十八史略を読む-39 戦国の七雄-2
趙 その1 忠臣に救われた孤児
「十八史略:徳間書店発行、丸山松幸、西野広祥編訳、1987年7月九刷」から
趙の祖先は、もと秦と同じ贏(えい)姓であり、蜚廉(ひれん)がその始祖である。蜚廉の子が季勝(きしょう)で、季勝の子孫に造父(ぞうふ)というものがいた。造父は周の穆王(ぼくおう)に仕えて功績をあげたので、趙城の地に封ぜられた。この地名にちなんで趙氏を名乗るようになった。
春秋の時代になって、その子孫に晋に仕えた趙夙(ちょうしゅく)がおり、その子が成子衰(せいしし)、成子衰の子が宣子盾(せいしとん)である。宣子盾の子である趙朔(ちょうさく)は大夫の屠岸賈(とがんか)の手によって皆殺しされたが、このとき身ごもっていた趙朔の妻は生き残った。やがて生まれた子が武(ぶ)である。
屠岸賈はこの武をも殺そうとして探し求めたがなかなか発見できない。
さて、趙朔の食客に程嬰(ていえい)と公孫杵臼(こうそんしょきゅう)という者があった。二人はなんとか武の命を守ろうと相談した。公孫杵臼が「今後この孤児を守り育てるのと、今命を捨てるのと、どちらが難しいだろうか?」程嬰は「それは育てる方が難しいだろう。命を捨てるのは簡単だ」と答えた。
「では難しい方を貴公がやってくれと」公孫杵臼は言い、どこからか他の嬰児をもらってきて、趙朔の孤児と見せかけ、これを抱いて山中に隠れた。程嬰は打ち合わせてあったとおり、屠岸賈の前に出ていって、「沢山の賞金を出してもらえるならば、武の場所を教えよう」と言った。
屠岸賈は大喜びで早速、程嬰に兵を付けて案内させ、公孫杵臼と嬰児を殺した。このようにして趙朔の本当の孤児は殺されなくて済んだ。
その後、程嬰は、成長した武とともに、屠岸賈を討ち、趙の主家再興に成功した。程嬰地震は、これで自分の役は終わったとして自殺し、地下に眠っている趙朔と公孫杵臼に結果を報告した。
コメント:詳しくは知りませんが、これと同じような話が浄瑠璃の「菅原伝授手習鏡」にあるようです。
趙 その1 忠臣に救われた孤児
「十八史略:徳間書店発行、丸山松幸、西野広祥編訳、1987年7月九刷」から
趙の祖先は、もと秦と同じ贏(えい)姓であり、蜚廉(ひれん)がその始祖である。蜚廉の子が季勝(きしょう)で、季勝の子孫に造父(ぞうふ)というものがいた。造父は周の穆王(ぼくおう)に仕えて功績をあげたので、趙城の地に封ぜられた。この地名にちなんで趙氏を名乗るようになった。
春秋の時代になって、その子孫に晋に仕えた趙夙(ちょうしゅく)がおり、その子が成子衰(せいしし)、成子衰の子が宣子盾(せいしとん)である。宣子盾の子である趙朔(ちょうさく)は大夫の屠岸賈(とがんか)の手によって皆殺しされたが、このとき身ごもっていた趙朔の妻は生き残った。やがて生まれた子が武(ぶ)である。
屠岸賈はこの武をも殺そうとして探し求めたがなかなか発見できない。
さて、趙朔の食客に程嬰(ていえい)と公孫杵臼(こうそんしょきゅう)という者があった。二人はなんとか武の命を守ろうと相談した。公孫杵臼が「今後この孤児を守り育てるのと、今命を捨てるのと、どちらが難しいだろうか?」程嬰は「それは育てる方が難しいだろう。命を捨てるのは簡単だ」と答えた。
「では難しい方を貴公がやってくれと」公孫杵臼は言い、どこからか他の嬰児をもらってきて、趙朔の孤児と見せかけ、これを抱いて山中に隠れた。程嬰は打ち合わせてあったとおり、屠岸賈の前に出ていって、「沢山の賞金を出してもらえるならば、武の場所を教えよう」と言った。
屠岸賈は大喜びで早速、程嬰に兵を付けて案内させ、公孫杵臼と嬰児を殺した。このようにして趙朔の本当の孤児は殺されなくて済んだ。
その後、程嬰は、成長した武とともに、屠岸賈を討ち、趙の主家再興に成功した。程嬰地震は、これで自分の役は終わったとして自殺し、地下に眠っている趙朔と公孫杵臼に結果を報告した。
コメント:詳しくは知りませんが、これと同じような話が浄瑠璃の「菅原伝授手習鏡」にあるようです。