二 その娘さんのたどった道
厳しい寒さも和らぎ、やがて春となった。その頃、山口県神代村の向井家に、質素な紙に包まれた一房の髪と、わずかばかりの爪が届けられた。南京の戦犯収容所を釈放された一人が、復員の途中に届けてくれたのであった。
向井氏の実家には敏明氏の母ふでさんと、幼い二人の娘さんが住んでいた。亡くなった前妻との間にできた子で、中学と小学校とに入ったばかりであった。年老いた母が、その届けられた遺髪と爪を、どんな思いで受け取ったことか。
そしてその悲しみに加え、敏明氏からの送金も絶たれたため一家は故郷の家をたたみ弟猛氏と親族の家とに、分散して預けられることになった。猛氏は千葉県の成田に住んでいたが、そこには老母と幼い次女千恵子が預けられた。だがそれもしばし、やがて仕事に失敗した猛氏は家を手放したため、老母と幼い千恵子さんの二人は市営住宅で独自の生活をしなければならなくなった。
昭和の二十年代、老母と幼な子二人の生活がどんなに厳しいものであったか、とにかく大の男でも、その日の食にありつくのがやっとという時代なのである。
そんな老母のところへ、わざわざ鹿児島から野田毅氏のこれも年老いた父親が尋ねて来た。怒りのやり場に窮した老爺は、せめてそれを口にできる相手を求め、はるばると上京したのである。
戦死なら、諦めもつくだろう。しかし、ありもせぬことを書かれて、それがために処刑されたなどということは、親の身となったらとても諦めきれるものではない。しかもやっと生き残って復員し、平和な生活が始まっていた矢先だけに、その無念さは言いしれぬものがあったに違いない。しかし老母は、
「日本人に悪い人はいない。浅海氏にも証明書のことで礼を言って下さい」
という遺書の心を尊重してか、浅海氏にたいしての恨みつらみは一語たりとも漏らさなかった。
この時次女の千恵子さんは小学校の二年生で、まだすべてを解する齢ではなかったが、しかし年とともに、「戦犯の子」と陰口を言われるようになっていた。戦犯は人殺しをした悪い人、とでも言いたいのだろうか。それは大人が言っているのを、子供がそのまま真似しているだけで、子供に罪はないのだが。
こうした世間の冷たい眼と、貧しさの中で老母と孫は生きていったのだが、それでも老母はその苦しい中を針仕事で貯めた金なのか、孫を高校に進学させたのである。それというのも、
「孫たちを頼みます」
という我が子敏明の遺書に、支えられてのことであった。
お陰で千恵子さんは高校を終え、就職もし、そして結婚もできるようになった。そして浅海氏の心なき記事によって、悲惨な十年二十年を送った向井家にも、ようやくその災は遠のいたかに見えたのであった。他家に預けられた姉娘も、同じように労苦を重ねながらも結婚していたのである。だがその災は、いまだ過去のものとはなってくれなかった。
それは、朝日の本多勝一記者が、突然百人斬りの記事を再び朝日新聞に書いたことから始まる。
しかもそれは、戦闘中の武勇談からさらに脚色され、平時における中国人虐殺のほうへと一歩大きく踏みだした書き方であった。
その表現は、尻尾を掴まれぬよう他人の発言とするなど配慮はしてあるものの、とにかく一般市民虐殺の印象を強く与えるものであることは確かなのである。そしてそれを本にして出版したのであった。根もない浮草に、無理遣り花を咲かせたようなものである。
二人の子を抱え、幸せに暮らしていた千恵子さんは、ある日突然夫からその本を見せられた。
いや、突きつけられたのである。
「人を殺すなんて、どう考えても悪いことに決まっている」
夫は、そう突き放すように言った。結婚する前から、父敏明氏のことは話してあったし、すべて分ってくれているものと信じていた千恵子さんにとって、これは大変衝撃的なことであった。
すぐそれを読み、そして説明していったのだが、夫はどうしても理解してくれない。
千恵子さんも根気よく、何度も記事の不条理を説いたのだが、夫はその言葉より記事のほうを信じているようで、妻の言葉には耳をかそうとしないのである。そしてついには、
「お前は結局、人殺しの娘なんだ」
と、はき捨てるように言った。幸せな生活は、ここからがらがらと音をたてて崩れていった。
戦争というものをあまりにも知らないということと、軍人性悪説とを教育された世代の悲劇としか言いようがないのだが。
一人の心なき記者の書いたものが、二人の人間を死に追いやっただけではなく、その老母と孫をいつまでもこうして苦しめていく。千恵子さんの姉は、本多氏の記事を読んで精神的に大きな衝撃を受け、腕が動かなくなるという症状におちいってしまった。そのほか敏明氏の後妻となった女性も、またその子供も、そして野田家の人々も、またまた酷い苦汁を飲まされたのである。
事実なら何と言われても仕方ないが、話はまったく逆で被害者は向井氏たちなのである。
「日中友好の捨て石となる、と言って死んでいった父です。それなのに、こう何度も引きずり出され、鞭打たれるのでは、父は浮かばれません。しかも信じていた、同じ日本人にそれをされるのですから」
と言う千恵子さんの言葉は、その同じ日本人の一人として決して人事ではない。その上、悪逆無道の人間として写真まで使われているのだ。これでは向井氏の崇高な心は、確かに宙に浮いてしまう。第一千恵子さんのみならず、遺族の方々の心情を思うとかけるべき言葉もない。
三 進歩的文化人という人々の文化革命論
浅海一男氏は、その後も毎日新聞を代表する記者として遇され、名誉職員となり著作も幾つか出されているという。私もつい興味を抱き、そのうちの一冊『新中国の入門』という本を手に入れ、読んでみたのである。
あれだけ軍国調の記事を書いてきた浅海氏が、敗戦後はいったいどんな記事を書いているのだろうか、と思ったからである。だがそれをさらっと読んで、思わず唸ってしまった。何と今度は一転して、新中国と共産党を讃美する言辞で、見事に埋め尽くされているからであった。
「新中国は全世界の被圧迫人民、民族を励ますという崇高な目的を持っている」
だから中国が核実験をするのは当然で、それは、
「他国の核兵器を使えなくし、終局的にはそれらを消滅させる為の兵器」
であり、米帝国の核は悪いが、中国共産党が核兵器を持つのは正しいという。そしてさらには、
「文化大革命こそ、さらに理想的な社会主義国家を建設するための正統な革命である」と、文化革命と毛沢東を絶賛しているのだ。数百万の人が意味もなく殺されていったという、文化大革命だが、それが浅海氏には天の啓示のような、素晴らしいものに見えたのであろうか。そしてその一方で、手ひどく批判されているのは、
「日本帝国主義の中国侵略」
である。しかし侵略と言うならば、いかに従軍記者とはいえ、軍とともに行動し好戦的な記事を書きまくった浅海氏自身も、その侵略者の一人ではなかったのか。そんなことはまるでなかったかのように、あるいは人事のように日本軍の凶暴性を強調しているが、浅海氏とて、少なくともその片棒を担いだ人間ではなかったのか。
南京戦に従軍した百二十数名の特派員のうち、戦後になって、
「南京大虐殺は実在した」
と言いだした人が三人いるのだが、その内の一人が浅海氏であった。だが、その謎もこれで解けたようだ。そしていわゆる進歩的文化人の、一つの典型をここに見る思いがしたのである。
しかし、この文化革命なるものを礼讃したのはひとり浅海氏のみではない。浅海氏は毎日だが、朝日のほうはそれこそ人類の叡智ででもあるかのように書きたてていったのは、多くの読者が知ってのとおりである。またこれに追従する、いわゆる進歩的文化人とやらも多かったはずだ。
しかし皮肉なことに、それほど讃美してやまぬ文化革命も日ならずして否定され、今度は一転して犯罪ときめつけられ裁きを受ける羽目になった。江青ら四人組を筆頭に死刑から無期など、断罪と粛清の嵐が吹き荒れていったのだが、それでは、日本の文革礼讃の人々はどうであったか。
まさか断罪されることはないにしても、せめてその非を認め、
「今までの論調に誤りがあった。申し訳ない」
の一言くらいあって然るべきであろう。でなければ、現在の中国政府を間違いと否定するか、そのどちらかでなければならぬはずだ。
この文化大革命の酷さは、だいぶ知られてはきたが、とにかく西蔵一つ見ても、寺は壊され経文は焼かれた。そして多くの人が殺され、その上佛画を踏み絵にまで使ったというのだが、こうした文化の破壊がいったい何の革命になるというのか。
当時ネパールで命からがら亡命してきたチベット人に会ったことがあるが、同じ佛教をこよなく愛する人間の一人として、深い同情の念を禁じえなかったのを思い起こす。
現在、印度に亡命中のダライ・ラマは、西蔵(チベット)の独立とその平和的達成を主張し続け、ノーベル平和賞を受けたのは周知のとおりだが、そのダライ・ラマは、
「中国の侵略以来、百万のチベット人が殺害された」
と、言っている。その数値が正確であるか否かはともかく、それに近い犠牲者が出たことだけは確かであろう。
そしてなお中国本土では、文革中の十年間に六百万余の犠牲者が出たという。これは外国紙の報道だが、日本の新聞はこういう記事はまずもって報道しない。たとえ報じても、紙面の片隅に小さく載る程度だから、ほとんど人眼を惹くことがない。せいぜい雑誌が、これら外国紙の記事をとりあげるくらいである。
だがその一方で、米軍によるものは、ベトナムのソンミ村で三百人もが虐殺されたとして、くり返し幾度も報ぜられる。そして、その人道上の罪もさまざまな形で追及していく。
ところがカンボジアでは、ポルポト派という共産軍によって、百万から三百万というこれまた大量の虐殺があった。これはもはや隠しようのない事実として報ぜられているのだが、それでも、人道上の問題として追及しようとする動きなどまったくない。
罪もない住民をこれだけ多数殺害しても、ポルポト軍にたいする非難の声は、日本ではさっぱり聞かれないのである。反戦運動家なる人々も、黙して語らずである。それは、ポルポト軍が中国に支援された共産軍だからなのだろうか。
このように、現在でもなおかつ一つの流れ、つまり報道への傾向性というものがあるのだが、人道上の罪を追及するということで南京大虐殺を追及するというのなら、同じ年に起きた通州事件なども当然とりあげるべきなのだ。
それは、蘆溝橋事件が起きたその直後のことであった。北京郊外の通州という街で、日本の軍人数人と、婦女子を多く含む邦人二百六十人が、ことごとく惨殺された事件である。しかもその惨状は、形容しがたいものであった。
それでも日本の新聞は、この事件に関してはほとんど触れていない。あるいは、私が見落としているのだろうか。とにかく日本の報道がいかに偏っているかということだが、こうして四十余年、今や日本人の多くはかなりの程度洗脳されてしまった。それが世界の常識と、日本の常識との差になって現れている、と言えよう。
結局あの文化革命なるものは、単なる権力闘争にすぎなかったのだが、日本の支持者はそんな実情も分らず、ただ右往左往させられているうちに結論が出てしまったということだ。とにかく、どんな思想でも、本当に信ずるならそれもまたよし。それに殉ずるのも結構だ。だがその時々に、ただ迎合するだけとあってはいただけない。まして公正な報道という名のもとに、かほどまでに偏向し、一方的な報道をするとはもはや犯罪に近い、と言わざるをえない。
ただ浅海氏はすでに故人となられているだけに、死者に鞭打つようで恐縮だが、虐殺を否定するためにはお許しいただきたい。
とにかく、浅海氏の場合その筆によって二人もの命が断たれているのだ。これは事情のいかんにかかわらず、大きな心の負担となることは間違いない。だからこそ、南京大虐殺を主張したり、文革礼讃をやったりと、一つの突っ走りをしないと、じっとしておれなかったのかもしれない。
人間は本来素晴らしいものだ、心麗しきものだと信じていることからすれば、そう思わざるをえないのだが、ただちょっとした横着と見栄と、そして誰もが持つ卑劣さに打ち負けると、人間思わぬ方向へ行ってしまうものだ。まこと、人事ならぬ思いではある。
遺族の千恵子さんにも、ふとそんな話をしたのだが、これだけ手酷い仕打ちをマスコミから何度も受けている千恵子さんにとって、それは何の慰めにもならなかったかもしれぬが。
なお千恵子さんは、七年ほど前に父を失った働巽の思いと、もう私たちをいじめないで下さい、という趣旨の一文をある雑誌に寄せている。そしてその後、再び父処刑の地雨花台を訪れている。
彼女にとっては、そこが永遠に忘れえぬ地、となっているのだ。
そしてその近くの江東門には、虐殺記念館が建ち、そこには今もって向井、野田両氏が並んだ写真が、虐殺犯人という説明付きで飾られている。これも、彼女にとってはたまらぬものの一ついずれにしても報道や記事というものは、いつでも凶器になり得るということを、ここでも痛烈に思い知らされるのだが、同時にそれを常に批判できる機関も、必要だということを痛感せざるをえない。
とにかく、マスコミの実態なるものを、もっともっと国民は知る必要がある。
「仕組まれた南京大虐殺」大井満著 展転社
平沼氏ら超党派議連発足、「中国の反日写真撤去求める」
何度かこちらを見させていただいていました。
今回のこの記事、別なところで読んだことがあると思い出しながら、食い入るように読ませていただきました。
大井満先生のこの御本、折を見て探して、改めて読んでみようと思います。
余りにも凄惨で、卑劣な事件。
それだけに、清廉潔白な日本人の姿が際立ちます。
真実は、真実として、伝えて行かねばなりませんね。
長文、失礼いたしました。
はじめまして。
休戦後、戦犯として造られた罪状で処刑された方々が数多く居られます。
それらの方を悪人のように言う日本人が居ることが許せません。
日本人は日本人の誇りを守らなければなりませんね。