雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

哀しい方の人生   第七回

2009-12-29 16:19:24 | 哀しい方の人生

        ( 3 )


小林敦子は両親の顔を知らなかった。
母は敦子が一歳の誕生を迎える直前に亡くなっていた。祖母からは、心臓の病気で急死したと聞かされていた。
父はまだ生存していると思われるが、一度も会ったことがなかった。音信はもちろんのこと、父の名前さえ教えられないままである。


母と父は、一年ばかり一緒に生活したようだが、敦子が誕生する前に別れていた。入籍はされておらず、敦子の戸籍に父親の名前はなかった。
父については、母と同じように早くに亡くなったのだと教えられてきていたが、敦子が中学生になった時に祖父から本当のことを教えられた。


祖父は、敦子の父親は生きているかもしれないと教えてくれたが、その後の消息や名前さえ教えてくれなかった。それは、隠しているというより、本当に知らないようなのが中学生の敦子にさえ感じられた。


父のことについて祖父から聞かされても、敦子にそれほどの驚きはなかった。
敦子の生い立ちの中に父親という存在が希薄であることがその理由だったが、すでに大体のことを知っていたからである。具体的に誰かが教えてくれたわけではないが、複数の人の思わせ振りな話から、父に関する大体のことを早くから承知していた。


改めて祖父から父のことを聞かされても、驚きも感慨もなかったのはそのためである。同時に、父のことを祖父に聞きただしてはならないと、本能的に感じ取っていた。


敦子は、物心ついた頃にはすでに祖父母に育てられていた。母の両親に引き取られていたのである。
父や母がある程度記憶に残る状態で失ったのではなく、もともと敦子の中には、父も母も存在していなかったのである。母親もまた、敦子の生い立ちの中では希薄な存在であることに違いはなかった。


敦子の保護者は祖父であり祖母であった。友達の親に比べて自分の親が年寄りだと折々に感じられることもあったが、それによって特別な不都合はなく、不自由のない幼年期を過ごすことができていた。
しかし、敦子が小学三年の時に祖母が亡くなり、この時から周囲の同世代の子供とは違う生活が始まった。


祖母は敦子にとって母親そのものだったが、躾に厳しい人であった。炊事や掃除の手伝いは幼い頃からしていたし、買い物なども一人で行くことが多かった。機会あるごとに、一人で生きて行けるようにならないといけないと敦子に言い聞かせた。


そして、「おまえは、哀しい方の人生を歩く運命なのだから、他の人より強くならなくては駄目だ」と、口癖のように幼い敦子に話した。
祖母の言葉にどれほどの意味があるのか理解できなかったが、敦子は、辛抱強く滅多なことでは泣かない少女に育っていった。


祖母が亡くなってからは、家事のかなりの部分が敦子の仕事になった。さらに、祖父も敦子が中学一年の時に倒れ、二か月ほどの入院の後退院することができたが、体の自由を相当失った状態になった。


敦子の仕事に、家事の他に祖父の世話が加わった。
祖父の長男夫婦、敦子からいえば叔父夫婦になるが、彼ら一家はすぐ近くに住んでいて、祖父に関する手続きや難しいことなどをしてくれたが、家事や祖父の世話のほとんどが敦子の仕事となった。


生活に必要なお金は、祖父から毎週敦子が預かり、それで食事に必要なものや日用品などを買った。
学校関係の費用やまとまったお金が必要な時などは、祖父が不自由な体を動かして、ベッドの頭もとの棚から古ぼけた大きな財布を取り出して、お札と硬貨を丹念に数えて渡してくれた。
祖父の世話と家事が主な仕事で、その合間に中学校へ通っているようなものだったが、敦子にとっては充実した日々だった。


敦子が中学三年になり、卒業後の進路を決める頃に祖父は再び入院し、間もなくこの世を去った。
いくら体が不自由でも、祖父が自分を守ってくれる大きな存在だったことを敦子は強く感じた。それは、祖母を亡くした時より遥かに大きな衝撃であった。


とうとう一人ぽっちになってしまったと、中学三年生の敦子は誰に話すこともできず、一人思った。


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