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「この世界には私が撮らなければ誰も見たことがないものがあるのだと信じています」by ダイアン・アーバス。   

曾祖父さんの話から父親まで。

2023-01-26 | MUSIC・MOVIE・BOOK・ART

音楽本、アート本、写真家本、歴史本、脳関係本、小説など何冊か同時に読んでいるが、この本が一番重い。
曾祖父小山松吉が司法大臣になる前、検事だった時期に担当した「大逆事件」(1910年, 明治天皇暗殺を計画したという口実で幸徳秋水 らの社会主義者が 処罰された事件 )

読み方「たいぎゃく」なのか「だいぎゃく」なのか知らないぐらいなんも知らなかったが、だいぶ前に買ったこの本よーやく読み始めた。

幇助犯の幸徳秋水についてはこれを担当していないとウィキペディアには書いてあるが無実の人がたくさん死刑になってる。

偶然だけど解説を法政大学総長の田中優子さんが書いているが、曾祖父さんも司法大臣辞めた後、法政の総長やってる。

おそらく読み終わるのに時間かかると思うが、以前、佐野眞一さん著の「巨怪伝 正力松太郎と影武者たちの一世紀」(上)を読み終わるのにも、かなり時間がかかった(「下」はまだ読んで無い)が、これは父親(磯田勇)が毎日新聞社会部記者から日本テレビ開局と同時に転職し、報道局長、編成局長など経て常務になったが、毎日新聞から読売系の日本テレビの社員になり取締役になれたのは正力さんに可愛がられたからと母親が言っていたのが気になったので。

正力さんは、かなり強引なところがある人だったよーだが、うちの父親は猛烈社員と言う感じの人では無く、優しい人だったが激務だったせいか心臓痛め常にニトログリセリンを持ち歩いていた。

医者が心臓に関してもう大丈夫だと言うので友達と静岡県に釣りに行き、旅館に帰って来た途端、庭で倒れたと友達(仲良かった西岸良平(3丁目の夕日の原作者)さんのお父さんだったかな?)から聞いた。

最後の言葉は「だいじょうぶ」

僕はこんな事があったので、ずーっと医者を信用しなかった。

当時、日本テレビの相談役だったと思うが、生きていれば、一番の部下だったドキュメンタリー映像作家の牛山純一さんの会社「日本映像記録センター」の会長だったか顧問になるはずだった。

僕が父親の姿を最後に見たのは、釣りに行く時、迎いに来たタクシーの後部座席に座った父親の後ろ姿。

葬式は日本テレビの社葬だったので家族は何もしなかった。

父親が亡くなる少し前、母親に葬式は立教のチャペルでやりたいと言っていた。

なんとなく予期していたのかも。

大学は早稲田だが(その頃からの友達は森繁久彌さんや韓国のサムスン創業者の李秉喆さん)中学は立教だった。

誰が手配してくれたのか分からないが、立教のチャペルで葬式出来たのは父親が洗礼を受けていたからだが、これに関して母親も知らなかった。(クリスチャンネーム マルコ)

自宅でのお通夜及び立教チャペルでの葬式写真も日本テレビの人が撮ってくれアルバムにしてくれた。(お通夜には森繁さんが、葬式には大島渚監督がいらしてくれた)

お通夜の時、家の前を通行止めにしたのは知っていたが、この写真見るまでどーゆー状況かは知らなかった。(左に見える三角の屋根が久ヶ原の自宅の玄関)

僕が父親から毎日新聞時代に出した朝鮮動乱の号外の話など聞いたのも、たぶん亡くなる少し前だと思う。

実は、この号外を昔から探していたが、なんと横浜日本大通りにある新聞博物館で何年か前に朝鮮動乱展があり、展示室入り口入った所に展示してあった。事情を説明したら博物館がコピーしてくれ送ってくれた。非常に貴重な号外だとメールに書いてあったが、向こうも号外出した時の話をメールで送ったのでびっくりしたと思う。

これも横浜引っ越してなかったら出会えなかったものだと思う。不思議な縁を感じる。

 

 

曾祖父さんの話より父親の話の方が長くなってしまったが、父親が亡くなって51年。

父親は多分自分が死んでいると思って無いんじゃないかと思うのは、横浜引っ越して来る時、奇跡が起こったから。

詳しい事は書かないが、これは父親が僕と母親を守ってくれたからだと思う。

パパに感謝!。

 

 

 

 

 

 



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