雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

哀しい方の人生   第三回

2009-12-29 16:22:21 | 哀しい方の人生

石川は、一瞬心の奥をよぎった疑惑のようなものを振り払うように、敦子に詫びる必要などないことを繰り返し繰り返し訴えた。

石川の熱心な言葉を聞きいれたのかどうか分からなかったが、ようやく立ち上がった敦子は板間の部屋の方へ行った。そして、現金に白い封筒を添えて持ってきて、改めて深々と頭を下げた。
食卓に置かれた現金は、きっちり四千六百八十円だった。


「すみませんでした。すぐにご連絡すべきだったのですが・・・、つい、そのまま・・・。本当に、、ごめんなさい・・・」
敦子は、視線を落したままつぶやくように繰り返した。


「小林さん、ありがとうございました。確かに四千六百八十円いただきました。私たちの不手際のため、大変ご迷惑をかけてしまいました。申し訳ありませんでした」
石川は敦子のつぶやくような言葉を無視するように、一方的に銀行側の落ち度を詫びて、持参した菓子折を食卓の上に置いた。


「困ります・・・。わたしが悪いことをしてしまったのに、いただくわけにはいきません」
「そんなことありませんよ。ミスしたのは私どもの方ですから、小林さんに落ち度はありませんよ。どうぞ、この件は、これでお互いにおしまいということにさせて下さい・・・。
それから、このお菓子は駅前のお店のものですが、あそこのモナカ、なかなか評判が良いようですよ。お詫びのしるしにお受け取り下さい」


「いえ、わたしが悪いことをしたのですから、とてもいただけません・・・。このことを、許していただけるだけでありがたいのです・・・。わたしは、いま警察に捕まるわけにいかないんです・・・」


この敦子の言葉に、石川は愕然とした。敦子は、そのようなことを考えていたのである。
石川は、再び敦子に罪がないことを何度も繰り返した。


人間はミスするものだという考え方は、仕事場での石川の持論だった。プロといえどもミスの発生を完全に防ぐことはできない、ということを確信していた。その上で、如何にミスを防ぎ、発生したミスにどう対処するかが重要だと考えていた。
しかし、不用意なミスが、全く関係のない人を罪人にしてしまうことがあることも事実なのだ。


何度か同じような言葉が交わされた結果、「それでは、一緒に食べましょう」ということになった。
石川が持参した菓子折りを開き、敦子はお茶を入れ替えた。


開かれた菓子折は、二種類のモナカがセットされているもので、それほど高級なものではないが地元では有名な老舗のものだった。
敦子は、開けられた菓子折を前にしてもなお躊躇していたが、石川が手に取るのを見てようやくモナカを手にした。
部屋の隅に寝かされている赤ん坊は、大人たちのやりとりとは別世界に居るように規則正しい寝息をたてていた。


「男の子ですか?」
「そうなんです・・・。あの子の靴が欲しくって…。すみませんでした・・・」


話題がまた現金授受のことに戻ろうとしていた。避けなくてはならないと、石川は慌てた。


「もう、歩くんですか?」
「いえ、まだなんです。いま十ヶ月なんです」


「じゃあ、もうすぐですね。かわいい盛りですね」
「ええ・・・。でも、わたしが何もしてやれないものだから・・・」


「そんなことはいでしょう。とっても、お元気そうじゃないですか」
「ええ、その点はありがたいのですが・・・」


重苦しい会話だった。
面識の浅い人とは、子供のことを話題にするくらい無難なことはないのだが、とても和やかなどという雰囲気ではなかった。
その重い空気を押し退けるように、敦子が小さな声で語りかけてきた。


「このお菓子、もう一ついただいてもいいでしょうか? あの子に食べさせてやりたいので・・・」
「もちろんですよ。このモナカ、結構いけるでしょう?」


「とっても美味しいです」
「そうでしょう。小林さんも、もっと食べて下さいよ。でも、正直申しますと、私は甘いのはあまり得意ではないので、この一つがちょうど適量です。残りは、どうぞ後で食べて下さい」


「でも・・・」
「いえ、わたしはどちらかといえばお酒の方ですので・・・」


「そうですか・・・。では、遠慮なく頂戴します・・・」


石川は、子供のためにモナカが一つ欲しいと、恥ずかしさに耐えるようにして申しでた敦子の気持ちを考えると、胸が詰まった。

石川は、長居を詫びて立ち上がった。
この時は、一刻も早くその場から立ち去りたい思いだったので、このあと行き来することになるなど考えてもいなかった。


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