雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

ラスト・テンイヤーズ   第十三回

2010-01-04 15:46:40 | ラスト・テンイヤーズ

   第二章  戦国武将たちの『ラスト・テンイヤーズ』 ( 7 )


慶長三年 (1598) 八月十八日、ついに秀吉が没しました。
類い稀な才能と人智が及ばないほどの幸運に恵まれた英雄も、後顧に後髪を引かれながらの旅立ちでした。秀頼という跡継ぎは居ましたが、豊臣政権の体制は盤石には程遠いものでした。


大老や奉行職を置き、政権の永続を図るべく手を打ってはいましたが、大老たちはいずれも乱世を生き抜いてきた戦国大名であり、実務の中心である奉行たちは大老たちとは実力差が大き過ぎました。


秀吉が最も頼りにし、秀頼の後見人でもある前田利家が翌年閏三月に亡くなると、豊臣政権は大きく揺らぎ始めました。
朝鮮出兵に関する不満から反目しあっていた、加藤清正や福島正則など槍一筋の武将たちと石田光成を中心とした能吏派との亀裂が、一気に表面化してきたのです。


家康は豊臣政権下の筆頭大老として諸大名を睨みながら、次々と手を打っていきました。
このあたりの行動は、豊臣方からみれば裏切りであり、徳川方からみれば長年の忍従から解き放たれる好機がきたということなのです。

それは家康に限らず、戦国武将たちにとって最も大切なことは一家の安泰であり、勢力の拡大なのです。
例えば、豊臣政権に最も忠実な実力者として前田利家が挙げられることが多いのですが、彼の遺言などから推察しますと、それほど秀吉に忠節心を持っていたのかどうか疑問に感じられます。利家が敬愛していたのは織田信長であって、その血筋である秀頼を守ることに真剣であったことは確かだと思うのですが、そのためにも前田家の力を充実させることが第一だと考えていたと思われるのです。


慶長五年 (1600) 八月、石田光成が家康打倒に立ち上がりました。天下分け目の大決戦といわれる関ヶ原の戦いに向かって、日本全土が戦乱の世に戻っていきました。
全国の大名小名たちは、それぞれの利害や思惑に揺れ、義理や怨念も複雑に絡み合いながら東西に色分けされていきました。


関ヶ原の戦いと呼ばれる合戦は、九月十五日に両軍合わせて二十万人に及ぶ兵力が狭い関ヶ原の地で激突したものを指しますが、東西勢力の衝突は全国のいたるところで繰り広げられたのです。


関ヶ原の戦いは、僅か半日ほどで東軍の大勝利に終わりました。
戦力、陣形ともに有利とみえる西軍の惨敗は小早川軍の裏切りに起因するといわれており、事実、競り合っていた戦況がこの寝返りにより西軍は総崩れになっています。


このことから、小早川軍の裏切りさえなければ西軍が勝利していたという考え方もありますが、家康にすれば、小早川の寝返りは予定の作戦であり偶発的なものなのではなかったのです。
両軍が対峙した時点では、戦力は均衡しているかむしろ西軍有利というのが定説のようですが、それは小早川軍を西軍として計算してのことなので、意味のない分析ともいえます。


それに、二代将軍となる徳川秀忠率いる徳川主力軍は関ヶ原に到着していなかったのです。信州を通過するのに手間取り到着が遅れたもので、秀忠は家康から厳しい叱責を受け面会も許されず、後継者争いから外れそうになったとも伝えられています。


しかし、事実はどうだったのでしょうか。案外、万が一に備えて秀忠軍を無傷で残したのではないかとも思われるのです。
信長に弟分のように遇されながら、秀吉政権下で長年耐え忍んできた家康が、光成相手に一か八かの戦いなどするはずがないと思うのです。


***     ***     ***


関ヶ原の戦いを天下分け目の合戦ということがよくありますが、まことに言い得て妙と思います。
この戦いを境に、雪崩をうつように家康の時代に移っていきました。
戦国の世を彩った多くの武将たちが去っていきました。ある者は関ヶ原で敗れて滅亡し、ある者は大幅に領地を失い、また勝ち残った者も、やがて取り潰されたり年老いて消えていきました。


関ヶ原の戦いを半日余りで勝敗が決したかのように受け取りがちですが、それほど単純な戦いではありません。
その前哨戦があり、関ヶ原で大軍が激突したあとも各地で戦闘は続いていました。九州に隠遁しているかに思われていた黒田官兵衛などは、混乱に乗じて本気で天下を狙っていたとも伝えられています。
そこまでいかなくとも、領土拡大の好機とばかりに兵を動かせた豪族も少なくなかったことでしょう。


しかし、関ヶ原の戦況が伝えられるとともに西軍方は一気に崩れ、あとは残党狩りのような状態になり、十二月には各地の戦闘も全て鎮静しました。


勝利した家康は厳しい戦後処理を行ない、徳川政権の土台を築き上げていきました。
西軍方に味方した諸大名を改易し、あるいは大幅な減封にしています。毛利、上杉などが大幅に領土を減らされ、豊臣秀頼も二百二十万石余の蔵入地を没収され、六十五万石余の一大名に位置付けされました。
このように強引ともいえるほどの戦後処理に対して抵抗する勢力はすでに無く、没収された領地は六百三十二万石余で、全国総石高の三分の一ほどにも及ぶものでした。


家康は、この没収地を徳川政権の強化に使っています。
東軍に味方した各大名や武将たちには十分な恩賞として与え、同時に徳川家の圧倒的な力の源泉として配置しています。

例えば、有力外様大名に対しては大盤振る舞いといえるほどの加増を行っていますが、家康自身の直轄地も二百五十万石から四百万石に増やしていますし、京都、奈良、堺、長崎などの主要都市や、佐渡金山や生野銀山などの重要鉱山なども直轄地としたのです。
徳川一門や譜代の大名家は六十八家にのぼり、関東から近畿に至る重要地に配置されました。また、一万石以下の旗本などに与えられた知行所も二百六十万石に及ぶ広大なものでした。


慶長八年二月、家康は右大臣に任じられ征夷大将軍となります。
徳川幕府の誕生であり、江戸時代の始まりであります。
この年の七月には秀忠の息女千姫が豊臣秀頼に嫁ぎ、二年後には将軍職を秀忠に譲りました。実権はこの後も家康が握っていますが、将軍職は徳川家が受け継いでいくという意思表示だったとみられています。


慶長十二年七月、家康は駿府城へ移りました。
秀忠を独り立ちさせるための布石と思われますが、六十六歳にして若き日の本拠地に戻ったことになります。この後も江戸と駿府による二頭政治がおこなわれ重要な決定はなお家康が行っています。


慶長十六年三月、二条城で家康と秀頼の対面が実現、家康七十歳、秀頼十九歳の時でした。
この対面は淀殿の反対でなかなか実現しなかったのです。ちょうど秀吉の上洛要請に対して家康が容易に応じなかったように、この対面が豊臣が徳川に臣従したことを天下に示すことになることを淀殿は承知していたのです。


加藤清正はじめ秀吉恩顧の大名たちは、必死になって淀殿を説得しようやく対面にこぎつけました。それは、徳川の天下はすでに動かしがたく、豊臣家が存続するためには徳川体制に組み込まれる以外に道はないと考えたからです。

しかし、この対面でも全てを解決することなどできませんでした。
一説には、久方ぶりに見る秀頼の見事な若武者振りに驚き、家康は豊臣打倒を決意したともいわれています。大変ドラマチックな見方ですが、豊臣氏が滅亡にいたるのはそれほど簡単な理由ではないはずです。


慶長十九年七月、方広寺の鐘銘事件が起こり十月にはついに合戦となります。大阪冬の陣であります。
この鐘銘事件とは、秀吉が建立した方広寺を秀頼が再建を進めていましたが、その梵鐘の銘文にある「・・・国家安康・・・君臣豊楽・・・」という部分に、家康が難癖をつけ豊臣方を追い込んだとするものです。

家康は秀吉の莫大な遺産を費消させるため、寺院などの再建や奉納を秀頼に勧めており、この寺院の再建もその流れに添ったものでした。
徳川方はかねてより開戦の口実となるものを狙っていて、無理やり事件に仕上げたのだというのは多分真実なのでしょう。


大阪冬の陣は十二月に一端和睦します。両陣営の戦力差は歴然としていましたが、浪人を掻き集めたような戦力が中心であっても秀吉が築いた名城を陥落させるのは容易ではなかったのでしょう。
家康は和睦の条件に外堀を埋めることを承諾させたうえ、その作業のどさくさに中堀までも埋めていったのです。


このあたりの巧みさというか、ずるさというか、家康を狸親父と呼ばせる一端が見えるような出来事といえます。
しかし、それよりも、大坂方がなぜ外堀を埋めるなどという和睦条件を受け入れたのか、とても納得できる理由が見当たらないのです。おそらく、すでに豊臣首脳陣には徳川方と対等に交渉できるような人材がいなくなっていたのでしょう。


翌元和元年 (1616) 四月、大坂夏の陣が勃発。この戦いは、冬の陣からの続きのようなもので、休戦期間は徳川方がいかに損害を少なくするかを検討するための時間でしかありませんでした。


両軍の戦力差は比べるまでもなく、局地戦では豊臣方が優勢な部分もあったとか、真田幸村が家康に肉薄したとか伝えられていますが、全体の戦況に如何ほどの影響さえ与えないものでした。
もし仮に家康が討ち取られたとしても、徳川方の一方的な勝利に変わりはなかったことでしょう。
そして五月、秀頼と淀殿は大坂城内で自害、豊臣家は滅亡したのです。


元和二年四月十七日、大坂夏の陣からほぼ一年後、家康は駿府城で七十五年の波乱に満ちた生涯を閉じました。


***     ***     ***


家康の『ラスト・テンイヤーズ』を、信長、秀吉の晩年と対比してみますと、それぞれの特徴が色濃く表れているように思われます。


信長は、自らの『ラスト・テンイヤーズ』を承知しきっていたように活動し、秀吉は、自らの寿命さえ自由にできると考えていたのではないかと思わせる生き様でした。


家康の場合は、自らに残された最後の時間を推し量りながら、しかも健康に人一倍配慮しながら、人生の最後の仕上げを練り上げていたように感じるのです。


家康が『ラスト・テンイヤーズ』という考え方を持っていたと仮定しますと、その出発点らしく感じられる時が幾つも上がってきます。

まず第一は、信長が本能寺の変で倒れ、家康自身も命からがら岡崎に逃げ帰った時ではないでしょうか。
この時家康は四十一歳。働き盛りの年齢ではありましたが、信長とは八歳の年齢差ですから、自らが抱く理想と自らに残されている時間を推し量ったのではないでしょうか。


第二の時は、大坂城で秀吉に臣従を示した時ではないでしょうか。おそらくこの対面は、家康にすれば屈辱の思いを必死に抑え込んでいたのでしょう。
そして、秀吉の残り時間と、自らの持ち時間を睨みながら、来るべきチャンスを描いていたのではないでしょうか。


そして第三の時は、秀吉が没した時です。待ちに待っていた時がついに訪れたのです。天下を手中に収める手段を具体的に描いたはずです。

第四の時は、関ヶ原に勝利したあとで盤石の徳川体制を敷こうとした時であり、第五の時として考えるならば、徳川幕府を誕生させた時も候補となるでしょう。
この第四、第五は、家康のことですから、第三の時にすでに構想していたことなのかもしれません。


さらに第六の時としては、将軍職を秀忠に譲った時です。そして、この時期は結果からみた家康の『ラスト・テンイヤーズ』とも、ほぼ一致するのです。

この時には、関ヶ原の戦いからすでに十年余りが過ぎ、徳川の天下取りはすでに完成していました。残る課題は、手に入れた徳川の天下をどのように永続させるの一点でした。
そして、その手段の一つが征夷大将軍の地位を徳川家で世襲することを天下に示すことでした。秀忠への将軍職譲位は、まさにそれだったのです。
そしてもう一つの課題が、豊臣家の処遇でした。


家康が豊臣家をどのように取り扱おうと考えていたかについては、諸説があるようです。
豊臣家は、関ヶ原の戦いの結果大幅に領地を失い一大名の立場になっていましたが、大坂城は難攻不落といわれる天下の名城であり、秀吉遺産の金銀は軍資金としては十分すぎるほど保有していました。さらに、徳川体制に組み込まれているとはいえ有力外様大名や公家衆には、秀頼に同情を寄せる者も少なくありませんでした。
もし、彼らが結集するようなことになれば、侮れない勢力になることは間違いなかったでしょう。


武門の常識として、並び立とうとする勢力を徹底的に潰すのは当然のことでしょう。
このことから、家康は早い段階から豊臣家を滅亡させる方針を立てていたのだという、有力な説があります。


一方で、家康の考えが当初から豊臣家を滅ぼすことにあったとすれば、関ヶ原勝利の三年後に千姫を秀頼に嫁がせているのが謎といえます。
この縁組が豊臣家を滅ぼすための手段だったとはどうしても考えられませんし、関ヶ原の勝利から大阪冬の陣が勃発するまでに十四年という時間を要しているのです。
家康の苦悩が、これだけ長い年月を要したように思われるのです。


しかし、真実はどうであったとしても、歴史の結果からみる限り家康の『ラスト・テンイヤーズ』は、豊臣打倒のために専心していたように見えてしまうのです。


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