本当の清洲城跡には 碑と信長を祀った小さなお社
ここで若き日と信長が過ごしたんだなぁ。とか 清洲会議が行われたんだとか、関ヶ原の戦いの前に家康軍がここに集結したんだとか 色々あったんですね。
信長は高いところがきっと好きだったで、この清洲城のあとは 小牧山の上に城を構え、さらに岐阜城もとても高い山の上、安土城も山の上。
高いところから下を見下ろして この世の支配者になりたかったんだなと思います。
信長の人物像が何となく感じられました。
そして、初めて知った言葉は清洲越し。
それは 家康の世になり、家康は尾張の城を清洲から今の名古屋城へ移すことを決めます。
清洲は水害に会いやすく、守りも弱い。
家康は まだまだ西軍がいつ何時も謀反を起こすと疑っていたようです。
そして、尾張に防衛の城を作るため、清洲城と清洲の町まるごと名古屋へ引っ越しさせてしまいます。これが清洲越しと言われます。
とても広くて石垣も大きく、堀もとても深い。
家康にとって脅威と感じてる加藤清正や福島正則らに普請をさせた名古屋城。
また、藩主には自らの息子をおいたことも 完璧な防衛地点として名古屋城をおいたのでしょう。
天下を取ったのちも、いつ敵が江戸に攻めてくるか用心していたことが伺えますね。 去年 姫路城に行った時も、たしか九州 中国地方から江戸に向かって敵がが攻めて来ることを想定して作った城であったし、姫路城城主の妻には秀頼と離縁した千姫を嫁がせているほど、家康は姫路城を大事な拠点としていました。
家康の執念深さ ここに見たり。
この清洲越しで空っぽになってしまった清洲の町は一時衰退しますが、これまた家康の命で 熱田から名古屋城を、経て 中山道の垂井に通じる美濃街道が作られ、その宿場としてまた発展するのです。
お昼はこんな空っ風の寒い日にはやっぱりこれだね♪