桜はまだだが、春になりやっと野山の木々が芽吹き始めた。
茶色ばかりだった森林が少しずつ緑色に変わってきたのが嬉しい。
出たばかりの新芽を食べに、裏庭から続く森の木に小鳥たちがたくさんやってくる。
もう庭の野鳥のエサ台は店仕舞いしよう。
不思議なもので、冬の間あれほどエサ台に来ていた野鳥たちが、最近はさっぱり姿を見せなくなった。
乾燥した粟やヒエより、やっぱり新鮮な木の芽の方が美味しいのだろうなぁ。
ところで話は変わるが、最近よんだ本の中になるほどと思うことが書かれていた。
「読書の効用」について
自分のことは自分が一番知っているようで、実は自分のことが一番わからないという人が多いそうだ。
「自分らしさを見つけよう」とか「自分の得意ジャンルを伸ばそう」と言われても、どうしたらよいのかわからない人も多いと思うが、そんな時は過去に自分がどのような本を読んでいたのかと振り返って見ると良いそうだ。
過去に読んできた本には、自分が目指してきたものが隠されているのだと言う。
自分が何に興味を持っているのか、自分が面白いと思うものは何なのか、自分が好きな世界観はどのようなものなのか、過去に読んできた本は、さまざまな事情を浮き彫りにしてくれるのだという。
たしかにそうかもしれない。
手あたり次第、読んできたようであっても、やはりそこには自分の好みがある。
私は小説やエッセイなら、日常生活の何気ないことを書いたものが好きだ。
それは多分子どもの頃から変わらないのだと思う。
子どもの頃に夢中になって読んでいたのが、ノルウェーの作家アルフ=プリョイセンの「小さなスプーンおばさん」だった。
ほかにも「スプーンおばさんのぼうけん」「スプーンおばさんのゆかいな旅」があり、私はどれもみんな持っていたが、中でも一番好きだったのがこの「小さなスプーンおばさん」だった。
普通のおばさんが、ある日、とつぜんティースプーンほどに小さくなってしまうのだが、おばさんはちっとも動じず「なんてこった」とぶつぶつ言いながらも、「小さくなっちゃったんなら仕方がない」と家事をこなしていく。
なんと動物たちに家の掃除を手伝ってもらい、フライパンやつぼをなだめすかして、出かけているご亭主のお昼ご飯も作ってしまう。
そしてご亭主が帰ってくる頃には元の大きさに戻ったおばさんが何事もなかったように涼しい顔で、おいしそうな昼食をご亭主の前に出す。
さらにほかのお話では、小さくなったおばさんがカラスの会議に出席して、落ちている色々な鳥の羽根を拾って身に着けカラスとおしゃれを競い合ったりする。
小さくなったおばさんにハラハラしたり、胸をなでおろしたり、またおばさんの作るコケモモジャムやパンケーキと言った美味しそうな料理を想像してみたり、スプーンおばさんと一緒にゆかいな冒険に出たりと、あの頃は何度読んでも飽きず、表紙が擦り切れるほど繰り返し読んでいた。
実は知らずに本の中に出てくる登場人物をお手本にしているということがよくあるそうだ。
フィクションだとわかっていても、登場人物の失敗や挫折が他人事とは思えず、「よし自分もがんばろう」と思うのは私も経験がある。
現実に生きる人間をお手本にすることも、もちろんあるのだが、生きている人間は複雑で、それもまた魅力なのだが、小説などに登場する人物は文字で書かれている分、この人物のどういうところが好きかを自分でも把握しやすいのだそうだ。
「どんなふうに人生を歩んでいきたいのか」
「困難にどう立ち向かえばいいのか」
「自分はどんな人間になりたいのか」
このような難しい問いにも比較的明確な答えを出してくれるのが、本の中の登場人物なのだとか。
そして、子どもの頃に読んだ本と言うのは鮮烈な印象を残すことが多く、今はあまり読書をしなくても子どもの頃にどんな本が好きだったのか、どんな登場人物に憧れたのかなどを思い出すと、自分のことが少し見えてくることがあるそうだ。
私もスプーンおばさんのことはすっかり忘れていたが、今思い出してみると、やはり私はスプーンおばさんのようになりたかったのだと思う。
スプーンおばさんみたいに小さくはなれないし、カラスの会議にも出ることはできないが、困難があっても「仕方がない」とたくましく思い、ご亭主においしいご飯を作り、ふつうの何気ない日常生活を大事にしたい。
大人になって、少しはスプーンおばさんに近づけたかな?
いやいや、私はスプーンおばさんほど肝が据わっていないからまだまだだろう。
なんだか久しぶりに「スプーンおばさん」を読んでみたくなった。
茶色ばかりだった森林が少しずつ緑色に変わってきたのが嬉しい。
出たばかりの新芽を食べに、裏庭から続く森の木に小鳥たちがたくさんやってくる。
もう庭の野鳥のエサ台は店仕舞いしよう。
不思議なもので、冬の間あれほどエサ台に来ていた野鳥たちが、最近はさっぱり姿を見せなくなった。
乾燥した粟やヒエより、やっぱり新鮮な木の芽の方が美味しいのだろうなぁ。
ところで話は変わるが、最近よんだ本の中になるほどと思うことが書かれていた。
「読書の効用」について
自分のことは自分が一番知っているようで、実は自分のことが一番わからないという人が多いそうだ。
「自分らしさを見つけよう」とか「自分の得意ジャンルを伸ばそう」と言われても、どうしたらよいのかわからない人も多いと思うが、そんな時は過去に自分がどのような本を読んでいたのかと振り返って見ると良いそうだ。
過去に読んできた本には、自分が目指してきたものが隠されているのだと言う。
自分が何に興味を持っているのか、自分が面白いと思うものは何なのか、自分が好きな世界観はどのようなものなのか、過去に読んできた本は、さまざまな事情を浮き彫りにしてくれるのだという。
たしかにそうかもしれない。
手あたり次第、読んできたようであっても、やはりそこには自分の好みがある。
私は小説やエッセイなら、日常生活の何気ないことを書いたものが好きだ。
それは多分子どもの頃から変わらないのだと思う。
子どもの頃に夢中になって読んでいたのが、ノルウェーの作家アルフ=プリョイセンの「小さなスプーンおばさん」だった。
ほかにも「スプーンおばさんのぼうけん」「スプーンおばさんのゆかいな旅」があり、私はどれもみんな持っていたが、中でも一番好きだったのがこの「小さなスプーンおばさん」だった。
普通のおばさんが、ある日、とつぜんティースプーンほどに小さくなってしまうのだが、おばさんはちっとも動じず「なんてこった」とぶつぶつ言いながらも、「小さくなっちゃったんなら仕方がない」と家事をこなしていく。
なんと動物たちに家の掃除を手伝ってもらい、フライパンやつぼをなだめすかして、出かけているご亭主のお昼ご飯も作ってしまう。
そしてご亭主が帰ってくる頃には元の大きさに戻ったおばさんが何事もなかったように涼しい顔で、おいしそうな昼食をご亭主の前に出す。
さらにほかのお話では、小さくなったおばさんがカラスの会議に出席して、落ちている色々な鳥の羽根を拾って身に着けカラスとおしゃれを競い合ったりする。
小さくなったおばさんにハラハラしたり、胸をなでおろしたり、またおばさんの作るコケモモジャムやパンケーキと言った美味しそうな料理を想像してみたり、スプーンおばさんと一緒にゆかいな冒険に出たりと、あの頃は何度読んでも飽きず、表紙が擦り切れるほど繰り返し読んでいた。
実は知らずに本の中に出てくる登場人物をお手本にしているということがよくあるそうだ。
フィクションだとわかっていても、登場人物の失敗や挫折が他人事とは思えず、「よし自分もがんばろう」と思うのは私も経験がある。
現実に生きる人間をお手本にすることも、もちろんあるのだが、生きている人間は複雑で、それもまた魅力なのだが、小説などに登場する人物は文字で書かれている分、この人物のどういうところが好きかを自分でも把握しやすいのだそうだ。
「どんなふうに人生を歩んでいきたいのか」
「困難にどう立ち向かえばいいのか」
「自分はどんな人間になりたいのか」
このような難しい問いにも比較的明確な答えを出してくれるのが、本の中の登場人物なのだとか。
そして、子どもの頃に読んだ本と言うのは鮮烈な印象を残すことが多く、今はあまり読書をしなくても子どもの頃にどんな本が好きだったのか、どんな登場人物に憧れたのかなどを思い出すと、自分のことが少し見えてくることがあるそうだ。
私もスプーンおばさんのことはすっかり忘れていたが、今思い出してみると、やはり私はスプーンおばさんのようになりたかったのだと思う。
スプーンおばさんみたいに小さくはなれないし、カラスの会議にも出ることはできないが、困難があっても「仕方がない」とたくましく思い、ご亭主においしいご飯を作り、ふつうの何気ない日常生活を大事にしたい。
大人になって、少しはスプーンおばさんに近づけたかな?
いやいや、私はスプーンおばさんほど肝が据わっていないからまだまだだろう。
なんだか久しぶりに「スプーンおばさん」を読んでみたくなった。