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王朝の簒奪(さんだつ)者-王莽

2006-01-25 21:47:03 | 十八史略を読む Ⅲ
十八史略を読む Ⅲ-1 王朝の簒奪(さんだつ)者-王莽(おうもう)

「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」から

高祖劉邦によって創設された漢王朝は、のちに魏王朝にとって代わられるまで、ほぼ400年間存続する。この大帝国は前漢と後漢とにとに分けられる。なぜかと言えば、その半ばほぼ200年を過ぎたところで、一時、国号を新と称する王朝が存在したからである。この、王朝の期間は僅か15年であったが、その創始者が王莽である。

彼はドラスティックな政治理論にもとづいて、理想的な政治支配をもくろんだ、狂信的な政治家であった。外戚の一員として、「平帝」の時代に儒教イデオロギーによる一大改革を行いその功あって、諸侯王よりも上位のランクに位置づけられる宰衡の称号を得た。彼の制定した礼制、官制、学制などの諸制度はのちの中国王朝に受け継がれたと評価されている。

こうして権勢を得た王莽は、その後次第に「自分が皇帝になるべきだ」という妄想を抱くに至った。当時、陰陽五行思想に基づく、讖緯説(しんいせつ:天文、暦数などにより未来を予言する説)が広く信じられていたが、彼はこの説を儒教イデオロギーに取り入れた。

「地上の主宰者である皇帝権を神秘化し、漢王朝は滅亡し、新しい王朝が出現するであろう」と予言したのである。その巧妙な手口に引っかかって、48万人が王莽の徳業を褒め称える上書を行った。彼の皇帝即位は当然のことと受け入れられた。

王莽の評判は王朝の簒奪者として、また、儒教イデオロギーや讖緯説を作為的に利用した人物として、後世の王莽に対する評価は極めて良くない。






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