雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

ラスト・テンイヤーズ ・ 第十二回

2010-01-04 15:47:21 | ラスト・テンイヤーズ

  第二章  戦国武将たちの『ラスト・テンイヤーズ』 ( 6 )


逃げ惑うような苦しい行軍の末岡崎に辿りついた家康ですが、休む間もなく次の手を打っています。
信長の領国となっていた甲斐・信濃が混乱に陥っており、これを安定させるべく手配しました。


信長の訃報にあい一時は動転したと伝えられている家康ですが、領国に辿りついた時には冷静さを取り戻していて、信長亡き後の勢力拡大を計っているのです。
そして、一応の手配を終えた六月十四日、信長の弔い合戦のため西上を開始しましたが、その軍勢は僅かに二千人ほどで、明智軍と雌雄を決するには如何にも小部隊でした。


その進軍の途中に秀吉からの急使が到着しました。光秀はすでに討ち取り上方は平定したので帰陣されるように、という伝達だったのです。
信長自刃から僅か十日余りのことで、家康の行動も素早いものでしたが、秀吉はこの間に対峙していた毛利軍と講和し、疾風の如く京都に向かい明智軍を打ち破っていたのです。


家康は信長陣営の有力武将ではありますが、信長の家臣ではありません。秀吉が使者を送ってきた真意は、織田家のことには口出しするな、ということだったのでしょう。


家康は秀吉の意向を受け入れ、行軍を反転させ浜松に帰りました。
この直後に行われた、織田家の相続を討議した清州会議にも出席することなく、甲斐、信濃の経略に専心しています。
信長の領土に組み入れられていた、これら武田の遺領は喉から手が出るほど欲しい土地でした。小田原の北条氏もこの地を狙っており、家康にとっては織田家中の権力争いより、この地を手中に収めることの方が遥かに重要だったのです。


家康はこの期間に、多くの武田の旧臣を帰服させています。
家臣団をそのまま徳川軍の戦力に組み込んだり、統治制度を取り入れたりしています。その後の家康にとって実に重要な成果を掴んだといえるのですが、秀吉は同じ期間に遥かに上回るものを掴んでいました。天下そのものを手中にしていたのです。


秀吉は、光秀を討った勢いで信長後継の地位を固めていきました。
柴田勝家を降すなど信長の重臣たちをことごとく討ち果たしたり臣従させたりしていきました。その過程で、表面的には織田一族後継争いに加担するという形で、家康と秀吉が戦うことになります。
小牧・長久手の合戦と呼ばれるこの戦いは、天正十二年の春、家康四十三歳、秀吉四十八歳の頃のことでありました。


両雄が唯一度干戈を交えたとされるこの戦いは、半年余りで引き分けに終わっています。部分的には徳川軍が勝利を上げたとされていますが、大きな戦いはなく、対峙したままの状態が続き、やがて徳川軍は浜松に引き上げてしまいました。
その理由は、家康が軍を動かしたのは、信長の次男である信雄から支援の要請があったからなのですが、肝心の信雄が秀吉と講和してしまったのです。


この戦いは、両雄が直接対決するという歴史的な合戦ですが、秀吉にすれば亡き主君の次男を討つことなどできませんし、家康にしても、信長への義理立てから挙兵したとはいえ日の出の勢いの秀吉との全面戦争は望んでいなかったのです。
つまり、双方ともが全力を投入するわけにはいかない戦いだったのです。


しかしこの戦いは、家康に少なからぬ影響を与えました。
軍事的には明らかに家康側が有利な状況に展開していました。秀吉軍の大将格の武将、池田勝入斎、森長可を戦死させるなど局地戦で勝利していたからです。
ところが、それにもかかわらず戦い全体としては秀吉側有利といえる状態で矛を収めています。


圧倒的な戦力を有する秀吉にすれば、局地的な劣勢や、大将格の武将の二人や三人を失っても然したることはなく、その間に、親家康勢力である越中の佐々氏や、四国の長曽我部氏、紀伊の根来寺などを個別に撃破したり降伏させたりしているのです。
さらに、そもそも合戦発端の当事者ともいえる信雄まで懐柔してしまうなど、政治力、外交力では遥かに家康側を上回っていたのです。
家康は、この合戦を通じて政治力の重要性を痛感し、その後の行動に大きく影響したと思われます。


家康と秀吉の間に正式な講和が結ばれたわけではないのですが、秀吉の求めに応じて、次男於義丸を養子に出すことになりました。実質的な人質です。
やがて秀吉は関白となり、家康の上洛を強く求めてくるようになりました。上洛して秀吉に対面するということは、すなわち臣従するということなのです。


家康は信長の幕下にありましたが、臣従ではなく弟分のような立場でした。秀吉は信長の一部将に過ぎず、能力はともかく織田家臣団の順位からすれば最右翼という存在でもありませんでした。
すでに五か国を固めていた家康本人にも、先の合戦で優勢であったと考えている家臣団にも、秀吉に臣従する気持ちなど全くありませんでした。


それでも秀吉は執拗に家康の上洛を促し続けます。
秀吉にすれば、家康を幕下に取り込まないことには九州に軍を向けることも、関東以東に手を着けることもできません。
もちろん、徳川家を攻め滅ぼすことができれば、それが最善でしょうから武力行使も検討したことでしょうが、その手段を選ばず幕下に取り込むために全力を尽くしています。日の出の勢いの秀吉ですが、家康と戦うことのダメージを避けるあたりが、勢いだけの武将ではない証左ともいえます。


考えてみますと、信長も今川から離れたばかりの家康を攻め滅ぼすより同盟を選んでいます。家康という人物には、敵に回したくないという雰囲気か、味方に取り込みたいと思わせる天稟の資質のようなものを持っていたようにも思えるのです。


家康を上洛させるために、秀吉は形振り構わぬ程の手段を講じました。
まず、異父妹の朝日姫を家康の妻に勧めました。朝日姫は結婚していましたが離縁させたうえで嫁がせたのです。これで二人は義兄弟になったのだから安心して上洛して来い、というメッセージです。
それでも応じない家康に、次には母大政所を朝日姫の見舞いとして岡崎へ行かせることを決定しました。朝日姫も大政所も、理由はともかくとして実質的には人質を差し出したようなものなのです。


ここに至って、ついに家康は上洛を決意しました。
家康の重臣たちの多くは主君の身の安全を心配し反対しましたが、これ以上秀吉の意向を無視することは危険だと家康は感じ取ったのでしょう。


すでに秀吉は、近畿一円、北陸、四国、中国を制圧しており、臣従していないと思われる大大名は、徳川の他には、島津、北条、伊達くらいになっていました。
すでに、秀吉と正面切って戦うことが無理なほど力の差が明白になっていたのです。


天正十四年十月、家康は大坂城で秀吉に謁しました。
諸大名が居並ぶ中で平伏の礼をとり、臣従することを示しました。
このあたりのことについては、秀吉から頼まれその筋書きに従ったともいわれドラマなどの見せ場ですが、この瞬間より家康は秀吉政権下の一人として組み込まれたのです。
重臣筆頭として遇され、官位も正二位内大臣まで昇進していきますが、家康にとって秀吉が没するまでの十二年間は鬱々たる忍従の日々だったことでしょう。


一方の秀吉は、止まることを知らないかのように昇りつめていきました。
北条を滅ぼし全国制覇を成し遂げると、休む間もなく朝鮮半島への出兵を下知しました。狙いは朝鮮半島に止まらず唐天竺まで攻め上ると豪語する勢いでした。


この間の家康は、秀吉の最も忠実で有力な臣下として行動しています。小田原征伐には主力軍として出陣、朝鮮の役では九州にまで軍を進めています。
そしてこの間に、家康に大きな試練が訪れています。関東移封であります。


秀吉は、北条氏を降すと家康に関東への移封を命じました。これまでの領地を召し上げて北条氏が支配していた領地を与えるというものでした。
家康のこれまでの領地、三河・遠江・駿河・信濃・甲斐の五か国から、相模・伊豆・武蔵・上総・下総・上野の六か国への転封でした。


国の数は一つ増えるとはいえ、慣れ親しんだ土地から北条氏の影響が色濃く残る未知の土地への移転命令でした。特に三河は、代々松平氏が本領としてきた土地でした。
徳川の力を削ごうとする秀吉の本心が垣間見えるような命令でした。
家康の家臣たちの多くが動揺し、小田原征伐で先陣を務めた徳川に対する冷たい仕打ちに、一戦も辞せずとばかりにいきり立ちました。


しかし、家康は家臣たちの不満を抑え、命令を受け入れました。
この時点では軍事的にも経済的にも秀吉に遠く及ばず、反抗することの無益なことを承知していたからでしょう。
しかし、同時に、関東が北条氏の強大な力を育んだ豊穣の地であることも承知していたのかもしれません。


また、秀吉は強大な徳川勢力を上方から遠ざけようと考えたのかもしれませんが、反対に家康は秀吉の本拠地から離れる方が有利だと考えたのかもしれません。
さらに、まだ秀吉との関係が薄く、群雄が割拠している状態の奥羽の地への経略も描いていたのかもしれません。


天正十八年八月一日、家康は関東に入りました。
先祖伝来の地を離れて関東に新天地を求めた家康が、本拠地として選んだ場所は江戸でした。

新領地の中心地としてまず考えられるのは、北条氏が本拠としていた小田原ですが、京都・大坂からさらに遠くなる江戸をあえて選んだのには、秀吉の意見があったともいわれていますが、新たな領土全体の地理的な中心地であることが一番の理由のように思われます。
すなわち、上方への利便より領地全体の経営を重視した選択のように思われるのです。

家康は有頂天ともみえる秀吉の行動を睨みながら、ひたすら新領地の経略に励みました。
武田や北条の旧臣たちや土着の豪族たちを多数受け入れ、優れた制度はそのまま活かしながら、重臣や旗本たちを領地の各要所に配置していきました。


豊臣政権下とあって江戸城の大規模な構築工事は進められなかったのですが 、用水路や道路網や港湾などの整備を進めました。山を切り崩し、湿地や湾岸を埋め立て、江戸を大都市に変貌させていきました。


北条時代の影響がまだ色濃く残っている中での大工事ですが、その分束縛されるものも少なく、思い切った町造りを進めることができたのかもしれません。


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