雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

哀しい方の人生   第一回

2009-12-29 16:23:51 | 哀しい方の人生

          『 哀しい方の人生 』


愛も哀も、切なく重い。
しかし愛は、その対価でもあるかのように多くの人に勇気を与えてくれる。
哀もまた、その試練を乗り越える道筋を用意してくれているのかもしれない。


          ( 1 )


石川が小林敦子を知ったのは、昭和も終わりに近い頃のことである。
後年、バブルの時代と呼ばれるようになるが、まるで熱病に侵されたかのように煮えたぎった経済が、ピークを打とうとしていた。


当時、石川はA銀行に勤務していて、大阪市内の北部にある支店に配属されていた。
いわゆる中間管理職という立場にあり、主に窓口業務を担当していた。


ちょうど自動支払機や預入機が実用化され始めた頃で、窓口業務にも機械による事務処理体制が進められていた。
しかし、現金の取り扱いはまだ手作業が主体で、閉店後も勘定を合わせるまでは緊張が続くのである。
窓口を担当する社員には、応対やセールスなど幅広い業務が要求されるが、やはり現金の取り扱いが正確なことが一番重要なのだ。


窓口業務の主な戦力は女性社員だが、全員がベテラン社員というわけにはいかず、入社して一年にもならない経験の浅い社員もいた。
高校を卒業して入社してくる社員の場合などには、成人にも達していない若い女性社員が一日に百件を超える現金の取り扱いを一人でするのである。

何百万円という高額な取り扱いは別の部署の社員とチェックし合うようになっていたが、大半が単独での処理である。それも、常に時間に追われている状態での取り扱いで、プロとはいえメンバー全員がすっきりと勘定を合わせることはそれほど簡単なことではない。
自分の懐のお金を数えるように、大体合えば良いというわけではないからである。


その日も、緊張する時間帯を迎えていた。
七人の窓口担当者が次々勘定を合わせていったが、一人の女性社員が「合いません」と担当上司である石川に報告してきた。四千六百八十円、現金が不足しているという報告であった。
ここからが石川の出番となる。


機械の導入やシステムの工夫がなされていたが、いくら経験を積んでも現金の違算を皆無にすることは難しい。単なる計算相違や混入などの場合もあるが、顧客との授受を間違えることも起こる。


勘定不突合が発生した場合のトレース方法はノウハウが出来上がっていて、石川はすでに勘定突合を終えた社員と共にトレースに入った。
ただ、この日の合わない金額は桁を間違えて取り扱った可能性がある額で、最初にその可能性のある取引を調べるのは、数字を取り扱っている者にとってはごく初歩的な常識である。


この日も原因を見つけだすまでに大した時間は必要なかった。
十五万五百二十円の請求に対して、十五万五千二百円の現金を支払っていたのである。
そして、この間違えて支払った顧客が、小林敦子だった。


   **


石川は自転車で小林敦子の届けられている住所に向かった。
電話が届けられていないので在宅の確認ができていなかったが、できるだけ早く訪問することが大切だった。時間が経過するほど問題の解決を複雑にする場合があるからだ。
届けられている住所までは二キロ程の距離があるが、道路事情などを考えれば車より自転車の方が便利だと判断したのである。

途中で手土産の菓子を買い、自転車を進めながら、顧客との交渉の手順を頭の中で整理していた。
決して楽しい仕事ではないが、現金を取り扱っている以上避けられないことであるし、石川はこの種の交渉ごとは苦手ではなかった。


今回のことはこちらの一方的なミスなので、交渉することなど何もなく、ひたすら間違いを詫びて過剰に支払った現金を円満に返してもらうだけのことである。大切なことは、顧客に不愉快な思いをさせないことなのだ。
支払われた現金がそのまま保管されていると、交渉は簡単なことで、トラブルになることなどまず考えられない。ただ、一部でも使ったり、手持ちの現金と一緒にしてしまっている場合には、若干の交渉が必要になる。


いずれにしても、たいして大きくない金額なので気が楽なのだが、交渉の拙さや、相手の人柄によっては、小さなミスが大きなトラブルに発展してしまうことも珍しいことではない。
今回のミスも本質的には単純なものだが、気になる部分もあった。


その一つは、届けられている住所のことである。その地番の一画は、三十年以上前に建てられた古い小規模なアパートが密集していて、入れ替わりが激しく入居している人も昼間は不在が多い。
以前にも、今回と同じような単純なミスで、交渉相手となかなか連絡が取れず思わぬトラブルに発展したことがあったからである。


もう一つの気がかりは取引内容である。
このような交渉には、事前に顧客の情報をできるだけ正確に掴んでおくことが大切なので、今回も取引内容や来店した顧客について確認していた。


顧客との取引は普通預金の口座だけで、開設からの日が浅く、支払ったあとの残高は七円だった。以前の取引も、ある役所からの振り込みがあると、その日のうちに十円単位まで引き出されていた。
一つの口座の取引内容だけで推察するのは乱暴ではあるが、決して豊かな生活を想像することはできず、むしろ、あまり余裕のない生活と推察された。


相手の貧富で交渉方法が変わるわけではないが、石川の気持ちを重くしていることは確かだった。


   **


  


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