トルコ軍艦「エルトゥールル号」の遺品の鍋に目印を付けるダイバー=12日、和歌山県串本町沖(トルコ海底考古学研究所提供)
海底にトルコ軍艦遺品
和歌山県串本町沖で1890年に沈没したトルコ軍艦「エルトゥールル号」の遺品引き揚げに向け、トルコの民間研究機関「トルコ海底考古学研究所」などが12日、潜水調査を始め、海底で多数の遺品を見つけた。
この日は沈没地点付近にトルコの研究者と日本人ダイバー計6人が潜水。海底で、鉄砲の先に取り付ける刀の柄やボルト、金属片、鍋などを見つけ、刀の柄を回収した。
同研究所のトゥファン・トゥランル所長(54)は「遺品は思ったより多く、今後が期待できる」と話した。
エ号は、オスマントルコ時代の木造軍艦で全長76㍍。帰国途中で暴風雨に遭い沈没。乗組員約650人のうち、69人が地元住民に助けられ、この出来事がきっかけで串本町とトルコの友好が続いている。(1月13日産経新聞)
今朝の産経新聞大阪版の一面に掲載されていた記事です。
今朝の一面は、小沢代表の事務所費4億円が大きかったので見落とした方も居るかもしれませんね。
小沢代表の金の動きを調べれば、いろんな物が出てくるでしょうね。
その事は置いといて、トルコは親日国です。
トルコが親日になった原因が、日露戦争で日本がロシアを破った事と、このエルトゥールル号の遭難事件があります。
エルトゥールル号の遺品が多く見つかれば良いですね。
十九世紀末、日本では明治新政府が誕生したころのことです。「天皇を中心とした新しい政府をつくるため、政治や社会の改革をすすめました。この改革を明治維新といいます」(小学校社会科教科書より)
このこのころオスマン・トルコ帝国も日本と同じような立場にありました。両国とも同じように国内の改革を進め、対外的にはヨーロッパ列強に対し、平等な扱いを認めさせようと努力していました。当時のアブドル・ハミトニ世は明治天皇への特派使節としてオスマン・パシャ提督を選び、日本に派遣することを決めました。
トルコの使節団総勢六百五十人はエルトゥールル号に乗り込み、約一年をかけ遠路はるばる航海して、一八九〇年(明治二十三年)六月五日に横浜に到着しました。一行は上陸すると盛大な歓迎を受け、明治天皇に拝謁して晩餐会が催されました。
目的を果たした一行は、九月十五日に帰国の途に就くことになりました。
ちょうど台風シーズンに当たるこの時期に出港するのは危険だとして日本の関係者は帰国を遅らせるよう勧めましたが、オスマン・パシャ提督は「私たちはアラーの神に守られ、インド洋の荒波を越えてやってきたのです。心配には及びません」といって出発してしまったといわれています。
運命のいたずらか、エルトゥールル号は神戸に向かって航行中台風に遭い、和歌山県大島の樫野崎沖において難破・沈没してしまったのです。オスマン・パシャ提督を含む五百八十七人が死亡するという大惨事でした。生存者は六十九人で、翌日の未明にかけて岸に流れついた人々は、地元大島の村人に救われました。
この大惨事に対して日本は生存者の救助、介護、犠牲者の遺体・遺品の捜索、船の引き揚げなど事後措置を官民あげて手厚く行いました。義援金の募金が広く行われ、樫野崎に慰霊碑も建てられました。生き残った六十九人は軍艦「金剛」「比叡」により丁寧に送還されました。
イスタンブールの海軍博物館には、今もエルトゥールル号の遺品や日本で作られた追悼歌の楽譜などが展示されています。
この日本の手厚い事後処置にトルコの人達は感激しました。これ以来、今日まで日本とトルコは深い友情で結ばれているのです。(安達弘)
(「教科書が教えない歴史」より引用)
そうでしたか。
教えていただいてありがとうございます。
再放送してもらいたいですね。週に1回位ずつ。
プロジェクトXの中国に無償で提供する360本に
入っているでしょうか。(いないだろうなぁ。)
昔、NHKのプロジェクトXでやっていたそうです。
現在を生きる我々が誇りを持ち、かつ受け継ぐ事が大切ですね。
このような話しは教科書に載せるべきです。
日本人としての誇りも持てるでしょう。
よく正確な沈没位置を見つけたと思います。
出来るだけ多くの遺品が見つかると良いですね。
こういう良い話を知れば若者も自信がもてるようになるのでしょうが・・。
テレビで放送してほしいですね。(やらないだろうけど)
いました。
しかも最初のページに!
このエントリーにも書いてある調査団の事も書いてあります。
近隣の海に暝る沈没船から引き上げた品々がボドルムという所にある
博物館に展示されていますが、エルトゥールル号の遺品も
ボドルムに帰ってくるといいですね。