なかったので受けただけで、それ以外に理由はない。

出席したのは文化人類学と英語(テスト毎回満点)と当時、テレビによく出て来た樋口清之先生の授業ぐらい。経済はほぼ欠席。なので今でもクラスメートで名前と顔が一致するのは3人しかいない。3年間でほぼすべて単位取ったので4年の時、RCAレコードで半年バイトのプロモーター。これが人生最後のバイト。

最初のバイトは1年の時新宿のpitinn clubの前歩いていたらウェイター募集の張り紙あったのですぐ応募。履歴書が必要だと言われすぐそばにあるアドホックで買って現場で書いた。

これが初めてのバイト(高校時代はバイト禁止)だが目的はギブソンの175が欲しかったから。でも高かったので、その後、いくつか違うバイトし結局fenderのTelecaster Thinline (結果的にこれにして正解だったが)を五反田のTOC内にあった楽器店で購入。この時初めて領収書に「上様」と書くというのを知った。

pitinnのバイト料めちゃ安かったので、さほど長くはいなかったが辞めてからもしょっちゅう顔出し、タダでライブ聞かせてもらった。(皿洗いとか手伝ったのかもしれない)

左隣にイレブンと言うpitinnと同じ経営者が経営していた茶店があり、そこに可愛い女の子がバイトで入って来て、目の前の道路隔てた所に並んで座り彼女のアイシャドウが綺麗だったので褒めたのを覚えている。

あんまり部屋が暑くて辞めたバイト。クラスメートの親戚がやってるタクシードライバー相手のレストランでの皿洗いも、これも嫌ですぐ辞めた。結構続いたのはNHKの小道具係。

テレフィットと言う会社に登録して渋谷のNHKセンターに泊まり込みでスタジオに小物持って行ったりしていた。さほど忙しくなかったのでお料理番組や大河ドラマの収録をスタジオで見学したりしていた。

クラスメート(誰だが記憶無い)の紹介で高輪プリンスホテルの皿洗い。

駐車場が無料だったので車で行ったりしていた。

ほぼ毎日暇だったが、一度だけ結婚式の会館での皿洗い2人で担当だったがドタキャンされ1人で担当。ひっきりなしに皿など洗いもんがくるもんだからたまったもんじゃない。

おばちゃんたちも手伝ってくれたが、めちゃ大変だった。この時、バイトでピアノ弾いてる、たぶん音大の女子大生と少し話したりした。

高輪プリンス内のトリアノンと言う、高級レストランでの皿洗いが一番多かったが、ここは洗い物を機械に通すだけなので楽。ウェイターさんがコーヒー持ってきてくれたりした。

ガラスの小さな灰皿がかっこよかったので一つ拝借。結構長く、家にあった。

この頃にはギター買ってるが基本集団がダメなので家で1人で弾いていた。

この性格は子供の頃から変わってなく、小学生の時、友達がいないんじゃないかと心配した母親が担任に相談した事もあった。

集団嫌いはなぜ出席したのか記憶無いが一度だけ30代の時、高校のクラス会に出かけて行った。この時、なぜか高校時代話した事無い、当時不良だった連中が話しかけて来たのが面白かった。

それと一年の時の担任神田(こうだ)先生に二次会の時、エレベーター前で、みんなと離れて1人で立っていたら、「磯田は昔から、そーだったな」と言われた。

この先生は劇団など主催していて演出していたので観察力が鋭かったのかもしれない。

脱線してしまったが、とにかく高校は先生は良かったが生徒がバカだった。(一番仲良かった通称クラークは賢かったが)

大学は授業出ずバイト優先。でもちゃんと4年で卒業した後、kittyレコード入社。

でも集団が苦手で入社した時から他の仕事考えていた。

しかし母親の実家も渋谷の國學院のそば。バイトしていたRCAレコードも宮益坂上の仁丹ビルの前。就職したkittyレコードは宮益坂下った明治通り沿いのビルの上。

渋谷に縁あるのは間違いない。

※写真は一生懸命バイトして買った、今でも大事にしているfenderのTelecaster Thinline

 

 

 

 

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母親の友達も色んな人がいた!。

2023-06-22 | コラム
※写真は曾祖父さんも写っている親戚達。母親の従兄弟山下洋輔氏著。「ドファララ門」の表紙。たぶん東洋英和に通っていた頃の母親もおります。(左上3人目。左のメガネの人が僕の名前を付けてくれた祖父の長谷川常太郎)
 
子供頃、六本木の東洋英和のバザーに行ったり母親が友達と会う時一緒に行ったりしていたので母親の友達結構知ってる。(会った事あるか記憶無い人もいるが)

羊羹のとらやの女将さんの黒川さん。勝海舟の孫(ひ孫?)の五味さん。

現在立教大名誉教授で同時通訳者の鳥飼玖美子さんのおかーさん(旧姓田村さんだったのでタムちゃん)。弟さんとは小学低学年ぐらいの時銀座のレストランで一緒にご飯食べた事ある。玖美子さんは現在NHKの『太田光のつぶやき英語』出演中


十八代目 中村 勘三郎のおかーさん。二代目 中村吉右衛門のおかーさん。

おとーさんが駐ハンガリー公使だったので帰国子女の、みど(本名塚原みどり)はチェリストで旦那さんは映画音楽でも活躍し朝日ジュニアオーケストラ((現在のジュニア・フィルハーモニック・オーケストラ)を作った塚原哲夫さん。妹さんはクラシックのピアニストの井上 二葉さんで現在93歳(確か現役ピアニスト)

日産自動車創業者の1人、山本惣治さんの娘さんの山ちゃん(田園調布駅ロータリーの上の方に住んでいたらしいが、山ちゃんは環八沿いにマンション建て一階に中華レストランがあった上に住んでいた)

日本のアンデルセンと言われた巖谷小波(日本児童文学の先駆者で金色夜叉のお宮寛一の寛一のモデル)の息子さんと結婚し長男がフランス文学者でシュルレアリスムの世界で有名な巖谷國士さん(うちではクンちゃんと呼んでいた)のおかーさんのヨシ(旧姓吉村)は、最近まで「守人君元気?」と家に電話かけてきたが、昔と声が変わってないのですぐ誰だか分かった。僕の記憶に間違いなければ、高輪にあった森村学園に土地貸していたと聞いた事ある。

娘さん(ナナちゃん)が聖路加国際病院名誉院長日野原重明の息子さんと結婚したヨっちゃん(環八沿いに住んでいたと思う)。亡くなる何年か前に家に電話がかかり、「イクタニです」と言われたので「あっヨッちゃん」と言ったら、すごく喜んでくれた。ヨっちゃんが亡くなった事はナナちゃんが電話で知らせてくれたが、ナナちゃんはおそらくお互いちっちゃな時にしか会ってないので記憶無い)

環八沿いには、もー1人住んでいた。旦那さん(とてもいい感じの人だった)がエクアドルやオーストラリアの大使だったミリコ。早死にしちゃったが長男はボーイ、次男はポーキー(太っていたから)、長女はジョイスと呼ばれていた。全員本名知らないが、ジョイスはアイルランド人と結婚してアイルランド在住。彼女とは今でも連絡取れるが、あとの2人もヨーロッパ在住だと思う。小学生の頃、ミリコが運転するでかいアメ車で久ヶ原の家に遊びに来たし、僕も田園調布の家に遊びに行ってる。近所に昔、清水ミチコさんがバイトしていた「pate屋」さんがあり、今の奥様(東洋英和出身)のおかーさんとミリコは仲良かったと母親に聞いていたので以前「pate屋」さん行った時、今の奥様にその事話したら覚えていますとの事だった。

目黒区三田に住んでいた岩立エミさん(漢字不明)の祖先はペリーと一緒に日本に来た人だと聞いた事がある。お墓は横浜山手にある横浜外国人墓地にあるらしい。エミのご主人、岩立 一郎(イワダテ イチロウ)さんはジャーナリストで日本テレビ放送網報道局顧問となり「NNNワイドニュース」キャスターを務めた事があり父親とも仲良かった。カッコいい紳士だったのを覚えている。三田のマンションは坂の上にあり見晴らしがよかったなー!。

 

 今思い出すのはこれくらいかな?。
あと横浜引っ越してきて、石川町駅そばにある外交官の家(国の重要文化財で渋谷区南平台から移築)に行った事、母親に話したら、「あれは英和の時のお友達の家よ」と言われ仰天。
母親の実家も渋谷区永住町(現広尾)だったので、遊びに行ってた事でしょ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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子供の時、父親の会社に一緒に行った事がある。

2023-02-16 | コラム

小学生低学年の時、父親の友達だった森繁久彌さんが日本テレビの番組に出演(おそらく父親が出演依頼したものだと思う)するので一緒に行った事があるが当時、親が自分の勤めている会社に子供を連れて行くなんて珍しかったんじゃないかな。

この時、部屋で森繁さんに「趣味は何かな?」と聞かれ「何でも趣味です」と言ったら会話終了してしまったが、今考えてみても間違った答えでは無かったように思われる。

日本テレビのすぐそばにあった寿司屋にもよく食べに行ったので結構何度も行っているのかもしれない。

当時まだテレビ塔もあった。永六輔さんが日本テレビの下に家があったみたいな事をラジオで言っていたけど、それは覚えない。

父親がクレージーキャッツの犬塚弘さんは感じがいい人だったよみたいな事を言っていたのを覚えている。

父親は芸能ではなく報道局だったが当時は局員も少なく、人気番組「光子の窓」のプロデューサ、井原(高忠)さんや「11pm」のプロデューサー後藤(達彦)さんの名前などは家でも聞いた事がある。

松崎 真さんと言う、後に笑点で座布団運び役で話題になった俳優さんと仲良かったみたいで、どこかの駅で父親を見かけ「磯田局長ー」と大きな声で呼ばれた事を楽しそうに話していたのを覚えている。

とにかく友達が多い人で、いろんな会社の社長などとも交流あったらしい。

この性格を僕はまったく受け継いでいなかったので、どっちかと言うと1人でいる方が好きだったが、横浜引っ越してきてから性格変わったみたいで人と会うのが苦手では無くなったかも。

なんて事を思い出している今日この頃。

(写真は父親のお通夜に久ヶ原の家に来てくれた森繁久彌さん。葬式は日本テレビの社葬だったので写真も日本テレビの人が撮ってくれたので色々残っている)

 

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父親の事を書いた文章が。

2020-03-10 | コラム
父親の事を書いた文章(追悼録)ネットで見つけた。
父親が毎日新聞の宇都宮支局時代(そんな所にいたのも知らなかった)大スクープをしたなんてこの文章読むまで知らなかった。どんなスクープだったのだろーか。
 
僕が知ってる父親のスクープは朝鮮動乱の時、いち早く毎日新聞が号外出した事。
何年か前、日本大通りにある「新聞博物館」で朝鮮動乱の企画展があり、そこの入り口に展示されていた号外をコピーしていただいた。
 
写真の号外は横浜引っ越してくる前から探していた物で、東京大田区に住んでいたら、この企画展の事も知らず出会えなかったと思う。
本は追悼録に出てくるベストセラーになった現物と復刻版。
 
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今だったら写真映像撮って公開する。

2017-06-05 | コラム
このブログで確認したが、おそらく10年前の昨日、大田区久が原から横浜に引っ越して来た。
当時、何ヶ月前から、めちゃくちゃ慌ただしかった。
引っ越す場所を探しに東横線沿線新丸子から妙蓮寺まで歩き回った。

長男夫婦は自分たちの引っ越し場所が決まると、親の引っ越しの手伝いも、引っ越し場所探しも手伝わず、挨拶も無く、いつのまにかいなくなっていた。
誰のせいで、親兄弟も引っ越しするはめになったのでしょーか?。
親兄弟を巻き込んでも平気な顔していたのはどこの誰でしょーか?。

残されたこっちは後片付けで大変。
長男の知り合いの解体屋さんが、物を取りに来たが、長男の家見て
「この家解体するの?。まだ新しいじゃないですか」
と驚いていたのを思い出す。
冷蔵庫の電源は付けっ放し、まだ使えそうな洗濯機も放置。
文庫本も数冊置きっ放し。
まるで夜逃げ?。
今だったら、すべて写真映像撮って公開するんだけどな。




 
 
 




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北欧好きはvolvoから始まった。

2017-04-18 | コラム
         (写真は僕が持ってる北欧関係本)
ホンダCR-X→ホンダ インテグラ→VOLVO240ワゴン→VOLOV940エステート
僕が乗ってた車はこれだけ。

CR-X買った年、この車でホンダ初めてカーオブザイヤー獲得!。
当時のキャッチコピーは
CR-Xに乗ったら、友達が恋人になった』

2年乗ってインテグラに変更。

インテグラ2年乗ってVOLVO240ワゴン。(VOLVOは他のメーカーに比べてローンの金利が安かった!)

当時VOLVOは人気なく売れてなかったので、道路に面したカフェなどで待ち合わせしても僕が来たのが、すぐ分かり便利だった。(路上駐車してたら、「おっVOLVOだ!」と通りすがりの人に言われた事もある)

その後、VOLVO人気車の仲間入り。
あっちこっちで見るよーになった。

一番愛着あったのはvolvo240ワゴン
当時、レースの仕事で鈴鹿や菅生(仙台)などのサーキットに車で行っていたが240だとスピード出ないので2年乗り740後継車の940が発売されたので買い替え。
ターボだったので早かった。

240に乗っている頃からvolvoを作っている国ってどんな国なんだろーとスウェーデンに興味持ち、VOLVOが送ってくる小冊子「VOLVOファミリー」読んだり、本屋でスウェーデン本(当時、政治か福祉の本しか売ってなかったが)探して読んでいた。

当時、周りにいる連中はスウェーデンなど、どこにある国かも知らなかった。
ある意味、未知の国だったが、デザインが注目されるようになって、たくさん北欧関係本(雑誌)が出版されるよーになった。

そーいえば、スウェーデンミュージックの先駆け(と言っていいかどーか分からんけれど)カーディガンズの初来日ライブのオフィシャルカメラマンをやった。
 

お客から「がんばれよー」と声かけられるぐらい下手だったけど(たぶんライブなんてやって事なかったバンドじゃないのかな?)

何年か後に来日した時も、オフィシャルカメラマンやったが、そん時はちゃんと演奏していた。

北欧話は切りがないので、これにて終了!。

 
 
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カメラマン、カメラがなければただの人!

2017-04-04 | コラム

昨日は『カメラマン、カメラがなければただの人!』実感。

撮ろうと思ったらNEX5T動かなく、あわててスマホで撮影。(topの写真。これが初めてのスマホ撮影)

次に目をつけたのは、坪さんのRX100。
それ貸してと奪い取り、撮影。
コンデジだからピンくるだろーとピント気にせず撮影。
画像保存に若干時間がかかる。

しかもフリーアングル液晶画面じゃなかった。(僕が推薦したデジカメなんですが)
ファインダーも無いけど、いつもノーファインダー的撮影しているので問題ない。(修理に出しているα6000はファインダーあるけど、NEX5Tは無い)

しかしフィルム時代は、カメラあんまり壊れなかったが、デジカメはすぐ壊れるなー。
なんかいい保険あったら入るか。

この前、ソニーからのメールで、年会費いくらか払うと修理代が割引になるとか来ていたが、ちゃんと読んでないので不明。
ソニーにプロ登録するには、持ってる機材が少なすぎるかな。(フィルム時代はCANONにプロ登録していた)

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なかなか着手できない。

2017-03-30 | コラム

肩書きなんてなんでもいいと思っているので、今持ってる名刺はfreelanceとしか書いてない。

メールアドレス変更したので、新しい名刺作らないと思っているけどなかなか着手できない。(MACで自分でデザインして作る)

肩書きにphotographerと明記していいもんか。(以前は書いていたが)

29歳(たぶん)の時、突然カメラマンになると宣言しカメラマンになったが、肩書きにカメラマンと書けなかった。

こんなレベルでカメラマンなんて、みっともなくって書けない。

おそらく何年かしてから肩書きにカメラマンと書いた名刺作ったと思う。(当時、渋谷のおしゃれな名刺屋で自分でデザイン指定し作ってもらったら、その後、僕の名刺がサンプルとして飾ってあったよと、知り合いが教えてくれた)

オートフォーカスレンズが出始めどんどん進化。

この頃からカメラ(機械)に興味なくなった。

そしてデジカメ出現。

シャッターのタイムラグあり、こんなの使えない。

半年ごとに新しいデジカメ出現。

買った途端に、もっといいカメラが出てくる。

この世界、キリない。

買ったら壊れるまで大事に使う性格。

なかなか買う気にならなかった。

最初、もらったコンデジ使っていたけど、壊れたので、ついにソニーのコンデジ買った。

これも壊れ、ミラーレス一眼nex5tに変更。

ソニーのミラーレスカメラ発売された時、トキめいた。

しかしヨドバシで見た時、液晶が小さすぎるので、がっかり。

常に持ち歩きたいので、重いカメラに興味無い。

最近読んだ、森山大道さんの本に、コンビニ行く時もコンパクトカメラ持って行くと書いてあった。

重たそーで高そーなデジカメ一眼持ち歩いているアマチュアだと思われる人たち、大変そーだなと思っていたら、森山さんも同じよーな事書いていた。

撮る被写体に寄っては、高性能ででかいカメラが必要かもしれないが、僕のように、ある意味、隠し撮り的撮り方。相手に気づかれないよーに撮るカメラは小型軽量ミラーレスが一番向いてる。

でかいカメラで構えて撮ったら、相手が緊張しちゃうじゃん。(これも森山大道さんが同じ事書いていた)

nex5t標準装備のレンズが1年と1ヶ月で壊れ、修理しても新品と同じぐらい料金かかると言うので、ヨドバシ、ソニー派遣の店員Iさんに相談したら、破格の値段でα6000買えた。

小型軽量高性能のミラーレスカメラの出現で、再び写真撮る気分になったかも。

このカメラが、再び自分がphotographerだった事思い出させてくれたかも。

そんでもって初めの話に戻すと、とりあえず名刺は、気が向いたら作る。

以前使っていた名刺ソフトがだいぶ前に使えなくなったので、名刺ペーパー作っている会社のサイトにある無料テンプレート使用し作るが、毎回プリントする時、ずれるので、何度かテストしないと作れない。

なので面倒なのでなかなか着手できない。

 

 

 


 

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色々あるので不安。

2017-03-11 | コラム

昨日、大船からの帰り、ここだと思ったホームにいたけど電車がやってこない。(発車時刻はスマホで検索)

かなり経ってホーム間違えたのに気がつき東海道線ホームへ。

来た列車、「普通」と書いてあるので各駅だと思ったが時間は合っているので発車寸前乗り込む。

次の駅が「戸塚」だと分かりホッとした。

電車が何種類もやってくる駅が苦手。(横浜駅は慣れたけど)
そーゆー駅を東京時代、ほとんど使っていなかったので。

普通、快速、特別快速、急行、特急、色々あるので、ちゃんと目的地に停まるか不安。
だから自転車が一番楽かも。
すぐ引き返せるので。

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日記は1966年から1974年まで書いていたらしい。

2017-01-11 | コラム
人が言った言葉や、やった事など、忘れないうちにメモしておく事がある。(なんせ、身内に都合の悪い事は忘れた、覚えてないと言う人間がいるので)

記録魔というほどではないと思うが、日々の事を記録している。
何処寄り、何処行き、何処で何買った、誰と会ったとか。

読んだ本のタイトル、作者、出版社も専用の手帳に記録している。(昔は映
画館や試写会で観た映画のタイトル、監督、どこで見たなど記録していた)

昔は日記、今はブログや、プライベートな事は手帳に。

 

中学生時代に長男を『おにーちゃま』と呼んでいた事など忘れていたが、横浜に引っ越しする時、ぼんやり昔の日記を取り出し読んでいたら書いてあった。

1966年から1974年(69年から74年は一冊で三年書けるもの)までの日記が残っているが、偶然開けたページに、高校時代文化祭に行った女

子学院の事が書いてあった。

女の子たちが、自分たちのやってる展示に関して、説明しますと言ってきたけど、「いいです」と冷たく断った事。(オオバカもんです!)

女の子たちに、小さな声で「かっこいい」と言われた事など、この日の事、覚えている。

クラスメート達が夏休みに、伊豆の島で知り合った女子大生のおねーさん数名との合コンに誘われ行き、銀座の喫茶店で一番綺麗な、おねーさんと結構仲良く話していたのを覚えているが、会ったのはその時だけ。

高校時代まで、どっちかと言うと硬派だったので、女の子との付き合いは、こんな程度。

高校の近所の女子校の女の子が、僕のクラスメートに僕の名前を教えてくれと聞いてきたのも覚えているけど、今考えると、もったいな事したなーと、ちょー後悔。

よーするに、高校時代は、もったいない事した時代なのでありました。


 

 

 
 




 

 

 

 


 

 

 

 

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撮影の思い出。

2016-12-31 | コラム
古舘伊知郎さんに初めてお会いした時、最初に言われたのは
「前にお会いした事ありますよね?」
僕は初対面だったが、長男と古館さんは同じ高校。(勿論年齢は違う)
後で確かめたら、長男は古館さんに会った事があると言っていたので、顔が似ていたのかもしれない。
撮影の時、
「古館さん、目が怖い!」と言ったら、優しい目に変わった。

その後、どこかのサーキットのピットレーンで古館さんとすれ違った時、挨拶された。

人の顔をきちんを覚えられる人なんだね、古館さんは。
 
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Wさんはミエハルくん(仮名)のお友達だった。

2016-12-15 | コラム

横浜来て不思議な出会いが何回もあるけど、最初のそれは、

僕が2008年横浜中央卸売市場でインターネットテレビ局YCMB(やんちゃで

C調真面目にバカやる放送局)をやっていた時、取材でやってきたWさんに、

『磯田さんて、もしかしたらCBSソニーにいた磯田さんの弟さん?』

「えっ!」

『昔、仲よかったんだ。おにーさんに会いたいなー』

と懐かしそーに言われ、

 

「やめといた方がいいですよ。会っても誰だか分かりませんから」


Wさんの存在は前から知っていた。

初めてお見かけしたのは、日本大通りにあったZAIMのホールでイベントが

あり、壇上に数名上がっていた1人がWさん。

話が面白かったので、家に帰って名前ネットで検索したほど。

そのイベントの後、ドンキの隣のイタリアレストランで懇談会があり、そこに行く途中、山下公園の前の通りで、時々デジカメ一眼で写真を撮っていたので、

「いい写真撮れましたか?」と聞いたら、

「カメラがいい写真撮ってくれるから!」と笑っていた。

これが初めての会話。

その後、イベントで一緒になったりしたけど、話した事なかった。

その後、Wさんの根岸公園前にある高級マンションには何度か遊びに行ったし、一緒に飲みに

行ったりしていたけど、時々、

「おにーさんに会いたいなー」と言うので、

ある日、WさんのマンションでFB見せ、

「誰だか分かります?」

『誰だ、これ』

と言って、向こうに行きかけ、再びmacbookの画面を見つめて一言。

『老けたなー』

その時は怒り爆発せず冷静に何をしでかしたかなど色々事実を話したが、Wさんは黙って聞いていた。

それ以後、会いたいなんて言わなくなったので、こちとらよかった。

横浜引っ越してきて仲良くしている人達に迷惑かかると困るんでね。

 

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両方の割引でゲット!。

2016-08-21 | コラム
昨日、家出て右に行くつもりが気が付いたら左に向かっていた。
左に行きなさいと神様からの助言かな?。

西口にあるダイエーで昨日のみ財布10%offで売っているのは知っていたが、どーせ気に入ったの無いと思い、行かないつもりだったが、もしかしたらと思ってダイエーに。

そしたら、カラフル財布ミッケ。

10%offだったがwaonカードの5%off日でもあったので、両方の割引でゲット。(ラッキー!)

今まで色が地味な財布しか持った事なかったが、この前、坪さんがタンザニアで買ってきた財布がカラフルで、なかなか良かったので少し派手なの探していた。
 
財布買って、明日(って今日)図書館に予約した本取りに行くの、面倒なので、そのまま東神奈川まで歩く。
約30分で到着。

久しぶりに長距離歩いたかもね。

 

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「それくれ!」と奪ったんだけどね。

2016-07-30 | コラム
朝、横浜中央卸売市場行き、榎本でマグロのサシミ、元熊で、たかべ2匹買い坪倉事務所へ。

坪倉ママから「坪さん魚買いに行っている」と情報得たので坪さん捜索。

どーせ、そこらへんにいるだろーと電話したが出ないので市場ブラブラしていると、市場の人に挨拶されたが、誰だろ〜?。(話した事なくても、土曜は毎週市場に行っているので、こっちの顔は知られているかも)

仲卸の店で、油売ってる坪さんミッケ。
「角太」で買ったマグロやら何種類か魚を入れたビニール袋を下げている。(角太のタケくんは角太の社長の息子だと初めて知った)

あいかわらずオラに会うたび、ブレスレットを指差し、
「それいいね」
 
坪さん、タンザニア土産をくれなかったので腕にしていた、made in tanzaniaのブレスレットを
 
「それくれ!」と奪ったんだけどね。
 
すんなりくれたが、本当はこれが一番気に入っていたみたい。
でも返さないよーだ!。
 
料理教室の事やら、あーだこーだと話した後、解散。
しかし、今回市場で一度もシャッター押さなかったのは、眠かったのと暑さのせいだな!。

とにかく暑いのちょー苦手。
一度帰宅したら、外に出たくない。


 
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今日の夢。

2016-06-09 | コラム

なぜか三木武夫元総理の孫、三木立(ミキタツ)が夢に現れた。

ミキタツに何か起こったのかと心配になりネット検索したけど大丈夫。

彼との出会いは阿部知子さん(現衆議院議員)が始めて選挙に出た時、開票速報を銀座の会場で関係者と見ていたら、突然目の前に現れ話しかけてきた。

何を話したか覚えてないけど屈託のない好青年だったので、代々木公園で花火大会一緒にやったり、三木立主催のパーティにも出かけて行った。

その後、一度だけ選挙に出た。

三木武夫さんの地元からではなく彼の地元東京から出て落選。

今は藍染めの作家になったらしい。

彼の事が書いてある記事ミッケた。

懐かしい。

(写真がネットに公開してあったので掲載。僕はタツの写真を撮ってないと思う) 



 

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