第二章 戦国武将たちの『ラスト・テンイヤーズ』 ( 4 )
五十歳で太政大臣と豊臣の姓を手中にした秀吉は、天下人としての行動に移ります。
大坂城の普請を進め、家康との戦いや講和交渉などに苦労しながらも、幕下 (バッカ) に取り込むことに成功します。
天正十一年九月、五十一歳になった秀吉は大坂城から聚楽第に移りました。
五月に九州を平定し、残るは関東の北条氏と奥羽仕置だけとなったことから、朝廷との関係強化のために移ったのでしょう。武力面の自信のほどがうかがえる行動でした。
実は、秀吉の生涯を俯瞰した時、このあたりの数年が名実ともに最高点であったのではないかと思われるのです。
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結果からみた秀吉の最後の十年は、五十三歳の時に始まります。細かく言えば、天正十六年 (1588) の八月ということになります。
天正十七年十一月に小田原征伐を発令、翌年七月に北条氏を滅ぼし、奥羽の仕置も短期間で済ませ、ここに日本全土は秀吉によって統一されたのです。
さらに、徳川家康を関東に移すなど、豊臣体制は固まったかに見えました。
少し戻った、天正十七年五月には、側室の淀殿に待望の男子が誕生しています。実子のいなかった秀吉は五十三歳で得た跡取りに狂喜し、小田原征伐など天下統一の仕上げに向かって拍車がかかったことが察せられます。
しかし、この跡取りである鶴松の誕生こそが、秀吉の生涯の絶頂期であり、同時に、この大英雄の晩年を狂わせることになったように思えてならないのです。
天正十九年正月、羽柴秀長が亡くなりました。
秀長は、秀吉の三歳年下の異父弟というのが定説のようですが、父親も同じだった可能性も高く、若い頃から常に秀吉に寄り添うようにして支えてきた人物であります。
秀吉のあらゆる合戦において重要な役割を担い、多くの手柄を立てています。それでいて決して目立たないように振る舞い、出世街道をひた走る秀吉を支え続けていました。
武略に優れ、人望高く、秀吉に叱られた武将たちが救いを求める存在だったのです。
秀吉政権の重要なブレーンの一人であった千利休が切腹を命じられるのは、秀長死去の翌月のことでした。秀長存命であれば、この悲劇も避けることができたかもしれないのです。
秀吉政権にとって、秀長の五十二歳での死去は誠に惜しまれることでした。
さらに八月、鶴松が病死します。
後継者を得て、天下も手中にし、富も地位も思うがままの立場にあった秀吉にとって、鶴松の死は青天の霹靂とでも表現すべき出来事だったことでしょう。秀吉の悲しみは察するに余りあるものがありますが、この頃からの秀吉には、かつての鋭敏ぶりとは明らかな変化が見られるようになります。
十二月には、羽柴秀次が関白左大臣に任じられました。
秀吉は太閤と称しましたが、絶望の中で、養子の秀次を後継者とすることを決断したのでしょう。おそらくは、苦い思いの決断だったのでしょうが、この時には豊臣政権の将来を冷静に思い計るだけの意識が働いていたのではないでしょうか。
文禄元年 (1592) 正月、秀吉は諸大名に朝鮮出兵を号令しました。
まるで鬱屈した気持ちの捌け口として朝鮮出兵を企てたように見えるのですが、必ずしもそうではなく、数年前から朝鮮ばかりか唐 (カラ・・中国、当時は明国) 天竺 (テンジク・・インド) まで征服すると高言しているのです。
何が秀吉をこれほどまで壮大な、あるいは無謀な野望を抱かせたのでしょうか。鶴松誕生という後継者を得た喜びが、日本全土を掌握したという自信とも相まって、有頂天になっていたようにも思えてくるのです。
この戦いは、当初は優勢でしたが朝鮮側の反撃や明国からの援軍などで苦戦に陥り、明国と講和を結び 一部の部隊を残して撤兵する結果に至るのです。
文禄二年八月、再び淀殿に男子が誕生しました。後の秀頼であります。
一度は諦めた実子への権力移譲が再び実現できることになり、秀吉の喜びは大変だったことでしょう。
精神的にも肉体的にも明らかに衰えが忍び寄っている身であることを知ってか知らずか、文字通り狂喜し乱舞しているかと思われる行動が目立ってくるのです。
文禄三年十一月に養子の秀俊 (正妻ねねの甥) を小早川家の跡継ぎに送り込みます。西国の雄、毛利家に楔を打ち込むことに成功した形ですが、この一件は、毛利本家に嫡男がいなかったことから、秀吉から養子を送り込まれることを警戒した小早川隆景が、自分を犠牲にして迎え入れたものだと伝えられています。
そして、この秀俊こそ、後に関ヶ原の戦いにおいて西軍の息の根を止めることになる、小早川秀秋なのです。
さらに文禄四年七月には、一時は後継者と考えていた関白秀次を切腹に追い込んでいます。
秀次は「殺生関白」と噂されるほど粗暴な振る舞いがあったようですが、謀反の疑いで捕えられ、僅か十日余りの間に自刃に追い込まれたうえ、その妻妾子女三十余人ことごとくが京都三条河原で処刑されています。
残酷というのを通り過ぎて、狂気と表現したくなるほどの処断だといえます。秀次に粗暴な振る舞いがあったことは事実なのでしょうが、謀反など考えられず、秀頼の誕生がなければ発生しなかった事件だと考えられます。
秀吉は強引に秀頼を後継者とする体制を固めていきました。
ところが、秀次を処断した翌年にあたる慶長元年九月、明国使節との会見に不満を持ち再び朝鮮出兵を決断しているのです。
この時、秀吉は六十歳になっていました。幼い秀頼の将来を考えれば、国内の体制をより強固にすることが大切だと考えるのが常識だと思うのですが、秀吉は本気で明国を責め取れるとでも考えていたのでしょうか。
慶長三年 (1598) 三月、秀吉は世に名高い醍醐の花見を主宰しました。絶大な権力を誇示し、豊臣政権の永続を世に知らしめようと意図したものだったのでしょう。
しかし、この贅を尽くした催しは、秀吉という巨星の最後の輝きでもありました。
秀吉はこの直後に病に倒れ、六月の終わりには赤痢のような症状に陥りました。
七月には、さすがに死期を悟ったのか、五大老・五奉行の制度を定め、任命者から起請文を提出させるなど、必死の体制固めを行っています。
八月に入ると病状はますます悪化「かえすがえす秀頼の事たのみ申し候。五人の衆たのみ申しべく候・・・」と、秀頼の後事を手を合わせるようにして五大老らに頼み続けています。
もともと小柄だった身体は、さらに痩せ衰え、最後は狂乱状態であったと伝えられています。
そして、八月十八日、秀吉は奇跡的ともいえる生涯に終止符を打ったのです。六十二歳でありました。
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波乱万丈に見え、実はまっしぐらに上昇をつづけた秀吉の生涯。
彼をめぐる逸話や業績について多くの研究がなされ、創作も現在容易に見ることができるものだけでも少ない数ではありません。
それらの情報をもとに私たちはそれぞれの秀吉像を作り上げていると思うのですが、なかなか理解し難いことは、壮年期までの秀吉と晩年の秀吉とのあまりに大き過ぎる落差であります。
その生涯の最後の十年にあたる部分を見てみるだけでも、大きな落差を感じさせるものといえます。
家康を臣従させ、北条氏を滅亡させ、日本全土を手中に収めたのは、最後の十年に入ってからのことです。そして、そこが秀吉の生涯の絶頂期であったと考えられます。
表面的な状況だけをみれば、その後も、その最期を迎えるまでの期間も最高権力を掴んでいたことは確かなことです。その権力は最後の十年間の間も強化され続けていたという見方もできます。
しかし、最後の十年が秀吉という大英雄の本分が示されている期間だとはとても言えないということも確かだと思うのです。
特に、第一の支えであった弟の羽柴秀長を喪ってからは、同一人物かと思われるほどの変化が感じられるのです。
それまでの秀吉の半生は、出世街道を駆け上ってきた裏には、また戦国の世のならいとして残虐な行動も数多く伝えられています。しかし、それでいて秀吉の人柄には明るさや温かさのようなものを後世の私たちに感じさせるものを持っていたと思うのです。
それが、晩年になると、それも秀長の死去を境にしたように、冷たく、陰険で、頑迷固陋な面が目立つのです。
『ラスト・テンイヤーズ』を、自らが最後の十年と覚悟して行動した期間だと考えるならば、秀吉のその起点はいつだったと考えられるのでしょうか。
まず一つは、鶴松誕生の時であり、二つ目は秀次に関白職を譲った時であり、最も有力なのは秀頼誕生の時のように感じられます。
しかし、秀頼の誕生は秀吉が死を迎える五年前のことなのです。
秀吉の最後の十年の不幸の原因は、秀長の死という不可抗力なことも含めて、ブレーンや養子を失っていったこと。そして、淀殿がもうけた二人の男子が秀吉の判断力を曇らせたと思われること。
さらに、何よりも不可解なのは、二度にわたる朝鮮出兵だと思われます。
秀頼誕生で、もし秀吉が『ラスト・テンイヤーズ』を意識していたならば、少なくとも二度目の朝鮮出兵はなかったはずなのです。
これによる諸大名の戦費負担は大きく、武将間の軋轢をより大きくしてしまったのです。
秀吉の死後、僅か二年で関ヶ原の戦いが起きていますが、東軍側の過半が秀吉恩顧とされる大名たちなのです。それは、彼らが秀吉や秀頼を裏切ったのではなく、朝鮮出兵から生まれた軋轢が大きな原因になっていたのです。
財も位も権力も昇りきれるところまで昇りつめた秀吉は、豪壮華麗な伏見城で臨終の時を迎えました。
数限りない合戦を生き抜いてきた武将にとって、誠に平和で安らかな臨終を迎えられる環境に恵まれながら、秀吉は秀頼の行く末を五大老たちに拝むようにして頼み続け、最後は狂乱状態であったともいわれています。
人間の、死んでゆくことの難しさを感じさせる最後でありました。
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