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言語空間+備忘録

メモ (備忘録) をつけながら、私なりの言論を形成すること (言語空間) を目指しています。

医療費増加対策

2009-10-18 | 日記
紺谷典子 『平成経済20年史』 ( p.353 )

 医療費の増加を補う財源はある。医療保険の保険料は、所得に比例するが、上限がある。この上限を無視し、完全比例にすれば、それだけで数兆円の保険料収入の増加になると、医師会が試算している。
 組合健保や政管健保など被用者保険の場合は、年収2000万円が上限だが、この上限を撤廃すれば、それだけで、2兆5000億円の増収になる(平成18年度)。
 国民健康保険の場合、保険料は世帯単位である。世帯所得が、約490万円で保険料の上限53万円に達し、いくら高額所得であっても、保険料はそれ以上増えない。だから、たとえば芸能人一家で、世帯の所得が巨額に上っても、保険料は一家で53万円ということになる。
 世帯所得が数千万円、あるいは億円以上であっても、保険料負担は490万円の一家と同じなのである。所得が500万円以上の世帯は5%強だそうだが、世帯収入が大きい世帯もあるはずだ。上限をはずせば、ここでも数兆円単位の増収が見込めよう。

(中略)

 なぜ、政府は、医療崩壊を招くような医療費削減を行う前に、保険料の上限を撤廃しなかったのであろう。低所得の人々により重い負担を強いる消費税増税より先に、保険料の完全比例を実施すべきであろう。そうでなければ、ただでさえ所得格差が拡大する中で、生活格差はますます大きくなるばかりだ。


 医療費の増加を補う財源はある。所得比例の上限を撤廃し、完全な所得比例にすればよい、と書かれています。



 「医療費の増加を補う財源はある」 と書かれているので、著者も、医療費が増加することは認めているのではないかと思います。

 著者は、「医師会の調査によれば、医療保険は黒字」 であり、国は嘘をついている、と主張しているのですが、( 著者も ) 今後、医療費が 「増加する」 ことは、認めていると考えられます。

 実際、日本では高齢化が進行しており、医療費が増加することは、まず間違いないと思います。お年寄りは若者に比べ、具合が悪くなりがちです。慢性の疾患にかかる場合も多いと思います。社会の高齢化とともに、医療費は増加すると考えるのが自然です。

 したがって、かりに国が嘘をついており、いま、医療保険が黒字であるとしても、医療費の増加に対処しなければならないことには、変わりありません。



 それでは、いかに対処すべきか。方法は 2 通りあります。保険料を上げるか、医療費を削るかです。

 著者は、医療費は削るな、増額しろ、しかし、庶民の保険料は上げるな、所得の多い者の保険料を上げればよい、と説いています。

 しかし、この方法は、公平とはいえないと思います。いかに所得が多かろうと、病気になったとき、治療費が高くなるわけではありません。年収 5000 万円の人が病気になったとき、年収 500 万円の人の 10 倍、治療費が必要になるわけではありません。また、年収 5000 万円の人は、年収 500 万円の人に比べ、病気にかかる確率が 10 倍、高いわけでもありません。

 したがって、保険料の上限を撤廃し、完全な所得比例にすれば、かえって不公平になります。

 医療費が増加する、その分は、所得の多い者から取ればよい、という考えかたは、大多数の者には負担増とならず、利益のみがもたらされるので、支持を得やすいかもしれません。しかし、この方法は不公平だと思います。所得の多い者から 「高額」 の保険料を徴収する理論的根拠が示されなければ、この方法は認められません。



 医療費が増加するなら、まず、医療費の増加を抑えるのが、先だと思います。

 もちろん、医療費を抑制すると同時に、医療の質も保たなけばなりません。医療の質を保ちつつ、医療費を抑制する。すなわち、医療の効率化が必要です。

 国は、後発薬の推奨、政管健保を 「全国健康保険協会 ( 協会けんぽ )」 に変える、など、医療の効率化に取り組んでいます。国の政策は、適切だと思います。

 そして、医療を効率化し、医療費の増加を抑えようとしてもなお、保険料を上げる必要があれば、そのときに、保険料を上げるのが筋だと思います。すくなくとも、医療費の増加を抑えつつ、保険料を上げるべきだと思います。

全国健康保険協会 ( 協会けんぽ )

2009-10-18 | 日記
紺谷典子 『平成経済20年史』 ( p.353 )

 社保庁改革の一環として、これまで国が管理してきた政管健保が、非公務員型の法人、全国健康保険協会に組織変えされ、平成20年10月から「協会けんぽ」になる。今後は、都道府県単位で保険料が変わりうる。つまり、医療費を抑えることに成功した都道府県は保険料が低くなる、という趣旨のようだが、医療費は、すでに、これ以上削減できないところまで来ている。
 医療にまで、競争原理を導入するかのごとき、協会けんぽが、医療の改善に結びつくとは到底思えない。必要な医療の提供よりも、医療費の削減を目的としていることは明らかである。後期高齢者医療制度といい、協会けんぽといい、日本の医療には、医療財政の視点しかないようである。


 国が管理していた政管健保が全国健康保険協会 ( 協会けんぽ ) に変わり、保険料が都道府県ごとに変わりうる。医療にまで、競争原理を導入するかのごとき改革によって、医療が改善されるとは到底思えない。医療財政の視点しかないようである、と批判されています。



 医療をよりよいものに改善するには、お金をかけて、質のよい医療を提供すべきだと思います。どのくらいお金がかかるかは、本来、付随的な問題であり、「医療として、何が最善か」 を考えるべきであるのは、当然です。

 しかし、現実には、医療にかけられるお金には、かぎりがあります。使えるお金の総額が有限である以上、いかに効率的に医療を行うかを、考えざるを得ないと思います。



 ところが、「医療費は、すでに、これ以上削減できないところまで来ている」 とすれば、これまで試したことのない方法で、効率を高める工夫をしなければなりません。

 医療の効率を高めれば高めるほど、より多くの国民 ( 患者 ) に、より有効な医療を提供できるからです。



 それでは、効率を高めるうえで、有効な方法は何か。それを考えるとき、通常は、競争原理の導入を考えると思います。都道府県単位で ( 効率化の ) 競争を行えば、「すでに、これ以上削減できないところまで来ている」 医療が、さらに効率化される可能性があります。

 著者は、「医療費は、すでに、これ以上削減できないところまで来ている」 から、医療に競争原理を持ち込んでも、「医療の改善に結びつくとは到底思えない」 と批判しています。

 しかし、いままでの方法では、「すでに、これ以上削減できないところまで来ている」 からこそ、これまで試したことのない方法、すなわち、競争原理の導入を試みる必要があるのではないでしょうか。「すでに、これ以上削減できないところまで来ている」 と思っていたが、競争原理を持ち込めば、さらに効率化され、医療費が削減されるかもしれない。試してみる価値はあると思います。

 医療が効率化され、医療の質が高まるなら、これに越したことはありません。「協会けんぽが、医療の改善に結びつくとは到底思えない」 と著者は書いていますが、それは著者の 「思い込み」 かもしれません。実際には、協会けんぽによって ( 競争原理によって ) 、医療の改善に結びつくかもしれない。その可能性を排除すべきではないと思います。

 もしうまくいかなければ、元に戻せばよいだけです。試してみればよいと思います。



 なお、著者は、「日本の医療には、医療財政の視点しかないようである」 とも、批判されています。

 しかし、医療の効率を高めれば高めるほど、医療の単価が下がり、より多くの国民 ( 患者 ) に、より有効な医療を提供できます。

 また、「混合診療は解禁すべき」 であるという考えかたは、医療財政の視点のみからは出てきません。なぜなら、混合診療を解禁すれば、保険が適用される範囲が広くなり、財政的負担は増大するからです。

 著者の批判には、説得力がないと思います。

混合診療は解禁すべき

2009-10-17 | 日記
 混合診療とは、( 公的な ) 保険の対象になっていない医療を、保険の対象になっている一般的な医療と併用する ( 混合する ) ことです。

 現在、保険対象になっていない医療を受けると、保険対象になっている医療も含め、全額、患者の自己負担となっています。全額自己負担はおかしいのではないか、保険対象に含まれている医療については、保険の適用を認めるべきではないか、というのが、混合診療解禁論です。

 混合診療解禁論に対しては、全部保険対象にすればよい、などの批判がなされています。



紺谷典子 『平成経済20年史』 ( p.352 )

 混合診療の解禁は、「必要な医療を保障する」わが国の医療制度と抵触し、両立し得ないものである。有効であることが確認されている医療は、すべて保険対象とすべき必要な医療であり、混合診療の解禁は、差別的医療、効果が確認されない医療の存在、跋扈を許すものである。
 では必要な医療とは何か。その時点でやるべきことはやったと多くの専門家が合意できる医療ということになろうか。現状では、中央医療協議会がその役割を担っている。


 有効であることが確認されている医療は、すべて保険対象とすべき必要な医療であり、混合診療の解禁は、差別的医療や、効果が確認されない医療を許容することにつながる、と書かれています。



 医療といっても、費用を考えないわけにはいかないと思います。

 人の命は地球より重い、とは言うものの、現実には、かけられる金額には限度がある、と考えざるを得ないのが実情だろうと思います。

 そこで、「必要な」 医療、という言葉が出てくるのだろうと思います。「必要な」 医療という概念には、その裏に、「必要ではない」 医療がある、という暗黙の前提があります。



 それでは、「必要な」 医療とはなにか。それが重要になります。著者によれば、必要な医療とは、
  • 有効であることが確認されている医療であり、
  • その時点でやるべきことはやったと多くの専門家が合意できる医療

です。

 「有効であることが確認されている医療」 といっても、医療行為である以上、有効であるのは当たり前です。これでは、「必要性」 の限定になっていません。

 現実には、医療にかけられる金額には限度がある以上、なんらかのかたちで、「必要性」 を限定せざるを得ないからこそ、「必要な」 医療とは何か、を考えるのです。したがって、著者の定義は意味をもたないと思います。



 おそらく、「必要性」 を考える際には、治療を行ううえで必要不可欠なのか、あるいは、治療成績を上げるうえで、行ったほうが望ましい程度なのかが、ひとつの基準になると思います。また、行ったほうが望ましい行為について、ある程度治療成績を向上させる医療行為なのか、わずかに効果がみられる程度なのかも、問題になると思います。

 したがって、「わずかな効果しか見込めない」 医療を、かならずしも必要ではない医療、と定義したうえで、

   「必要な」 医療とは、それ以外 ( かならずしも必要ではない医療以外 )

と考えればよいのではないかと思います。

 もちろん、この ( 私の ) 定義によっても、「わずか」 とはどの程度か、などの問題は残るのですが、「有効」 な医療、「やるべきことはやったと多くの専門家が合意できる」 医療、とする著者の定義に比べれば、定義として、意味をもつのではないかと思います ( 別に私の定義である必要はありませんが、必要性を限定する定義でなければならない ) 。



 さて、「必要な」 医療と、「かならずしも必要ではない」 医療を分ける基準が成立すると、当然、
  • 「必要な」 医療はすべて、保険対象としなければならないが、
  • 「かならずしも必要ではない」 医療は、余裕のあるかぎりで、保険対象とすればよい

と考えることになると思います。

 その際、「かならずしも必要ではない」 医療について、患者が私費で治療を受けることを望むことを制限する必要はありません。「かならずしも必要ではない」 のですから、差別的医療と考える必要はないでしょう。また、効果が確認されない医療であっても、患者自身が望むのなら、なんの問題もないと思います。まず、治る見込みはないが、一縷の望みに賭けたい、という場合もあると思います。患者が、自分のお金でその可能性に賭けることを、禁止する必要はありません。というか、倫理的にみて、禁止しないほうがよいと思います。

 そしてその場合、わずかな可能性に賭けようとする以上、「必要な」 医療行為も含め、すべて保険の対象にならない ( 全額自己負担せよ ) 、とするのは、おかしいと思います。

 よって、混合診療を認めることに、なんの問題もないと思います。

医師会の調査によれば、医療保険は黒字

2009-10-16 | 日記
紺谷典子 『平成経済20年史』 ( p.340 )

 政府はなにかにつけて、少子高齢化を理由に社会保障予算を削ろうとする。そのために、財政危機を演出する。年金だけでなく医療もそうである。医療保険の財政危機もずっと以前から、声高に叫ばれてきた。
 大企業を中心とした組合健康保険も赤字、中小企業のための政府管掌健康保険も赤字、自営業やリタイアした人を中心とする国民健康保険も赤字だと、国民は思い込まされてきた。
 ところが、ここにからくりがある。組合健保も政管健保も毎年赤字と発表されるが、これは全体ではなく、赤字の部分だけを発表しているのだという。このことは、もう8年も前に医師会が調べて、その嘘を暴いている。
 データが古いが、平成9年度の組合健保収支は前年見込みで500億円程度の赤字と発表されたが、実際の決算では17億円の赤字にまで縮小、さらに、民間の企業会計ルールで計算しなおすと当期純利益が1000億円の黒字だったという。
 なぜ、そうなるかと言えば、全体の収支を示す一般収支ではなく、経常収支のみを発表するからだという。全体の損益を発表しない理由は明らかにしないそうである。
 政管健保も同様である。政管健保の会計は、健康勘定と業務勘定に分かれるが、赤字の発表は、健康勘定のうちの、さらに小項目である単年度収支の部分だそうである。そもそも、資産や負債、剰余金などを示すバランスシートがないことが問題と医師会は指摘している。
 それでは全体像はつかめない。赤字、赤字と国民を脅しにかけているが、実態を示す会計資料さえ作っていないのだ。いや、本当はこっそり作っているのかもしれないが、少なくとも一切発表していない。
 そこで、医師会が平成9年度について、損益を試算したところ、組合健保、政管健保に、さらに共済組合、船員保険を含めると、当期純利益は1473億円の黒字、正味財産は最低でも4兆円に上ったという。
「組合の55%が赤字」などとよく報道される。しかし、大きい組合ほど黒字になる傾向があり、従業員についてきちんと平均をとれば、黒字になるはずだ。医療は個人が受けるもので組合が受けるものではないのだから、従業員で平均をとるべきだろう。何の意味もない赤字組合の比率を発表すること自体、医療保険財政が危機であると、世論誘導するためとしか思えない。
 いや、それ以前に、赤字になっている部分勘定だけでなく、保険財政全体の正確な収支を発表すべきであろう。かりに、きちんと計算していないとするならば、それこそ問題だ。会計をきちんと把握もせずに、保険料の値上げや、自己負担の増加を求めているからである。
 研究報告が出た平成12年以降も、医師会は調査を続けており、その後も会計状況は基本的に変わっていないそうである。


 医療保険も黒字である。政府は年金同様、医療保険の危機を演出している、と書かれています。



 医療保険が黒字である、と著者が述べる根拠は、医師会が試算した数字です。医師会がどのような資料に基づいて、どのような計算をしたのかがわからないので、上記記述のみを根拠に、国が嘘をついている、と即断するのは避けようと思います。とりあえず、国と医師会、両者の言い分が異なる、と把握しておくにとどめます。



 しかし、大きい組合ほど黒字になる傾向があり、「組合の55%が赤字」 などの報道によって、医療保険財政が危機であり、健康保険料を値上げしなければならないだとか、自己負担の増加が必要だなどと、世論誘導しようとしている旨の主張には、説得力があると思います。



 なお、年金については、少子高齢化を考えると、どのみち赤字になるのではないかと考えられます。したがって、改革不要論には説得力がないと思います ( 「元年金数理課長、年金が本当は大黒字」 参照 ) 。

元年金数理課長、年金が本当は大黒字

2009-10-16 | 日記
紺谷典子 『平成経済20年史』 ( p.324 )

 年金財政には数々の嘘がある。第一に、公表されている積立金の額は実際よりも過少である。平成15年、年金改革にあたり、小泉政権は年金積立金は147兆円と発表したが、実は、これは実際より80兆円少ない。厚生年金の代行部分30兆円と共済年金の積立金50兆円が含まれていなかったからである。
 年金財政の危機を示すために、過少申告したのである。本当は227兆円あったわけだが、その後の運用益の積み増しもあり、少なくとも230兆円はあると推定される。共済年金は厚労省ではなく財務省が管理しているが、公的年金に違いなく、一本化の話もあるのだから、積立金からはずすのは変である。
 第一、大きく見せたい年金給付額には、共済年金も含めているのだから矛盾である。年金制度が複雑なのを良いことに、都合よく数字を操作しているとしか思えない。いずれにしろ、公務員の共済年金が当初から別扱いというのも腑に落ちない。国鉄共済など財政悪化の年金をつぎつぎ厚生年金に押しつけて、共済年金だけは、健全経営だ。
 ずいぶん国民を馬鹿にした話だが、政府発表の数字の矛盾を指摘する声は、マスコミからも専門家からも聞こえてこない。
 第二に、「積立金が足りない」という嘘である。実は日本の公的年金の積立金は国際的にも突出して巨額である。公的年金はどの国も、現在の働き手の保険料を、現在の高齢者の給付に使う「賦課方式」をとっており、積立金は原理的にはゼロで良いから、他の国はごくわずかな積立金しか持たない。
「現在は3・5人の働き手が一人の高齢者を養っているが、近い将来1・5人に一人になる」と高齢化の危機を煽ってきたのをみると、わが国の公的年金も賦課方式のはずである。しかし、それなら、同時に「積立金が450兆円足りない」と主張するのはきわめておかしい。
 積立金が足りないという計算が「積立方式」に基づくものだからだ。積立方式とは民間年金の方式で、若い時代に積み立てたものを、年をとってから取り崩す。当然、積立金があり、積立金不足という事態も生じ得る。しかし、賦課方式の公的年金で、積立方式に基づく年金不足を計算することに何の意味もない。もちろん、公的年金もある程度の予備費を持つのが通常である。保険料収入の増減によって給付が不安定になるのを防ぐためだ。しかし他国は、数カ月から1年数カ月の給付を賄う予備費しか持たないのに、日本はなんと5年半分の予備費を持っている。
 この予備費を「積立金」と呼ぶこと自体ミスリードで、賦課方式の公的年金で積立不足を言い立てる矛盾を許す土壌を作った。政府は、日本は「修正積立方式」だと言うが、いずれにしろ、賦課方式100%のときの不足と、積立方式100%のときの不足の両方を言い立てるのは矛盾である。そうまでしなければ、危機を証明できないのなら、本当に危機なのかどうかが怪しくなってくる。
 このような情報操作を許したのは、ひとつには年金の仕組みが複雑すぎること、国民にわからないように、わざと複雑にしているのではないかと思うほどだ。
 ちなみに、年金が本当は大黒字であって財政危機ではない、という点については、厚労相 (引用者註: 原文ママ) の元年金数理課長の確認を得ている。


 政府は、年金積立金は過少に見せ、年金給付額は多めに見せている。公的年金は賦課方式なのに、積立不足を言い立てている。政府は年金の危機を演出しているのではないか。年金が本当は大黒字であって危機ではない旨、厚労省の元年金数理課長の確認を得ている、と書かれています。



 これ、本当だったら凄いですね。

 厚労省の元年金数理課長の確認を得ている、と書かれていますが、上記が本当だとして、そんなことを ( 退官後の? ) 官僚が言うのか、かなり疑問です。「元」 年金数理課長とはいえ、認めて大丈夫なのでしょうか? 気になります。

 著者も、というか、出版社も、「元年金数理課長の確認を得ている」 と書かれている部分が決定的に重要なところであるにもかかわらず、「厚労相の元年金数理課長」 などと、記述の信頼性にかかわる誤植をしないでいただきたいところです。



 年金が本当は大黒字であるとすれば、年金改革は不要、と考える余地が生じてきます。

 しかし、( 年金が大黒字であり、年金制度を信頼するとしても ) 社会保険庁に対する信頼は失われているのですから ( 「消された年金」 参照 ) 、年金保険料を徴収するのではなく、年金は税方式にしたほうがよいのではないかと思います。

 黒字だから改革する必要はない、と考える必要はありません。( 信頼を取り戻すために ) 黒字であっても改革しなければならない、と考えるのが自然だと思います。黒字であれば、改革に時間をかける余裕がある、というにすぎません。



 なお、公的年金は賦課方式なのに積立不足を言い立てている、という部分は、「現在は3・5人の働き手が一人の高齢者を養っているが、近い将来1・5人に一人になる」 ことを踏まえ、再び人口が増加に転じるまでの期間、( 現在の ) 保険料収入で ( 現在の ) 年金給付を行う 「補填必要額」 を考えれば、積立不足であるとみる余地があり、

 ( 賦課方式であるにもかかわらず ) 積立不足を言い立てているからといって、政府が事実を曲げていることにはならない、と考えます。

 この問題については、以前、「年金積立金の使途」 に書いています。私の考えかたを知りたいかたは、お読みください。



■追記
 常識的に考えて、現役世代の人口が減り、年金受給世代の人口が増えるのですから、賦課方式の年金制度は破綻する、と考えるのが、自然だと思います。したがって、「年金が本当は大黒字であって財政危機ではない、という点については、厚労相の元年金数理課長の確認を得ている。」 の記述については、元年金数理課長が 「いまのところ、大黒字であって財政危機ではない」 と言った、と解釈するのが自然ではないかと思います。