雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

ラスト・テンイヤーズ   第十一回

2010-01-04 15:48:17 | ラスト・テンイヤーズ

   第二章  戦国武将たちの『ラスト・テンイヤーズ』 (5)


( 三 )


戦国時代の終わりを、江戸幕府の始まりとされる慶長八年、あるいは豊臣氏が滅亡した元和元年までと考えるならば、戦国時代という歴史ロマンの主人公は徳川家康ということになるでしょう。


「信長が切り開き、秀吉が仕上げた天下を、ひたすら待ち続けた家康が頂戴した」などという話を、子供の頃に聞いた記憶がありますが、覇権の移動がそれほど簡単なものでないことは、もちろんのことです。

これは、関西地方に特に強い傾向かもしれませんが、昭和の中頃までは秀吉に比べ家康の人気は極めて低かったように思われます。
その理由として考えられるのは、まず、滅びた者に対する同情があります。いわゆる判官贔屓といわれる現象です。
次には、おそらく明治維新以降の教育や情報が、徳川幕府を否定する方向に傾いていて、家康を悪役扱いにする傾向があったのではないでしょうか。


特に関西は、秀吉に対する親近感が強いこともあって、家康イコール狸親父というイメージを持っている人が多かったようで、この不世出の英雄は、長い間正当評価されていなかったように思われます。


***     ***     ***


徳川家康は、天文十一年 (1542) 十二月、三河国岡崎城主松平広忠の長男として誕生しました。幼名は竹千代、母は刈谷城主水野忠政の娘の於大の方であります。

応仁の乱から七十五年が過ぎ、各地の大名や豪族たちの抗争はいよいよ激しさを増していました。
この時、信長は九歳、秀吉は六歳、ともに青雲の志を抱くというにはまだ幼すぎる年齢でありました。


竹千代、後の家康は、波乱に満ちた七十五年を生きてゆくわけですが、その最初の試練は六歳の時のことでした。
人質として駿府に送られることになったからです。


この頃松平氏は、今川氏と織田氏の両方から圧力を受けていました。
そのような状況は松平氏に限らず、三河の豪族たちは一家の存続のために互いに連携したり敵対したりを繰り返し、時には今川氏を頼り、時には織田氏に服属したりと揺れ動いていました。
松平氏は今川側に属していましたが、竹千代の母の実家である水野氏が、忠政の子の信元の代になって織田方に通じたため、於大の方は離縁されています。竹千代がまだ三歳の時のことでした。


松平広忠は今川氏に忠誠の証として嫡男竹千代を人質に出すことになりましたが、送り届ける途中で奪われ、織田信秀のもとに送られてしまったのです。
信秀とは信長の父ですが、奪った竹千代を人質に織田に味方するように迫りましたが、広忠はきっぱりと拒絶し「人質を殺すも生かすも心のままになされよ」と、竹千代を見限ったのです。


しかし、なぜか信秀は竹千代に危害を加えず、生母との書信の便利を図ったりしているのです。当時の常識としては、このような状態になれば人質は殺されるのが当然なのですが、竹千代によほど利用価値があったのか、家康という人物の運の強さなるがゆえなのか、歴史の不思議としか思えないのです。


竹千代は、一年余りを織田の人質として過ごしますが、この間に少年信長と会っているともいわれ、また、阿古居城主久松家に再縁していた母於大の方の庇護を受けているのです。
後年、信長や久松との関係を考える時、家康にとってこの一年余りが貴重な期間のようにさえ見えてくるのです。


やがて人質交換が成立して、竹千代は岡崎に帰ることができますが、すぐに今川義元のもとに送られ、八歳から十九歳までの間を駿府の人質屋敷で過ごすことになるのです。
多感な年代を屈辱と忍耐を強いられる生活の中で、家康という大英傑は何を思い、どのように耐え忍んだのでしょうか。


家康はこの人質生活の中で、多くの節目を迎えています。
十五歳で元服し、義元の一字を賜って元信 (後に元康) と名乗ります。
十六歳で義元の娘婿にあたる関口親永の息女と結婚しました。この妻が後の築山殿であります。二人の間に一男一女が誕生しますが、長男が後の悲劇の武将信康なのです。


また、父広忠は竹千代が織田の人質とされているうちに家臣に殺されており、人質の身でありながら岡崎松平家の当主であり嫡男をもうけたという立場でもあったのです。


十七歳の時に初陣を果たします。
二年後の、永禄三年 (1560) 五月、義元に従って尾張に出陣しました。そして、この出陣で権勢を誇ってきた義元は信長の奇襲にあい討死という大事が起こりました。
この桶狭間の合戦は、信長の名前を天下に轟かせた合戦ですが、同時に、家康を歴史の表舞台に立たせることになる合戦でもあったのです。


家康は、御大将が討ち取られるという混乱の中で岡崎城に入りました。岡崎城は今川の管理下となっていましたが、義元討死の報が伝わると、今川から進駐していた武士たちは逸早く駿府に逃げ帰っていました。
家康は今川からの帰国命令を無視して岡崎城の防備を強化していき、やがて信長と同盟を結ぶことになります。


この時点での家康と信長との間には大きな力の差がありましたが、信長は家康攻略よりも同盟を選んだのです。
二人の同盟は、幾つかの難問が起きながらも信長が倒れるまで強固な関係が続くのです。


永禄六年七月、二十二歳の元信は名を家康と改めます。
松平から徳川に改姓するのは三年ほど後のことですが、この時の改名は今川の呪縛から離れる決意表明でもありました。


家康は三河の制圧に力を注ぎ、信長は西に向かい、京都を目指しました。
家康が三河を固め隣接する今川領の遠江に進出することは、信長が京都を目指す上でも役立つことでした。二人の英雄は、互いに後背を守り合いながらそれぞれの領地を広げていったのです。


姉川の合戦に代表されるように、浅井・朝倉との戦いでは徳川軍が援軍として駆け付け、家康の生涯で最も惨めな敗戦であったといわれる武田信玄との三方ヶ原の戦いでは、四方の敵と戦っていたこともあって十分といえないまでも信長も援軍を送っているのです。
そして後年、信玄亡きあとを受け継いだ武田勝頼率いる甲州騎馬軍団を打ち破ったのは、むしろ織田軍を主体とした連合軍でした。


上洛を果たし、東海、北陸、近畿一円をほぼ制圧した信長は、西国の雄毛利氏との対決に重点が移っておりました。家康も、三河、遠江、駿河を支配下に置き、武田の遺領の一部も手中に収めつつありました。


この頃の家康と信長の力の差はさらに広がっていましたが、互いに重要な同盟者として認めあっていたことに微塵の変化もありませんでした。
家康の嫡男信康と信長の息女徳姫との結婚は、両家の結びつきの固さを天下に示すものでしたが、意に反して信康を切腹させるという悲劇へと展開してしまいましたが、家康は、ひたすら信長に忠節を尽くし続けたのです。


信長の武威が及んでいない地域もまだまだ広大でしたが、その力はすでに抜きん出ていました。家康も信長勢力圏の一翼を担っていましたが、その関係は、家臣ではなく弟分のような立場でした。
歴史に「もし」はないとよく言われますが、この状態があと十年続いていたら、二人の関係はどのようになっていたのか見てみたい気もします。


しかし歴史は、急展開しました。
天正十年六月二日の未明、信長は光秀の軍勢に急襲され自刃したのです。
本能寺の変勃発のこの時、家康は四十一歳になっていました。


事変発生の時、家康は信長の招きで安土城を訪れ、盛大な饗応を受けたのち京都、奈良を見物してまわったあと堺に滞在していました。
堺でも有力商人たちの接待を受け、旅の終わりに京都に滞在している信長に挨拶するため堺を出立しました。その途中で事変が伝えられたのです。


家康は窮地に陥りました。従う者は、酒井忠次、本多忠勝以下ごく少数でしかなかったのです。もともと信長に勧められた遊山の旅で、近畿一円は完全に信長の勢力下にあり、危険など想定していませんし、信長の勢力圏を大層な軍勢を連れて行動することなどできないことでした。


かくなるうえは京都に上り、かなわぬまでも光秀と一戦を交え信長に殉ずべしと覚悟しますが、ここは辛抱して領国に帰り、改めて弔い合戦を図るべきだという本多忠勝の意見に従い、領国に向かったのです。
伊賀越えと呼ばれることになる苦しい逃避行でした。


家康の生涯で最も苦しい行軍を、京都の豪商茶屋四郎次郎や伊賀衆の支援を得て、岡崎までを二日で駆け抜けたのです。


***     ***     ***


 



 


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