ミーロの日記

日々の出来事をつれづれなるままに書き綴っています。

自分のできることをする

2016-08-12 11:40:24 | 介護
関東に住む友人から定期的に送られてくるメールを読んで嬉しくなった。

メールの文面がずいぶん明るくなった。

友人のお父さんが昨年亡くなったのだが、一人暮らしになったお母さんに認知症の症状が出てきたため、友人は実家に泊まり込んでの介護を始めた。

お母さんは以前はとても物静かな人だったそうだが、お父さんが亡くなってからまるで人が変わってしまったのだそうだ。

暴力こそはないものの、娘である友人に対する暴言がひどくなり、友人は精神的にずいぶん参っているようだった。

聞くところによると、お母さんは自分でどこかにしまったものの行方が分からなくなることが度々あり、それを自分の娘が盗んだと思い込むのだそうだ。

そして「泥棒!」「あんたが盗んだでしょう!」というような暴言を浴びせる。
あとからそれが出てきたとしても、けっして自分が置き忘れたとは思わず、「あんたが盗んでここへ置いた」と言う始末。

「いくらなんでも盗んだなんてヒドイでしょ?自分の娘を泥棒扱いするなんて信じられない」と友人が電話でこぼしていた。

「すこし離れた方がいいんじゃない?」と助言したのだが、友人によると、母親と距離を置きたくても、一人にすると何をするのか分からないという心配があり、いつも一緒にいなくてはならないのだそうだ。

お母さんは物忘れはひどいそうだが、なぜか公共の乗り物は一人で乗っていくことができるそうだ。

だから目を離した隙に遠い場所へ行ってしまう恐れがあるのだという。

「母は北海道へ帰りたいといつも言っているから、もしかしたらひとりで飛行機に乗って帰ってしまうかもしれないの。それができる人だから、余計に目が離せない」と友人は言う。

そういわれてみると、今の高齢者は公共の乗り物に乗り慣れているから一人で何でも乗れてしまうのかもしれない。

また運転もできるから車を運転してどこかに行ってしまう恐れもある。

友人が心配するのもよく分かった。

その後、友人からのメールや電話は、どうしようもなくなった時や追い詰められた時に届いた。

連日届くこともあれば、一か月に一度の時もあったが、その文面には「助けて」という文字は無かったが、私には「助けて」と叫ぶ友人の声が聞こえてくるようだった。

義母や父の介護を友人より先に経験した者として、一人で抱え込まず行政に相談してみることをすすめたのだが、友人の腰はなぜか重たかった。

また、明らかに認知症の症状が出ているのに病院で診察を受けていないということも聞いたので、ではまず先に病院へ連れて行った方がよいとも話したが、それについても腰が重たかった。

友人がお母さんを病院へ連れて行くことをためらっていたのは、出される薬に対して不信感があったからだと、私が病院へ連れていく様に勧めるメールを何回か送った後に、友人からの返信メールで知った。

またそれ以外にも、友人自身に自分の母親が認知症だと認めたくない思いもあったようだ。
(病院で認知症と診断されてしまうことに抵抗感があった)

「今の状況を変えるためにも、やはり病院へ連れて行った方がいいと思うよ。薬で不信に思っていることを全て医師に質問してみては?」と何度か勧めた結果、ついに友人はお母さんを病院へ連れて行った。

そこで薬について質問をして、医師のお話に納得し、漢方薬を出してもらうことになったそうだ。

後日、薬を飲み始めてから機嫌のよい日が増えたと、すこし嬉しそうな文面のメールが来た。

それから介護認定を受け、必要なサービスを受けることになり、そして今日のメールは「母が楽しそうにデイサービスに行きました」というものだった。

友人のほっとした様子が手に取るようにわかるようなメールだった。

よかった。私も自分のことのように嬉しい。

いつかは必ず終わることだが、それでもまだ先は長いかもしれない。

「イライラせずのんびりかまえて行きましょうね。どうしようもない時は周りに助けを求めてもいいんだよ」と返信した。

これは友人に対してだけではなく、自分自身に対しても言い聞かせるようなつもりで書いたと思う。

そう・・・周囲に「助けて」と言うことは決して恥ずかしい事でもなんでもなく、みんなで助け合えばいいのだ。

助ける方も、別に大げさなことをしなくても、自分のできることをすればよいだけ。

これからは、自分のできる範囲で困っている人を助けることが自然にできる社会になっていくのだろう。

そうなって行けばよいなぁという期待も込めて・・・








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いつか行く道。持って歩くものは・・・

2016-07-05 15:36:09 | 介護
高齢者住宅に住む父の所に行って来た。

言葉が出なくなってきた父が少しでも声を出すように、車椅子に乗った父を挟んで食堂の椅子に座り、妹と二人で必死に話しかけていたら、歩行器につかまりながら歩いて来たおじいさんが音もなく後ろに現れたので驚いた。

いつの間にか近づいて来ていて、気づかない間にそばに立っていたのだ。

ぼーっとした精気の無い表情のおじいさんは、きっと認知症なのかもしれない。

おじいさんが抑揚のない声で「これ、なんだかわかるか?」と言った。

指さす方を見ると、おじいさんの使っている歩行器にハンガーにかけた洋服がぶら下がっている。

紺色で腕の部分に金色のリボンがついているブレザー。中には同じ布地のズボンも見えた。

「あッ、どこかの制服ですよね!消防か警察かな?」

そう答えると、おじいさんは「青函連絡船」と教えてくれた。

「おじさん、青函連絡船に乗っていたんですか?」と言ったら、おじいさんは「そうだ!」と少し大きな声で胸を張って答えてくれた。

青函連絡船は昭和63年頃まで函館と青森の間を運航していた。

昭和63年に青函トンネルが開通するまで、津軽海峡を渡る青函連絡船は北海道と本州を結ぶ主要な交通ルートだった。

そして、そんな連絡船には私も中高時代の修学旅行で何度か乗った。

「青函連絡船の乗組員だったんですかぁ、おじさん、すごいなぁ~。私も乗りましたけど、その時に船を動かしていたのは、もしかしたらおじさんだったんですね!」と言うと、おじさんの目がキラキラしてきた。

「でも連絡船に乗ると、わたし必ず船酔いしていたんです」と私が言い、妹が「私も!最初は甲板に出て海とか見ているんだけど、そのうち気持ち悪くなってきて、ずっと寝ていました」と言ったら、おじいさんが初めて大きな声でケラケラ笑った。

そんな話をおじいさんとしていたら、職員さんがおじいさんを迎えにきた。

そして「○○さん、青函連絡船の話をしていたの?よかったわね~」と言って、おじいさんの背中を支えながら行ってしまった。

おじいさんにとって青函連絡船で働いていたことは、きっと人生の中で忘れられない出来事なのだろう。

というか、それがすべてと言ってもよいくらいなのかもしれない。

そう思っていたら妹が「私が歳を取ったら、何をぶら下げて歩くんだろう・・・」と言った。

「そうねえ、何だろうね。しゃもじとお玉とか?」そう言ったら、妹は「そうかも!」と言って笑った。

家族に食べさせることに情熱を注ぐ妹なので、歳を取って料理を作れなくなっても料理器具は持ち歩いているかもしれない。

じゃあ、私は・・・と考えると、掃除が好きなので掃除機を引っ張って歩いていたりして。
いやいや、歳を取ってからは筋力が衰えて掃除機を引きずるのも難しいかもしれないから、せいぜいモップくらいにしておこうかしらん。

その日、仕事から帰った夫に青函連絡船の乗組員だったおじいさんの話をした。

すると、やっぱり夫も同じことを言った!

「俺は何をぶら下げて歩いているのだろう」

人生の折り返し地点を過ぎると、みんな自分に置き換えて考えてみるものですね。

いつか行く道。





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父の歌

2016-06-21 15:17:11 | 介護
先日、妹と娘を連れて、高齢者住宅に住む父に会いに行った。

行った時はちょうどカテーテルで導尿をする時間だったようで、父はベッドの中で横たわっていた。

導尿が済んだところで、皆で父のベッドの横に座り、父の顔を見ながら話しかけた。

父は眠っておらず目はしっかりと開けているのだが、声を出すことはほとんど無くなってしまった。

ただこちらが話すことは分かっているようで、軽くうなずいて答える。

と言っても、あれっ?と首をかしげることにもうなずくので、とりあえず全ての質問にうなずいているのかもしれない。

レビー小体型認知症が進んでいるためか、手に震えが見られ、顔も無表情になってきたのが気になった。

そんな中で、珍しくもとても嬉しそうな笑顔を見せてくれた時があった。

私が父の姉である伯母のこと、そして夫の母であるお姑さんの話をした時だっただろうか。

伯母とお姑さんは共に89歳で父よりも3つ年上なのだが、身体は元気なのでいつも動き回っている。
(だから周囲はいつも目が離せないということもあるのだが・・・)

「伯母さんもお姑さんもとっても元気だよ。お父さんの方がまだ若いんだから頑張らなきゃね」
そう言ったら、それまで表情の無かった父が目を細めて顔をくしゃくしゃにして笑ってくれた。

そして笑顔のまま、父はしばらく私の顔を見つめていた。

と、その瞬間、急に父は目を大きく見開き、まるで驚いたような表情になったかと思ったら、今度は自分で起き上がろうとするように身体を動かし始めた。

その間も大きく見開いた目はじっと私を見つめたまま。
動かない身体を一生懸命うごかして私の方へ向かって来ようとする。

「お父さん、どうしたの?苦しいの?」

あまりにも突然の父の様子に、そばにいた妹も驚いて父に声をかけた。

父はすこし我に返って、初めて首を横に振った。

よかった。心臓が苦しくなったのではなかったようだ。

それからもしばらく私の方を不思議そうに見つめる父の様子に、もしかしてまた幻視でも見えたのだろうかと思った。

レビー小体型認知症は、そこに無いものが見える幻視が症状のひとつだと言われる。

高齢者住宅に入ったばかりの頃、今から3年くらい前には父にも幻視が現れ「部屋の中に二人組の男が入ってくる」とよく言っていた。

その後は投薬のおかげで幻視はまったく見えなくなっていたのだが・・・いったい父は何を見ていたのだろう?

もしかしたら、私を亡くなった母だと思ったかな??

私は母によく似ていると言われていた。

母が亡くなった時、父は56歳。
単身赴任が多かったので、「お母さんと一緒に暮らした時間は本当に短かった」と、葬儀の時、父はそう言って泣いた。

母が亡くなってからも、父は仕事に日々忙しくしていたが、暇な時に短歌と俳句を作っていた。

「妻の里 心ひかれて 車旅 主(ぬし)無き家に 一人たたずむ」
(父は、車で6時間もかかる母の実家へひとりで行ったのだろう。母の実家は、当時誰も住んでいない空き家になっていた)

「在りし日の 楽しき姿 夢うつつ」

「妻去りて 嘆きの日々で 春を待つ」

「妻の愛 おそき想いと 今に知る」

「ふたり旅 楽しき想い 今は夢」

「ひとり旅 知らぬ夫婦(めおと)が 羨まし」

父は母の死後、何年もの間、母への想いを綴った歌を多く書いている。

あらためて父の作った歌を読み返しながら、家族に対しても、周囲の人たちに対しても、後悔しないように接していこうと思う。

私たちはいつか必ず死ぬのだから。







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こだわり

2016-05-18 17:50:21 | 介護
「お母さん、チョット、チョット」

お姑さんの部屋の前を通りかかった時、ドアを開けて顔を出したお姑さんがそう言って手招きした。

部屋の中に入ってみると、テーブルの上にはたくさんの仏具とお線香が燃えた後の灰があった。

「お母さんに教えておこうと思って。仏具を磨く時は、こうして灰を使って磨くのよ」

そう言いながらお姑さんは古布に灰をつけて、灰で指先を白くしながら金属の仏具を磨いて見せてくれた。

「私が死んだらもう教えられないから、今のうちにお母さん(私のこと)に教えておこうと思って。こうやって磨いて頂だいね」

「はいはい。分かりました。灰で磨くんですね」と答えると、お姑さんは「お願いね」と言ってにっこり笑う。

この会話、前もしたような・・・というか灰で仏具を磨くということをお姑さんが教えてくれたのは、もう数えきれない。

お姑さんは香炉の灰が増えてきた時に仏壇にある仏具を磨いているのだが、ほとんどその度ごとに私か孫の誰かを呼んで先と同じ会話をする。

認知症で少し前のことを忘れてしまうことが多いのだが、同じことを繰り返すのは、それがお姑さんにとってこだわっている部分だったり気になっていたりすることなのだ。

だから信心深いお姑さんにとって仏具を磨くことは、非常に大切なことなのだと思う。

それにしても灰で手を白くしながら仏具を磨かなくても、今は良い金属クリーナーが売っているのだが、お姑さんは頑として灰で磨くことにこだわっている。

子どもの頃からお寺のお手伝いをして育ったお姑さんだが、仏具を灰で磨くのはその時に習ったのだそうだ。

そして90に手が届きそうな年になっても、それを守り続けている。

たしかに細かい粒子の灰は金属に傷をつけることなく磨けるのだろうと思うのだが、私はできれば市販のクリーナーを使いたい。

新聞紙を広げ、いちいち灰をつけて磨くのは後始末が大変そうだから・・・なんてことはお姑さんには決して言えないので、いつも「はい、分かりましたよ」と返事をしている。

ところでお姑さんの部屋から戻ると、私もそろそろMy香炉の掃除をしなければいけなかったことを思い出した。

毎日お線香を焚いていると中に燃え残りが溜まってくるので、定期的に灰の中に残った小さなお線香の燃えかすを取り除いている。

実は私はこの作業がとても好きなのだ。

割り箸を使い、灰の中から小さなお線香の残りをつまみ出していく。

割り箸で一つずつつまみ出さなくても、網目になっていて一度に沢山の燃えかすを取ることのできる道具があるのは知っているのだが、私はあくまでも割り箸を使うことにこだわっている。

箸で灰の中を探ると、こつんと箸先に当たる感触がする。

「あった、あった」

灰をかき分けながら割り箸で小さなお線香をつまみ出す。

「もう無いかな」と最後に香炉の中をお箸でぐるっとかき混ぜる。

そして、無いと思っていたのに隠れていた最後の一本を見つけた時の嬉しさ。

やはり箸に勝るものはない・・・

まぁ暇だからこのようなことをやっているのですが、ひとり静かにじっくりとお線香の残りを取り出している時間がこの上なく好きなのです。

その時に何を考えているのかと言うと、数を数えているので何も考えていないです。

「ひと~つ、ふた~つ・・・」と頭の中で取り出したお線香の数を数えている。

だから「便利なものがあるよ」と誰かが教えてくれたとしても、今のところ私は割り箸を使うことにこだわっている。

あっ、これって灰を使うことにこだわっているお姑さんと同じかもしれない。

長く一緒に住んでいるとお姑さんとも似てくるのかな~








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続・父を病院へ連れて行く

2016-05-13 17:22:48 | 介護
昨日の記事で身体の不自由な父を車に乗せることに苦労して、今度は介護タクシーを使ってみようと書いたばかりなのだが、今日さっそく介護タクシーを使うことになってしまった。

昨日の夕方、このブログを書き終えてすぐに、父の住む高齢者住宅の看護師さんから再び電話をもらった。

大便の詰まりが改善されれば排尿しますという話だったのだが、まだ尿が出ないと言う。

看護師さんが処置をして下さり、すっかりお腹の中が綺麗になったはずなのに、水分もたっぷり飲んでいるはずなのに、一向に排尿がなく、再びカテーテルを使って尿を出しているとのことだった。

看護師さんは「明日の朝、まだ排尿がなければ、もう一度泌尿器科に連れて行ってください」とおっしゃった。

そして今朝、やはり排尿がないとのことで再び病院へ連れて行くために、父の元へ行った。

「今日はぜったいに介護タクシーを使おう」と決めていたのだが、高齢者住宅の職員さんが私が父を車に乗せるのに苦労していたことを知って、介護タクシーを予約してくれていた。

結論から書くと、介護タクシーを使って大正解だった。

介護タクシーは父を車椅子のまま車に乗せてくれて、私は助手席に座ったまま何もすることなく病院まで連れて行ってくれた。

そして料金も思っていたほど高額ではなく、これなら最初から介護タクシーにすればよかったと思うほどだった。

ただし、ほかの地域はどうなのか知らないが、介護タクシーは個人でやっているため車数が少なく、呼べばすぐに来てくれるとは限らないので事前に予約をした方が良いそうだ。

ということで、先日の苦労はなんだったのかと思うほど、楽に病院へ連れて行ってもらったのだが、肝心の父の病状は少しショックなものだった。

「今後、自力で排尿することはできないかもしれない」と医師からは言われた。

排尿ができないことによって一時的に膀胱が大きく広がり、高齢者の場合、広がった膀胱内部の筋が切れて元に戻らなくなってしまうことがあるそうだ。

父の膀胱もその可能性があるということ、つまり排尿する機能が失われてしまった可能性があるということだった。

そうなると残された道は、看護師さんに定期的に尿を取ってもらうか、排尿バルーンカテーテルというものを四六時中つけているかの選択になるそうだ。

しかしバルーンカテーテルは感染することも多いため、できれば定期的に尿を取ってもらう方が良いそうで、父の高齢者住宅の看護師さんが「一日に二回なら取れます」とおっしゃってくれたので、しばらくは看護師さんにお願いすることになった。

それにしても、父の身体はすべての機能が衰えてきているのだと思う。

この1~2年で認知症も身体の機能も急激に悪くなった。

最近では声を出すこともなくなり、目もうつろになって、元気だった頃の父の面影は薄れてしまっていた。

ところが、今日は介護タクシーに乗った父の様子に変化があった。

介護タクシーが快適だったせいなのか、父はめずらしく外の景色を眺めていた。

そして、なんと珍しく父がしゃべった。

「この辺りはよく来たなぁ。ホームセンターもあるはずだが。思い出せないなぁ」

父の話す言葉、久しぶりに長い言葉を聞いてびっくりした。

道沿いの家々の庭に咲く花や遅咲きの桜を見て、昔来たことのある場所と記憶が重なったのだろう。

自力での排尿ができないと聞いて、すこし暗い気持ちになっていたのだが、父の声を聴いて明るい気持ちになれた。

今度は介護タクシーに乗って、住み慣れた実家に父を連れて行ってあげようかなと思っている。







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父、病院へ連れて行く

2016-05-12 15:51:27 | 介護
朝食の片づけを終えて、さて掃除に取り掛かろうかと思っていたら電話が鳴った。

電話に出ると、父がお世話になっている高齢者住宅の看護師さんからだった。

「朝早くすみません。お父さんのことなんですが・・・」

このフレーズから始まる看護師さんの電話にはいつも緊張が走る。

看護師さんのお話の続きを待ちながら「父に何かあった?今度はどうした?」そんな思いが頭に浮かぶ。

「お父さんのおしっこが出なくなってしまったんです。腹部が腫れて本人も痛がっているため、カテーテルを使って尿を取ったのですが一度に1400CCも取れました。その後も出ていないので、また溜まっていると思います。
先生(父の主治医)に診てもらい血液検査もしたところ一部に異常もあったので、ご家族に来ていただいて、すぐに泌尿器科を受診してほしいのですが」と看護師さんがおっしゃった。

父の高齢者住宅には内科の先生が定期的に往診してくれるのだが、病院に行かなければいけなくなった時は家族が連れて行かなければならない。

内科であれば高齢者住宅の隣にあるので、自力で動くことができない父を車椅子に乗せたまま連れていけるのだが、今回連れて行くのは泌尿器科。

泌尿器科はすこし遠いので車を使わなければならない。

身体が不自由で、また身体が大きい父をはたして車椅子から車に乗り移らせることができるだろうか・・・
一瞬不安になったが、そうは言っても一刻も早く病院に連れて行かなければいけない。

急いで車を走らせ高齢者住宅に父を迎えに行くと、父は元気なく車いすに座っていた。

「お父さん、やっぱりおしっこがまったく出ないんです」と看護師さんが教えてくれた。

父は二年ほど前に前立腺肥大で手術を受けている。

その時もおしっこの出が悪くなったので、もしかしたらまた前立腺が悪いのかもしれない。

さっそく父に上着を着せ、車椅子のまま駐車場に止めている車まで連れて行った。

さて、車に乗り移らせることはできるのだろうか。

まず父に大声で車に乗って病院へ行くことを知らせた。

「お父さん、病院へ行くよ。だから車に乗ってねー!頑張って自分で足をあげて乗ってねー!」

父に少しでも協力してもらわなければ、身体の大きな父をひとりで抱えて車に乗せることなどできない。

「まず一人で立ってみて」「そうそう、ここにつかまって」「お尻を車に向けて」

父も自分で身体を動かそうと必死に努力しているのが伝わってくるのだが、すべての機能が落ちているため、立つこともつかまることも、座ることも、ほんの少し足を上げることも介助が必要で、少しでも介助の手をゆるめると倒れてしまいそうだった。

外はあいにくの雨。

徐々に雨足が強くなってきたのだが、傘をさしたくても両手がふさがっていてさせない。

濡れないように父に帽子をかぶせるのが精いっぱいで、もう雨を気にしている余裕はなかったが、父の身体を支えながら、なんとか父を車に乗せることができた。

やっと父を車に乗せると急いで泌尿器科のある病院へ向かった。

カーナビを使ったので、初めてでも難なく病院へ着くことができた。

ところが車を止めて、はたと気づいた。
今度は父を車から降ろして車椅子に乗せるという、先ほどの逆バージョンをしなければいけないのだったわ。

そこは駐車場が狭く、しかも混んでいたため、一台だけ空いていた駐車スペースに入ろうと思ったのだが、入ってしまうと父を車から降ろすことができなくなる。

他に父を降ろせる場所はないかと周囲を見渡したが、交通量の多い道路沿いなので難しい。

そこで仕方なく駐車場が空くまで、しばらく待つことにした。

車の後部座席でぐったりとして目をつぶっている父の様子が気になった。
これだけでも父の負担は大きいのだろう。

それからまもなく何台かの車が駐車場を出て行ったので、また悪戦苦闘しながら父を車椅子に移し、やっと病院へ入った。

・・・のだが、病院は非常に混み合っていて受付から一時間以上を待ち、やっとCTを撮ってもらうことになった。

CTを撮ってからさらに待たされ、やっと診察室に入ったら、お医者さんが難しい顔をして何枚も並んでいる父のCTの写真を眺めていた。

そして私たちが椅子に座ると、静かに語り始めた。

「これはですねぇ、便ですね。ここ、見てください。ここに大便が詰まっているんですよ」

父のCT写真には腸に詰まっていると思われる黒い塊が写っていた。

「溜まった大便が膀胱を圧迫して尿が出なくなっているんです。前立腺に問題はありませんから、便を取り除けば尿が出ます」とのことだった。

「もしかして、また入院するのかも」と思っていたので、便が詰まって尿が出にくくなっているだけと聞いてホッとした。

便を取るのはいつも診て頂いている看護師さんがやって下さることになったので、薬が出ることもなくそのまま高齢者住宅へ戻ることができた。

父を車に乗せたり降ろしたり、また長い待ち時間などでずいぶんと時間がかかり、私も疲れたが父も疲れたと思う。

そこで、今度は「福祉タクシー」というものを利用してみよう。

なんでも車いすのまま車に乗ることができるのだとか。

車の移動が楽にできたら、病院へ連れて行くのも苦労はない。

ホントにいろいろと勉強になります。。。






 

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泣くこと

2016-05-06 17:08:29 | 介護
月に一度程度だが、メールでお互いの安否確認?をしている友だちがいる。

中学1年の時からの付き合いだから、かれこれ40年以上の付き合いになるだろうか。

高校から離ればなれになったが、それでも細々と付き合いは続いて今日まで来た。

彼女は20代前半で結婚して本州に行ってしまったのだが、たまに帰省した時には会い、そして電話でも年に何度かは話をしていた。

話題はお互いの子どものことや自分自身の近況などだったが、いつしか年月が経つにつれ親の介護の話題が多くなった。

私も実の父やお姑さんの介護があり、彼女は一人娘だったので、数年前に近くに呼び寄せたご両親の介護をしていた。

友人のご両親はまだお元気で、二人だけで生活をしていると聞いていたのだが、一か月ほど前、友人からのメールでお父さんが亡くなったとの知らせを受けた。

なぜ亡くなったのか、その理由は書いていなかったが、ただ淡々と亡くなったとの知らせが書かれていた。

お悔やみの返事を出し、きっと彼女も忙しいだろうと思い、しばらく連絡は控えていたのだが、数日前に友人から「電話で話せる日時を教えて」とメールがあった。

「今でもいいよ」と返信をしたら、すぐに電話が来た。

思ったより元気な声で、お父さんのこれまでの病状などを教えてくれた。

友人の話によると、ある時から急にお父さんにふらつきが見られるようになったそうだ。

受診した病院で調べてもらっても脳や身体に異常は見つからず、「もう高齢だから仕方がない」と言われたそうだ。

友人のお父さんは90歳を過ぎていて、そのように言われるとそうなのかしらと友人も思っていたそうだが、そのうちに顔面の麻痺や手足のしびれなどが現れ、病状はあっという間に悪くなっていったのだとか。

そして「これはおかしい」と再び検査をしてもらったところ、脳の中にかなり大きくなった腫瘍が見つかったそうだ。

腫瘍は短い期間に大きく育ったらしく、年齢もあって手術はできず、手の施しようがない状態だったという。

お父さんはそれからどんどん衰弱していかれ、ほぼ寝たきりで食事が口から取れなくなったが、意識ははっきりとしていたので「口からごはんが食べたいなぁ」としきりにおっしゃっていたと、友人は涙声で教えてくれた。

実は友人のお父さんと同じように高齢者で「腫瘍が急に大きくなった」という話は、友人の話を聞く数日前に久しぶりに訪ねて来た親戚からも同じような話を偶然にも聞いていた。

親戚の女性は80代だが、足の付け根にできた出来物が短期間に急に大きくなり、慌てて病院に行ったところ悪性の腫瘍であったそうだ。

幸い親戚は手術で取り除くことができたが、歩くのもやっとといった状態でつらそうだった。

「なぜもっと早く病院に行かなかったの?」と聞いたところ、本当に短い時間で急に大きくなってしまったそうだ。

高齢になると腫瘍などの進行は遅くなると思っていたが、実はそうでもなかったということを知った。

さて友人との電話だが、残り少ない命になったお父さんの介護を精一杯しようと毎日病院へ通って一生懸命にお世話をしたそうだが、やはり亡くなってみると、どんなに介護をしたつもりでも後悔の気持ちばかりが出てくると言っていた。

「もっとこうしたほうが良かったのではないか?ほかにやってあげられることがあったのではないだろうか?」

そんなことばかり考えると言って友人は泣いた。

電話口でしゃくりあげながら泣く友人に、そばに居たら背中を撫ぜてあげたかったが、電話ではそれもできないので、ただひたすら友人の想いを受け止める気持ちで友人の声に耳を澄ませていた。

いくら長生きだったと言われても、親の死はいくつになっても悲しいものだ。

ましてや友人は、子どもの頃からお父さんが大好きだったのだそうだ。

ひとしきり泣いたあと、友人の声は心なしか元気になっていた。

「これからしなければいけないことが山のようにあるから頑張るわ!」と言って、最後は明るく電話を切った。

「泣く」と言うことはけっして悪いことではない。

実は泣くというのは笑うことと同じ効果があるのだとか。

泣くことで副交感神経が優位になり、血管が拡張して血圧が下がる。

泣くとホッとして心が和らぎ、爽快感が得られると言う。

だからいっぱい泣いて、友人もすこし元気になったのでしょう。

たまには子どものように思いっきり泣いてみるのもいいのかもしれないと思う。









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木を切ったのは

2016-04-05 16:09:53 | 介護
しばらく行っていなかった父の所へ行って来た。

私が旅行で留守をしていた間、妹が行ってくれたのだが、父の脈拍数が高くなり、さらに血便も出始めたとのことだった。

ただ父は意識もはっきりしていて元気なので、今後の治療については後日、担当の医師からお話を伺うことになった。

さて私が父の所に行くと、父は珍しくベッドに寝ていないという。

じゃあ父はどこにいるのかな~?と探したら、車いすに座ったまま、テーブルに顔を突っ伏して寝ていた。(どおりで父を見つけられなかったわけだ)

職員さんが「娘さんが来てくれましたよ」と言って父を起こしてくれた。

眠っていた父がゆっくりと顔をあげたら、父の顔に赤く手の跡がついていた。

長く寝ていたのだろうか。

とりあえず父の部屋に車いすのまま連れて行って、そこでお話をすることにした。

職員さんからは「最近、ほとんど声を出さなくなったのでお話をさせてください」とお願いされた。

父に向っていろいろな話をしたが、にこにこと笑ってうなづくだけで、やはり職員さんがおっしゃっていたように自ら声を出して話そうとはしなかった。

そこで、父の大好き(だった)な話をすることにした。

それは父の過去の栄光ともいうべき、働いていた頃の話題だった。

すると父は「そうそう、そうだったな」と言って、当時の様子を話し始めた。

思った通り、話に乗って来た父の様子に「やっぱりお父さんは仕事が好きだったんだね~」と思った。

ずいぶん話の内容は変わっていたが、これも認知症の影響だと思えば仕方がない。

ちなみに父は男性の職員さんやお客さんが来ると、たちまちシャキーンと元気になることが多い。

これも働いていた頃の記憶がそうさせているのかもしれない。

父は70代半ばまで現役で働いていたのだが、当時の仕事関係の方は男性が多く、それで男性と話をする時にはしゃっきりするのだろう。
まるで今でも仕事をしているかのように・・・

しかし、やはり確実にいろいろな問題は起きてきている。

今、父はもう自分ひとりでは立ち上がって歩くことができないのだが、なんと夜中にひとりでベッドから降りると這って冷蔵庫まで行き、中に入っているものを食べてしまうのだそうだ。
(食べ物に対する執着がすごいと思う)

父は血糖値が高いので食べ物の制限をしているし、寝ている時には入れ歯を外しているので、食べた物を喉に詰まらせてしまう恐れがある。

そこで、今後はかわいそうだが冷蔵庫には何も入れないことにした。

また歩けなくなって自分でトイレに行くことができなくなったので、今はオムツにしているのだが、夜中に自分でオムツを外してしまうのだとか。

しかし、汚れたオムツを布団の中で外すと悲惨な状態になる。

寝間着も布団も汚物まみれ。

布団は中に汚物が浸み込んで洗濯しても臭いが取れないし、そもそも布団の洗濯が難しい。

そこで今までは羽根布団を使っていたのを、洗濯が簡単な木綿の布団に変えた。

ただ父がオムツを外したくなる気持ちもわかるような気がする。

きっとオムツの中に汚物が溜まるのが気持ち悪いのだろうと思う。

こまめにおむつ交換をしてあげられれば良いのだろうが、夜中は特に人手が少なくなっているので難しいようだ。

夜中はこんな具合に職員さんたちに大変なご迷惑をおかけしているが、昼間、私たち家族と話す父は穏やかで、甘いものも「血糖値が上がるからひとつね」と話すとちゃんとわかってくれる。

ただ、どんどんと変わっていく父を見ていると、やはり一抹のさみしさを感じる。

あんなに昔はしっかりしていたのにとか考えてね。

そうそう、我が家にはもう一人高齢者がいる。88歳のお姑さんだ。

やはり女の方が元気なのか、身体はいたって健康で今もちょっとした料理や裁縫をする。

・・・のだが、やはり認知症の症状はだんだん進んできていると思うことがある。

このところの暖かさで庭の雪はすっかり溶け、先日は庭木の雪囲いを外した。

雪囲いを外したのは私がやったのだが、今日外出から帰ってきたら、お姑さんがやって来て「木をもう切らないでくれる」と私に言った。

その言葉でピンと来た。

お姑さんが言っている木を切ったのは夫で、昨年、夫が何も考えず木を切ってしまった為、いつもは花をつける木が昨年は花をつけなかった。

毎年、花を楽しみにしていたお姑さんはがっかりして、しばらく気落ちしていていたのが昨年のことだった。

そして、お姑さんは何度も夫に「もう切るな」と怒っていたのだった。

冬になり雪で木が見えなくなると、お姑さんは木を切られたことも誰が切ったのかもすっかり忘れていたのだろう。木のことは何も言わなくなったのだが・・・

ところが、春になって姿を現した木を見て「木を切られた、それも最近。切ったのは庭の手入れをする嫁に違いない」と思い出したのだ。

そこで私は「今年は木を切っていませんよ。木を切ったのは○さん(夫の名)で、○さんにはもう切ったらだめだよと言ってあります。だから今年は花が咲くかもしれませんよ」とお姑さんに話した。

お姑さんは「そうかい、てっきりお母さん(私のこと)が切ったのかと思った。すまなかったね」と言った。

これでしばらくは納得してもらえるかもしれないが、またお姑さんはそんなことを忘れて同じことを言い始めるのだろうなぁ~

同居し始めたばかりの頃の私ならば「もう私のせいにしてー!!ぷんぷん」と怒っていただろうが、今はそんなことも面白く思える。

面白いなんて言ってられないのかもしれないが、年を取ると人間いろいろなことをしたり、言ったりするようになるのだなぁ。

私はそうならないぞ~!!

なーんて今は思っているが、わからないですね・・・こればかりは。












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気をつけて帰れよ

2016-03-22 14:10:36 | 介護
先日、関東に住む弟が父を見舞うためにやって来た。

弟が父の見舞いをする時間を聞いていたので、あとから私と妹も父の所へ行ったのだが、父がとても元気になっていてびっくりした。

顔色も良いし、目に力があって、会話もすこしできるようになっていた。

ただ前回(昨年秋)に弟が来た時よりも、今の父はずっと弱っているので、いくら私と妹が「今日のお父さんはとても元気だね」と言っても弟にはピンとこなかったかもしれない。

でも父は弟がお土産に持ってきたおせんべい一枚をバリバリと食べ、甘酒をおいしそうに飲み干した。

食べ終わると、父は「こっちへはよく来ているのか?」と弟に聞いた。
(父がこのように長い文章をしゃべったのは久しぶりで、私達にとっては驚きだった!)

どうやら弟が仕事で戻ってきていると勘違いしているらしかった。

弟が「うん」と返事をすると、父は満足そうに「なんたって工場長だもんなぁ。偉くなって、大したもんだ」と言った。

ちなみに弟が「工場長」というのは事実ではなく、どこから工場長が出て来たのか分からないが、いつからか父は弟がどこかの工場長だと思い込んでいる。

弟もそれは分かっていて、あえて否定はせず「うんうん」とうなずいていた。

父はもうベッドからは起き上がれないが、ぽつりぽつりと話す父を囲んで他愛のない話をし、そして帰り際にみんなで写真を撮った。

「気をつけて帰れよ」と弟に向かって何度も言う父に手を振りながら、弟はとても悲しそうな顔をしていた。

久しく父と会っていなかった弟にとって、今の父の姿はやはりショックだったのかもしれない。

しかし私と妹にとっては、ずいぶん元気になった父の様子が嬉しかった。

元気になっていた父を見て、弟とは逆に私はすこし安心したので、これで心置きなく次女ピーチと一緒に大学のある街へ引っ越しの手伝いに行くことができる。

今はピーチが戻るさみしさ半分、出発前の慌ただしさ半分といった感じでしょうか。

「気をつけて帰って」

いつもならば父と同じことをピーチにも言って送り出すところだが、今回は一緒に行くのでそれは言わない。

さて、準備に取り掛かるとしましょうか。










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父、退院

2016-03-17 15:23:34 | 介護
一週間足らずの入院だったが、父が退院することになった。

400もあった血糖値は通常値に下がり、ひどかった貧血も800CCの輸血で改善された。

退院する日の朝、病室に迎えに行くと父はすっかり顔色が良くなって、ベッドの中で目を開けていた。

「おとうさん、今日は退院だよー!」

そう呼びかけると軽くうなづいたような気がしたが、どうも反応がいまいち鈍い。

そして、まるで幼子のように、きょとんとしたような、びっくりしたような顔で、私の顔を見つめ続けた。

「えっ、まさかこの人だれって思っているわけじゃないよねぇ」
思わず忘れられたかと心配になった。

そこで「私のこと、わかる?」と聞いたら、今度は、はっきりとうなづいてくれたので安心した。

看護師さんが父の着替えをして下さっている間、主治医の先生から父の病状についての説明を受けた。

先に書いたように血糖値も貧血も改善したとのこと。

しかし、またこれらは繰り返す可能性があること。

血糖値についてはこれから糖尿病食にして、あとは服薬だけでインシュリン注射の必要はないとのこと。

そして、父の楽しみである「甘いもの」は一日に一つなら飲んだり食べたりしても良いそうだ。

ただし、これが若い人ならば甘いものは厳禁というところだそうだが、父の場合は高齢なので残り少ない人生、好きなことをさせてあげたいということで甘いものOKがでた。

「甘いものを食べて血糖値が上がったら薬で下げますから、食べたいときは食べさせてください」とのことだった。

ひどい貧血は下血はしていないようだが、ほかからの出血がないのか、本当なら調べるところだが、父の身体が検査には耐えられないとの判断で、このまま様子を見ることになった。

「たぶん老衰で血液を作る力が弱まっているのではないでしょうか?」とも先生はおっしゃった。

そして「もしもまた貧血がひどくなったら輸血をしましょう」とのことだった。

それにしても、今の医学は進んでいる。

これじゃ、老人になってもなかなか死ぬことができないんじゃないかと思う。

父の脈拍が下がったとき、まるで眠っているかのような顔で、ただ体がだんだん冷たくなっていった。

お医者さんも「あの時危なかったですね~」とおっしゃったが、まさにあの時、父はあのまま自然に苦しむことなく逝けたのだと思う。

これが自分ならと考えると、もう治療はいいから苦しまずに逝かせてほしいと思うかもしれない。

ただ、家族となると、とにかく生きていてほしいという想いが出てきて、父が元気だったころ話した「延命治療してでも生きたい」という言葉を守ってできる限りの治療をお願いしている。

さて病状の説明を受けて帰ろうとしたら、廊下で父にペースメーカーを入れて下さったお医者さんとばったり出会った。

お医者さんは私の顔を見ると「お父さん、お元気になって良かったですね。やんちゃすぎるくらい、お元気になりましたね」とおっしゃった。

「やんちゃとは、はて??」

疑問符が頭の中を巡った・・・

私や妹が接している父はやんちゃどころか、ぐったりとうなだれて弱々しい父のはずだった。

あとで看護師さんからお話を聞いたところ、父の肌が荒れているので薬を塗っているそうだが、それが痛かったらしく、父は塗るのを嫌がって暴れた?そうだった。

あぁ、やはり認知症の方も進んできているのだなと思った。

前に認知症を見て下さった医師から「暴れたりしませんか?」と聞かれたことを思い出した。

父はレビー小体型認知症だが、症状が進むと暴力や暴言が出てくることもあるのだとか。

幸い、父は今までそういったことは全く無かったが、嫌な事(薬を塗る)をされてつい暴れてしまったのかもしれない。
これが認知症ではない父ならば我慢できたことが、今は脳の抑制が効かないのだろう。

やはり身体も脳も徐々にだが限界を迎えつつあるのだろうと思う。

さて、今週末に関東から弟がひさしぶりに父の様子を見にやってくることになった。

いきなり弱っている父の姿を見せると弟のショックが大きいと考えて、妹が時々父の写真を送っているそうだ。

弟は離れていて、まして仕事もあるので、なかなか父に会いに来ることができない。

弟も父のことが心配だろうとは思うが仕方がない。

それを思うと、父のそばにいて様子を見ていられる私や妹は幸せだと思う。

週末は父の所でひさしぶりに姉弟が集まることになっている。

今後のことなどを姉弟で話したいと思っている。









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食べる!?

2016-03-11 15:46:47 | 介護
父がまた入院することになった。

ペースメーカーを入れてすこし元気を取り戻したかのようだったが、また調子が悪くなり一日中眠っているような状態になってしまった。

検査をして頂いたところ、なんと血糖値が400を超えているとか。

血糖値は正常時で高くて100くらい、糖尿病でも200を超えるとかなり高い方なのだそうだが、父の血糖値はそれを遥かに超えていた。

また貧血もひどく、ペースメーカーを入れた心臓には問題なかったが、弱っている原因は高い血糖値と貧血ではないかとお医者さんはおっしゃった。

そこで血糖値と貧血の治療のために入院することになった。

さっそく入院手続きのために病院へ行き、医師から父の詳しい状況とこれからの治療についてのお話を聞いた。

血糖値は持病の糖尿病のせいで上がっているそうで、今後は必要ならばインシュリンも使って血糖値のコントロールをしていくとのことだった。

また貧血については、かなり状況が進んでいるため輸血をすることになった。

そして最後に医師から、父が万が一の時になった場合、心臓マッサージや電気ショックなどの延命処置をするか?ということを聞かれた。

心臓マッサージも電気ショックも、父の場合は家族が病院に駆け付けるまで命を少しでも長らえておく為の処置になるということだった。

身体がのけぞるような電気ショックは受けさせる気はなかった。

母の最期に電気ショックをしてもらったが、あれはなんだか母がとても可哀相だった。
(電気ショックが有効な方も、もちろんいるのでしょうが・・・)

また心臓マッサージは私も習いにいたことがあるが、患者の胸が沈むくらい強い力で押し続けるため、高齢者であれば肋骨を折ることも珍しくないそうだ。

家族が来るのを待つためだけに父に苦しい思いはさせたくなかった。

だから、電気ショックや心臓マッサージなどの治療はしないということを医師に伝えた。
これは妹も同じ意見だった。

できれば父には苦しむことなく眠るように逝ってほしい。

ペースメーカーを入れる直前、脈拍が30ほどに下がって危険な状態になったとき、父はまるで眠っているかのように穏やかだった。

医師もおっしゃっていたが、ペースメーカーを入れなければ、あのまま亡くなっていただろうと思う。

もしかしたらあれが父の寿命だったのだろうか。

すこしだけ伸ばしてもらった寿命ならば、残りは父の好きなことに使ってあげたい。

「残りの人生はお父さんの好きだったことをしてあげたいね」と妹とも話をしたが、はて父の好きなことと言ったら?と考えた。

昔は囲碁など好きだったが、今は誘ってもやろうとしないと高齢者住宅の職員さんが教えてくれた。

ところが「御飯ですよ」と声をかけるとパッと目を開け、自ら箸を持って介助なしに一人でほとんどの食事を完食するのだそうだ。

「食べることが好きなんですね~」と職員さんに言われたことを思い出した。

血糖値が高いので今までのように甘いものはあまり食べさせられないのではないかと思い、医師に相談したら「血糖値は薬でコントロールしますから、退院したら甘いものを食べさせていいです」とのことだった。

薬を使って血糖値を抑えながらも甘いものを食べるなんて、とても矛盾しているが、父は高齢なので治すというより延命させる治療になっている。

病室に戻ると父はベッドの中でウトウトしていた。

ベッドの頭の部分が上がっていて、このまま眠るには高いように思えたので、父の耳元で「(頭)さげる?」と大きな声で聞いたところ、父のつぶっていた目がパッと開き「たべる!」と答えた。

もう笑うしかなかった。

「さげる」と「たべる」を聞き間違うなんて、まだまだ父は大丈夫だと思った。








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白ちゃん

2016-02-25 17:23:46 | 介護
父がペースメーカーを入れてから一週間あまり過ぎた先日、診察のために父に付き添って病院へ行くことになった。

病院は午前10時に予約していたので、父の住む高齢者住宅に9時半に到着した。

30分前ならば、きっと10時の診察に間に合うはず・・・だって病院は高齢者住宅のすぐ隣で、歩いて5分もかからないのだから。

前にも同じように病院に付き添うために父を迎えに行ったら、なんと父はお風呂に入れられていて、間に合うどころか大幅に遅れて行くということがあった。

その時は職員さんに診察予定が伝わっていなかったことが原因だったが、今回は大丈夫だろうと思っていた。

なぜなら今回は高齢者住宅の職員さんが窓口になってくれて病院の予約を取ってくれていたのだ。

もしかしたら職員さんが気を利かせて、もう病院へ行く身支度を整えてくれていたりして~

そんな都合のよいことを考えながら、いつも父がいる部屋をのぞいてみた。

父の姿はない。

あれ?自分の部屋かな?

そこで別の階にある父の部屋に行ってみた。

やっぱりいない。

嫌~な予感がした。

再びいつも父がいる部屋に戻ったら、顔見知りの職員さんがいたので父の居場所を聞いてみた。

すると職員さんはにこやかにおっしゃった。

「今、お風呂に入っているんですよ。ペースメーカーを入れてお元気になりましたね~。食欲もあるし、顔色も良くなったし・・・(以下、お話は続く)」

笑顔で父の様子を教えてくれる職員さんの話に相槌を打ちながら、途中から職員さんの言葉は右耳から左耳へ通り過ぎていった。

「お風呂?今、入ってるって?そりゃあ、絶対に間に合わないっしょ!」と心の中でつぶやく。

診察があるなんてことは、まったく知らないのだろうと、職員さんののんびりとしたおしゃべりを聞いていて分かった。

しかし、とりあえず父が元気になったという報告は嬉しい限りだ。

「じゃあ部屋で待っています」と職員さんにお伝えし、病院にも遅れることを連絡してから父を待った。

さっぱりとした顔で父が部屋に戻って来たのは、それから30分も過ぎた時だった。

連れてきてくれた職員さんにこれから病院へ行くことを話すと大急ぎで髪を乾かしてくれて、私は父に靴下を履かせたり上着を着せたりした。

父はと言えば、されるがままでおまかせ状態。

父の足と手がむくんでいるのが気になった。

さて病院は隣とはいえ高齢者住宅とつながっていないため、一度外に出なければならず、氷点下の気温なのでお風呂からあがったばかりの父が風邪をひかないように沢山着せた。

父にいつも着ているフリースの赤いジャケットを着せていると、「首が寒そうだから、これを首に巻くといいですよ」と職員さんが赤いニットのマフラーを貸してくれた。

さらに職員さんは「髪を洗ったばかりだから、これをかぶせて・・・」と言って、首に巻いたニットをぐ~んと伸ばして父の頭にかぶせてくれた。

赤いジャケットに赤い帽子の父は、まるでロシアの人形「マトリョーシカ」みたいだった。

思わず「お父さん、すごく可愛い」と言ってしまった。

病院へ行かねば・・・と、とても急いでいたのだが、せっかくなので父のマトリョーシカ姿を写真に撮った。

そして、それを父に見せるとそれまで表情のなかった父がにやりと笑った。

昔から父はよく喋り、また毒舌家でもあった。

父には対して苦々しく思うことはあれ可愛いなんて思ったことはなかったが、今は可愛いと思うことがよくある。

それは父が周りの人たちにすっかり頼り切って、自我も薄くなって来ていることから、まるで赤ちゃんが可愛いと思うのと近いものだと思う。

「人は赤ちゃんで生まれ、白ちゃんで死んでいく」と聞いたことがあるが、父を見ていると本当にそうだなぁと思う。

歳をとると、人は白髪になり肌の色も心なしか白くなって他人からお世話をしてもらわなけれならない。

まさに「白ちゃん」になるのかもしれない。

さて父の病状だが、やはり手足のむくみが気になったことは正解で、一週間で体重がなんと3キロも増えているとのことだった。

これは水分がきちんと排出できていないからだそうで、一週間分の利尿剤が出された。

医師によると「心臓に水がたまると大変です」ということだった。

また来週、診察に行くことになった。

その日は、お風呂に入れないように職員さんにお願いしてきたが・・・今度は大丈夫だと信じたい。









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危機脱出

2016-02-16 16:03:40 | 介護
土曜日の夜、父がお世話になっている高齢者住宅の看護師さんから電話があった。

父の脈拍数が急に下がり始め、38~40程度しかないとのことだった。(ふつうは一分間に60~70回くらいある)

しかし、それ以外はふだんと変わることなく過ごしているので様子を見ますとのことだった。

あいにく土曜日の夜で、高齢者住宅に隣接する病院は翌日の日曜日まで休みになっている。

「万一の時は、ほかの病院に救急搬送するので電話連絡いたします」とのことだった。

それからはいつ電話が来るかと落ち着かずにいたが、結局土日に電話が来ることはなかった。

月曜日、父の様子を聞くために高齢者住宅に電話をしようと思っていたら、ちょうど連絡が来た。

「今朝は脈拍数が30代になり意識が朦朧としてきているようなので、急遽入院させます。たぶんペースメーカーをいれることになると思いますが、ご家族の同意をもらえますか」と言われた。

「入れないと亡くなってしまいますか?」

一瞬そう聞きそうになったが、緊迫した様子の看護師さんの話し方から、それは聞くまでもないことだと分かった。

「お願いします」と言って電話を切ってから大急ぎで父の入院した病院に向かうために準備をした。

そうそう、妹にも連絡をしなくては・・・ところが妹に電話をするも、妹はなかなか電話に出ない。

そうだ、たしか今日は用事がある日だったかもしれない。

いくら電話をしてもつながらない!と焦っている夢を何度か見たことがあるが、まさにそんな感じだった。

妹にはあとで連絡をすることにして、とりあえず急いで病院に向かったのだが、月曜日は気温が下がったので、それまでの溶けた雪が凍って道はつるつるだった。

運転していても滑りそうで怖い。

一刻も早く病院に着きたいが、焦ってはいかん、いかん・・・

いろいろなことを考えながら病院までの道を運転したが、時間が経つにつれ全て大丈夫だなという気持ちになって落ち着くことができた。

第一父にすぐ死が迫っているようにはどうしても思えなかった。母の時のようなお知らせが何もない。

しかしたとえ万が一そうなってしまっても、それはもう寿命なのだから仕方がないと思えた。

悲しいけれど、父はじゅうぶん生き切ったと思える。

まして肉体は無くなっても魂は生き続けるのだし、いずれは誰もがみんなに訪れる「死」なのだ。

あの暖かい光があふれる世界にいつか行くのだ。

とはいえ、これが長い人生を生きた父ではなく、子どもや若い人たちなら・・・と思うと、たまらなく怖くなる。

この世で会えなくなることが怖い。

その恐怖や悲しみを受け止められる自信がない。

魂は生き続けると信じていても、自分の愛する人たちを失った悲しみは、胸が張り裂けそうになるのだろうと思う。

そんなことを考えながら運転していたら、やっと病院に着いた。

急いで父の元に駆けつけると、父は蝋人形のような顔色で眠っていた。

診察して下さった医師のお話によると「すぐにペースメーカーを入れなければ、このままでは死を待つばかりです。ペースメーカーを入れると元気になる人が多いので、入れないで死ぬのはもったいないです」とのことだった。

もちろんペースメーカーは入れてくださいとお願いする気でいたので、即、同意書にサインをした。

ペースメーカーの説明を受けていたら、眠っていた父の顔色がますます悪くなり、脈拍数はついに30回になってしまった。

それを見たお医者さんが慌てはじめ「これはすぐにペースメーカーをつけなければ!これからすぐに手術します」とおっしゃって、急遽ペースメーカーを付けるために父は運ばれていった。

手術は30分程度で終わり、戻ってきた父の脈拍は70まで上がっていた。

そしてしばらくすると、蒼白だった父の頬に赤みがさしてきた。

それを見て、すでに駆けつけていた妹とふたりで「よかった」と言いながら安堵した。

「これでお元気になると思いますよ。血流が良くなって、脳の状態が良くなる場合がありますし、脳震盪も起こさなくなると思います」とお医者さんのお話しだった。

実は父は最近たまに失神することがあり、その原因は担当の先生もなかなかわからなかった。

父の心臓が悪いというのは今まで聞いたことがなく、一年前に調べたときは大丈夫だったので、まさか心臓のせいで気を失うとは思ってもいなかった。

「老化現象で心臓の動きも悪くなっていたのでしょう」とのことだった。

たぶん一昔前なら亡くなっていてもおかしくなかったと思うが、これもまた延命治療なのかもしれない。

もう85歳で男性の平均寿命は越えたのだが、「延命治療をしても生きたい」と元気なころに話していた父の為にできる限りのことはやってあげたいと思う。









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甘党

2016-01-12 16:10:26 | 介護
高齢者住宅に住む老父のところへ行ってきた。

父は高齢者住宅の職員さんのすすめで毎日デイサービスに行くようになってから、とても元気になった。

デイサービスに行っていなかった時の父は、一日中自分の部屋のベッドで寝ていた。

そのためか父の筋力はみるみる落ちて自力での歩行が困難になり、また意識も朦朧とするようになって瞬く間に弱っていったのだが、デイサービスに行ってできるだけ起きているようにしてもらったところ、徐々に起きていられる時間が増えてきて、しだいに筋肉もついてきて、今では少しの距離であれば一人で歩いて移動することができるようになった。

私が行くと父はたまにデイサービスのベッドで寝ている時もあるが、しっかり目覚めている時の父は、目に力があって、つじつまの合うちゃんとした会話ができる。(急に話題が飛ぶことがあるが・・・)

職員さんも「お父さん、とても元気になりましたね」とおっしゃってくれる。

ただ、以前の寝たきりだった父に比べれば確かに元気になっているのだが、やはりレビー小体型認知症を患っていることや85歳という高齢もあって、若い人のようにすっかり完治して、ますます元気になるということはもはやない。

というか、すこしずつだが進行しているなと感じる。

レビー小体型の典型的な症状である幻覚をみることは薬で抑えられているせいか無くなったし、アルツハイマーに比べて日常生活における事を忘れてしまうということはないのだが、ときどき「あれっ、これは認知症のせいかな?」と思われるような父の行動を見ることがある。

それは食べるという行為だ。

甘いものが好きな父なので、父に会いに行くときはいつも父が好きなお菓子や飲み物を持って行くのだが、その食べ方がとにかくすさまじい。

まるで「飢えた子ども」のように一心不乱に食べる。

あっという間にひとつを食べ終えると、目はもう次のお菓子に行っており、二個、三個とお菓子を続けざまに食べていく。それもやはり一心不乱に食べる。

そばで見ていると、よくこんなに一度に甘いものばかり食べられるものだと思うくらい、ひたすら甘いものを要求し続ける。

途中でストップをかけなければいけなくなるほど食べ続けるのは、やはり認知症の影響だと思う。

実は今までは、父の部屋の冷蔵庫に持っていたデザート類や飲み物を入れていたのだが、職員さんによると夜中に父がそれらを全部食べてしまうため、職員さんに預かってもらって冷蔵庫内には甘いものを入れておかないようにした。

ところが冷蔵庫になにも無いことがわかると、父は自分で歩いて住宅内にある自販機にジュースを買いに行くのだそうだ。

すっかり夜型になっている父は、深夜に買いに出ようとするため、途中で転んでも誰にも気づかれない恐れがある。

そこで夜は一本だけ、冷蔵庫になにか甘いものを入れておいてもらうことにした。

とにかくそのように部屋の冷蔵庫に甘いものを置かなくなってから、父はますます私たち家族が持っていく甘いお土産を楽しみにするようになった。

ところで、父はなぜこのように甘いものに執着するのだろうと考えたとき、それは父の育った環境にあったのかもしれないと思う。

これは父の世代はみなさんがそうだったと思うが、戦中戦後は砂糖が貴重品の時代であり、甘いものなんてほとんど口に入ることはなかっただろう。

まして、父が育った家は非常に貧しかった。

日々の食べ物にも苦労していたくらいなので、甘いお菓子に飢えていたことは想像がつく。

ところで、私が子供たち(父にとっては孫)を連れて父の見舞いに行った時のことだった。

父が孫たちに「お前たちは、今はなんでも好きなお菓子を食べられるのだろう?」と聞いた。

うちの子どもたちが「うん」とうなずくと、父は「そうか、それはよかった。お母さん(私のこと)が小さかった頃は貧しかったから、お菓子なんてめったに買ってやれなかったんだよ」と言った。

その父の言葉を聞いて、私はそうだっただろうか?と自分の子供のころを思い出していた。

確かに私が子供のころは、今のようにいつでも豊富にお菓子が食べられる環境にはなかったが、それでもたまに母が作ってくれる甘い蒸しパンやドーナツを食べ、駄菓子だってときどき食べていた記憶がある。

父が思っているほど、私たちはお菓子が食べられなかったわけではなかったと思うのだが。

もしかしたら自分の幼かった頃と私たちが幼かった頃の記憶が混同しているのかもしれないし、お金があれば、もっとたくさん私たちに甘いものを食べさせてやりたかったという思いも父にはあるのかもしれない。

いろいろな思いが積み重なって、父のあのような食べ方になっているのかもしれないと思うと、がつがつと飢えた子のような食べ方もまた愛おしくなる。

というわけで、さて父にはどうやって甘いものを食べてもらおうかと思う。

ほんの少しでやめておくほうがいいのか、それとも、もう体を気にせずほどほどならば目をつぶって食べさせてもよいものだろうか・・・













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父、ふたたび復活!?

2015-11-30 15:20:50 | 介護
高齢者住宅にいる父の顔を見に行ってきた。

雪が降って、ずっと道路状況が悪かったので、久しぶりの訪問。

さてさて、今日の父は元気だろうか?
それとも、ぐったりとして元気がないかな?

父の認知症「レビー小体型認知症」は日によって波があり、調子の良い日と悪い日がはっきりと分かれる。

調子が良い日の父は大きな声でよくしゃべり、まるで1~2年前の元気だった父に戻ったかのようになるが、調子の悪い時は言葉を発することなく、首を下げたまま、返事はかろうじてうなづく程度で息も絶え絶えといった感じになる。

この落差の激しさに最初は驚いたが、最近はこれが病気なのだと理解しているので、調子が悪いときであっても、あまり心配はしていない。

というわけで、今日はラッキーなことに、父の調子の良い時に当たったらしかった。

父に会いに来たことを職員さんに告げると、背筋をぴんと伸ばした父がヘルパーさんの押してくれる車椅子に乗って現われた。

目にも力があり「おぉ」と片手をあげて父が笑った。

職員さんによると、最近の父はますます体力がついてきて、一時はまったく歩けなかったのだが、最近は歩けるまでに回復したそうだ。

と言っても、まだひとりで歩くにはヨロヨロと転びそうになることもある為、いつもは職員さんが付き添ってくださるのだが、なんと夜中に父はこっそりとひとりで住宅内にある自動販売機まで歩いて飲み物を買っていたそうだ。

父の部屋から自販機まで約80メートルくらいあるだろうか。

そんな距離を歩行器も使わず、職員さんの付き添いもなく、ひとりで歩いていったとは!

これは数ヶ月前までは考えられなかったことだ。

歩行器を使っても足が身体を支えることができなくなっていて、数歩先でしかないトイレにも自力で行けなかったし、トイレに座るのも支えられてやっとと言う状態だった。

もうトイレに自分で行くのは無理か・・・と思ったほどだった。

それなのに自販機まで自力で歩いていったなんて本当に驚いた!

父は現在85歳。

そんな高齢になっても、身体の機能は回復するものなんだ。

一旦、高齢者が寝たきり状態になると、もう歩くことは難しくなるのではないかと思っていたが、訓練によっては再び歩くこともできるようになるのだ。

ところで父の部屋で、父と一時間くらいおしゃべりをしてから、また父をデイサービスに送っていこうとしたら、父は「いや、もう行かない。ここで寝ている」と強く言った。

「もどらないとだめだよ。時間まではデイに居なければ・・・職員さんも戻ってきてくださいって言ってたでしょう」

そう父を説得したが、「行かない」と強く言い張った。

父としてはデイに行かず、このまま部屋で寝ていたいと思ったのだろう。

しかし可哀想だが、デイに連れて行かなければいけない。

今まで部屋で一日中寝ていたことで、身体の機能が衰え、認知症も進んだのだから・・・

半ば強制的にデイサービスに戻るために、父の車椅子を押しながら歩いていたら、父が「いろんな人と一緒にいるのが疲れるんだよなぁ」と言った。

たしかに、他人とかかわることは楽しいこともあるが、疲れるというのも分かる。

ずっと一人暮らしをしてきた父にとって他人の中にいることは、たとえ何も話さなくてもストレスになっているのだろうと思う。

しかし毎日、適度なストレスをかけ続けて、父がここまで回復をしたことを思うと、ストレスは悪いだけの物ではないのかもしれない。

一人で静かに心ゆくまで寝ているほうが楽に決まっているが、多少のストレスってのは人間には必要なことなのだろう。

やりたくないけど、やらなければいけないことって、生きていればたくさんあるものですね。

でも「負けるものか~」と思って、やるんですよ。

負けるものかと思う相手は、もちろん自分なんですけどね・・・

これは、自分自身にたいして、最近よく思っていることですが。











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