まがりかどの先に

まがりかどの先にはきっと良いことがあると信じ、目の前の人生の小路をてくてく歩き続ける日々の雑記です。

みられるといいな

2022年11月08日 | 日記

数日前からラジオなどで、皆既月食の話題が流れている。

今日の18時過ぎから3時間半にわたり東の空で見られる天体ショー。
19時半ころが月食の見頃らしい。

月の左下には天王星がみえるらしいが、この天王星が20時41分に月の蔭に入り、21時21分に月の蔭から出現する。
ここも見どころらしい。

天王星は、双眼鏡や望遠鏡がないとよくみえないかも。

惑星が皆既月食中に月の向こう側に隠れるのは、1580年7月26日以来、442年ぶりなのだそうだ。

1582年(天正10年)が、かの本能寺の変のあったといわれる年だから、当時の日本は戦国時代。

織田信長や明智光秀、秀吉などもきっとこの皆既月食を見ていたのかもしれないと思うと不思議な感じもする。

いろいろな天体が400年も500年も同じような経路でまわり続ける中心の力、エネルギーはどこで、なんなんだろう。

宇宙の中心というのは、どこで、宇宙の端はどうなっているのだろう?
端のない世界なら、どこまでそれが続いているのだろう?

こういうことを考え出すと「わからない」ということが「わかった」と納得するしかないのだけれど、「わからない」けれど、間違いなく変化を起こす不思議な力は存在する。

人智をこえた大きなエネルギー、解明できないパワーというものも確かにあると思わざるをえない。

今夕は、空を見上げ、そんな大きなパワーも少しは感じようか。

朝のうちに、双眼鏡の手入れをしておこう。

次回、皆既月食と惑星食(土星)が同時に見られるのは、西暦2344年、322年後らしい。

その時のわれらが地球号が、『ターミネーター』『猿の惑星』のような世界になっていなければいいけれど。

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小さい秋 ぷち紅葉

2022年11月06日 | 家事・雑草との日々

庭に鉢植えしたブルーベリーがいい色に紅葉し始めた。

一昨年までは地植えしてほってあった。

豊作を夢見て植えたのだけれど、手をかけなければやっぱりだめなわけで、すってんてんの枯れ木のような状態になってしまっていた。

初心に帰り(笑)、鉢に上げ、土を整え、こまめに夏場の水やりもおこなった。

すると、新しい枝をたくさん伸ばし、葉も茂って、今年は「庭の草取りの間に、ポツポツつまんで食べられる」ほどの実をつけてくれた。

ブルーベリーの、特に、夏場の水やりはかなり大切な作業のようである。

そして、秋。
この紅葉。

狭い庭先では、小菊が黄色の帯を広げ、柿が完熟し、柚子が色づき始め、小鳥たちの声が山奥から戻ってきた。
実に長閑。

小さい秋 ぷち紅葉。
ちょっと豊かな時間である。

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呼吸を整え今を感じる

2022年11月03日 | 読経の日々

以前は亡くなった母が行っていたお仏壇へのお仏飯の上げ下げは、すっかり自分の日常に定着した。

母の認知性がすすみ、仏壇やお墓のお世話ができなくなり、亡くなって、はや10年余り。

月日の過ぎ去るのは、ほんとうに早い。

その月日は、普段なにも意識していないのに、なぜ人が亡くなったときだけお坊さんを呼び、お寺のお世話になるのかという疑問から興味を持ち始めた仏教への関心期間とダブル。

熱心に信心をしているとはとても言えないけれど、それでもお釈迦様の教えが、自分の日常の中にしっかりと伝わっているということを意識できるようになってきたし、日々、今を大切に生きようと思うようになった。

毎朝、お仏飯を供えるとき、どれも短くて、たくさんの解説が出されているお経だけれど、一日の心構えとして、お仏壇の前に正座し、お経をとなえることも自然になった。

『開経偈』で、お経を読む心がまえをとなえ、

『懺悔文』で、現状の自業自得を意識する。苦しい現状はみな自分の『頓・瞋・痴』にその原因があり、生じているもの。他人のせいではない。

他人に働きかけ説得し、自分に合わせてもらうことは、至難の技。
でも、自分が変わることで現状も変わっていくと考えれば、今日からでも、今からでもやってみようという気になるし、行動に移せる。

『三帰礼文』で、いつも『人』とともに、他を思いやり、お釈迦様の教えを日常生活で少しでも自分の体で実践し、行うことが大切だと確認。

現実には、「わかっちゃいるけどやめられない」の世界だけれど、毎日の心構えである。

その後に、『舎利礼文』か『延命十句観音経』を三回となえる。
短い、となえやすいお経だけれど、仏教の教えのポイントは織り込まれているようで、有り難い。

『普回向』『四弘誓願文』をとなえて、終わり。

お線香が1/3ほど燃える時間で終わる。
『なんちゃって仏教徒』の自己満足の時間。

一日のこの10分程度の時間の中で、最近、「これだ」と感じたのが、『呼吸を整える』ことの重要性。

関節が固く、座禅を組み瞑想などはとてもできない。
それでも、正座をし、お経をとなえる前に、心を落ち着けて深呼吸をする。

これは、YouTubeの『天野こうゆう法話チャンネル』で教えて頂いた。

瞑想というレベルではないけれど、今この瞬間の自分を受け入れるというか、今この瞬間の自分と向き合うスイッチとしてとても役にたっている。

深夜、未明に目覚めて寝付けないときも、声は出さないけれど、布団の中で横になったまま複式深呼吸を繰り返す。
眠れないまでも、気持ちも体もリラックスできる。

お釈迦さまのようにはとても生きられない。
その教えも、分かるようで、ボワッとした感じで、分かったと思うと、分からなくなる。
たまに、「あっ、」と分かったような気になるときもあるけれど、どうもつながらない。

そもそも自分は、うすぼんやりした人間なので、自分が生きるってこと自体が、ボワッとしたものなのかとも思う。

それでも、日常の中で他を思いやり、自分と向き合う小さな行動の積み重ねは『ラクな生き方』になっていることは間違いないようである。

 

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