4月12日 編集手帳
正の10を10個足すと100になる。
負の10同士を掛けても100になる。
〈答えは同じでも、
正を積み重ねた100には陰(いん)翳(えい)がないのだ〉。
“言葉の魔術師”と称された歌人、故・塚本邦雄氏の語録にある。
フィギュアスケート女子の浅田真央選手(26)が現役を引退するという。
絶望、落胆、失意、悔し涙…いくつもの負数を一夜にして、
正数の“真央伝説”に変えたソチ冬季五輪のひとこまは誰の目にも焼き付いていよう。
前日のショートプログラムに失敗し、
メダルの望みが絶たれたなかで、
フリーの完璧な演技が世界を魅了した。
メダルに手が届きそうな場面で全身全霊を傾けるのはやさしい。
負数だらけの絶望のとき、
どうしてそれができるのか。
ひたむきな姿に、
多くの人が泣いた。
競技人生で手にした栄冠の総量と釣り合うほどに重い6位だったろう。
それでいて「陰翳」には遠い、
あの清楚(せいそ)なほほ笑みである。
愛されたのも分かる。
〈きよく
かがやかに
たかく
ただひとりに
なんじ
星のごとく〉
(佐藤春夫『夕づつを見て』)。
金メダルよりも美しいものがあることを教えてくれた人である。