第二章 戦国武将たちの『ラスト・テンイヤーズ』 (2)
織田信長は、若い頃から謡曲「敦盛」を好んで謡い舞っていたと伝えられています。
人間五十年 下天のうちを比ぶれば 夢幻のごとくなり
ひとたび生を得て 滅せぬ物のあるべきや・・・
人は誰でも死というものに対して、畏れのようなものや、ある種の憧れのようなものを抱いているのではないでしょうか。
憧れというのは適当な表現ではないかもしれませんが、その状況を思い描くことで感傷的で甘美な気持ちに浸る部分があるのを否定できません。死が、私たちにとって常に隣接しているものであり、それでいて限りなく遠く不可思議な存在だからなのでしょうか。
信長が「敦盛」を好んでいたからといって、自分の人生を五十年と限っていたわけではないのでしょうが、折々に五十年という年限を意識していたように思えてならないのです。
信長が同族間の激しい争いや近隣豪族と領地を争っていた頃は、私欲が主体の行動だったのかもしれませんが、少なくとも美濃を手中にし天下布武を唱える頃には、単なる私欲のレベルは超えていたと思われるのです。
想い描く理想と、その考えを受け入れようとしない勢力との軋轢、そして「人間五十年 下天のうちを比ぶれば 夢幻のごとくなり」と謡うように、自分に与えられている時間の短さに苛立ちを覚えていたのではないでしょうか。
因みに、この「下天」というのは仏教が教える世界の一つで、人間の五十年はこの世界の一昼夜に過ぎないとされているのです。
このように考えてみれば、比叡山の焼き討ちに代表される非道といわれるほどの信長の行動も、与えられた時間のあまりの短さと、成さねばならないことのあまりの多さとに迫られる宿命を背負った男の、苦しみのようにも見えてくるのです。
信長が、当時の新興宗教といえるキリスト教伝道者に好意的であったと伝えられている一方で、仏教徒に対する残虐な行動が数多く記録されていることから、仏教弾圧者のようにいわれることがありますが、必ずしも正確でないように思うのです。
当時の一向一揆は、江戸中期以降の農民一揆とは全く異質なものですし、比叡山延暦寺をはじめ当時の大寺院が持つ武力は、地方の豪族などでは遥かに及ばないほど強大なものでした。そのことは、有力大名が競って宗教勢力と同盟を結ぼうとしていたことからでも十分窺えます。
信長にすれば、宗教勢力と戦っているという意識より、質の悪い武力集団として映っていたのではないでしょうか。
現代に生きる私たちにとっても、あるいは歴史上の人物としてその生涯を俯瞰できる人にとっても、最後の十年というものは結果論でしかありません。
一人の人間がその生涯を終えた時、第三者が初めてその人の最後の十年間の生き様を窺うことができるに過ぎないからです。
人生を計画的に生きた人も居るには居るのでしょう。特に晩年については、自らの天命を知ってそれに従って生きたと伝えられる人や、自らの没する時を予言したとされる人もいます。
しかし、多くの人にとって、自らの最後の十年を正確に認識することは不可能といえるのではないでしょうか。
それは、歴史に名を残すほどの人物であっても、名前さえ伝えられることなく生きた人たちであっても、大差ないように思われます。
その中にあって、信長という不世出の英雄は、自らの天命を知っていたのではないかと感じさせる人物のように思えてならないのです。
それは、信長が「人間五十年・・・」という敦盛を好んだという逸話に影響されていることは承知しているつもりなのですが、そのあまりにも激しい生き方が、自らに与えられている時間と戦っているように思えてならないのです。
信長が自らの生涯を五十年と限っていたと仮定するならば、彼の最後の十年の起点は天正元年になります。
この年には、将軍に擁立後微妙な関係を保ってきた足利義昭を見限り追放した年にあたります。つまり、室町幕府が消滅し安土桃山時代に移行したとされる年なのです。
さらに、浅井・朝倉の連合軍を攻め滅ぼし、尾張から京都に至る国々をほぼ制圧しています。東の脅威である武田信玄が没したのもこの年のことなのです。
信長の波乱に満ちた生涯の中でもひときわ大きな事件が集中しているかに見えるのです。
これは、天が信長のために用意していた配剤なのか、信長が最後の十年に入ったことを意識したうえでの行動だったのでしょうか。
そして、もし後者だったとするならば、信長は自らの意思で最後の十年を生きようとする、『ラスト・テンイヤーズ』の実践者ということになるのです。
そして信長は、自らが描いた『ラスト・テンイヤーズ』を完遂させるため、残された時間と競い合うかのように奔走を続けます。
比叡山を焼き打ちしたのはこの二年前のことですが、仏教勢力との戦いは信長が描く『ラスト・テンイヤーズ』の最大の障害となります。
伊勢長島の一向一揆は凄惨な戦いの末壊滅させましたが、加賀一向一揆との戦いは劣勢となり、天正二年には越前一国が一向一揆に制圧されてしまったのです。その後も北陸路の宗教勢力との戦いは苦戦が続き、柴田勝家により加賀一向一揆が制圧されるのは天正八年のことなのです。
さらに、石山本願寺との戦いは足掛け十一年にも及び、天下布武を目指す信長にとって最大の難関となり、結果として目的の達成に至らなかった最大の障害であったともいえるのです。
安土城の建設に取り掛かったのが天正四年。城郭の壮大華麗なことは宣教師の記録にも残されていますが、城下町の建設も画期的なものでした。楽市楽座が設けられ、教会や神学校(セミナリヨ)などがいち早く建設されています。
次々と本拠地を移してきた信長にとって、安土城を最後の本拠地として考えていたかどうかについては意見が分かれるようですが、『ラスト・テンイヤーズ』を認識したうえでの知謀の全てをつぎ込んで築き上げた城郭のように見えます。
石山本願寺を降したことで全国平定への道が見えてきたともいえますが、なお各地に対抗する勢力が散在ていました。武田氏が滅びたとはいえ東にはまだ上杉氏や北条氏があり、北関東から奥羽の地は諸豪族が覇を競っている状態でした。
西を見れば、中国地方の覇者毛利氏は十か国余を領有する大勢力であり、九州にも有力大名が存在していました。
しかし、信長の考える天下統一は、関東地方から中国地方辺りまでを指していたのではないでしょうか。宣教師を通じ諸外国の情報さえ掴んでいた信長ですが、九州や北関東から先などは次の課題だったのではないでしょうか。
五十年という限られた時間の中で、毛利氏を勢力下に置くことができれば、天下布武という宿願はほぼ達成できると考えていたのではないでしょうか。
しかし信長は、毛利征伐への出陣を目前にして部下の裏切りにより倒れました。
その原因を、信長の残虐性や傲慢さに求める考え方があります。また、光秀の先見性の無さや自尊心の高さが無謀な反逆に走らせたのだという説もあります。
それらのいずれもが少しばかり正しく、そのいずれもが大きく間違っているようにも思われます。
ただ一つ正しいことは、歴史はそのように流れていったということだけなのです。
人間五十年。これが己に与えられた時間だと決めて走り続けた信長…。
しかし、この英雄が「是非もなし」という無念とも達観とも取れる言葉を残して倒れたのは、その五十年にも一年及ばない年でありました。
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