英語・ダイエット・その他徒然なるままに

趣味の英語学習(TOEIC 970点)やダイエットの成功談など、色々書いていきます。

”英語好き”と”英語嫌い”の違い (3)

2015年09月27日 05時39分47秒 | 英語
英語嫌いになった原因別タイプ毎に処方箋を考えてみたいと言いましたが、その前に、どういうタイプであるかに関係なく、英語習得のための訓練(勉強)とは本来どうあるべきなのか、について書いておきたいと思います。理想のあるべき姿を明らかにしておいて、それとのズレをタイプ毎に論じていった方が話が簡単になると思いますので。

私自身、まだまだ本当にできると言えるレベルに到達した人間ではないので断定的な事を言ってはいけないのかもしれませんが、長年苦労して、曲がりなりにも色々な方法を試したり試行錯誤してきて、「本来の英語習得プロセスって、多分こうあるべきだよな」というような確信めいたモノを何となく持つようになりました。要するに、外国語を身につけるってどういう事なのか?一言で言うと、

音を、シチュエーションとリンクさせて記憶すること

これに尽きると思うんです。これこそが本質中の本質。

別に私独自の発見でも何でもありません。多くの先達が言っている事です。これを間違っていると思う方はいないでしょう。そりゃそうですよね。言語というのは本質的には音なのであって(文字のない言語なんて幾らでもある)、何を言いたい時にどういう音を口から発すればよいのか、の共通規則が”言語”なのですから、その言語を覚えるというのは当然、上に書いたような作業をする事に他なりません。

こういう風に言われればなるほどそうだ、と分かってもらえると思いますが、しかし、現代の(とくに日本の?)英語環境を取り巻く事情は複雑に成り過ぎていて、こういう単純な本質が見えなくなっているんですね。だから、色々なモノに毒されて、訳がわからなくなって、混乱している。以前このブログでも書きましたが、”リスニングテスト”なんてのはその混乱、毒物の最たる者の1つです。リスニングテストが多くの場面で採用されるようになった昨今、ほとんどの英語学習者が”英語が聞き取れるようになるために”リスニングの練習をしなければいけないと思っているようですが、実は、英語の音を聞くことの真の目的は、そんなことではないんですよね。上に書いた”音を覚える”ためにやらなきゃならんことなのです。音を、シチュエーションと結びつけて覚えているからこそ、適切なシチュエーションの時に適切な音を自分の口で再現できるのです。だから逆に言えば、音を覚えていない限り絶対に喋れるようにはならないんです。そして、もう一言いうと、”音で覚えるのが絶対的にラク”なのです。

これが、どんな場合にも外してはいけない、絶対的な本質、絶対にやらなきゃいけない事。しかし、日本という国は生活の隅々にまで英語が行き渡っている国ではありませんから、こういう理想のトレーニングを貫き通すことが非常に難しいという事情があります。そういう事情があるので、この基本中の基本練習が行える場面、範囲、レベルというのは非常に限られていて、現実的には他のモノで色々と代用しないといけなくなってくるわけです。その”代用”のところで、色々とほころびや勘違いが出てきて、おかしな方向にズレて行ってしまうわけです。

今日は、言語学習とは本来かくあるべし、という絶対真理とでも言うべきことについて述べました。この点については機会があれば改めてもう少し深く書いてみようとも思いますが、まずは次回、上記のズレについて、パターン毎に見ていこうかと思います。

”英語好き”と”英語嫌い”の違い (2)

2015年09月26日 08時19分38秒 | 英語
前回、「英語そのものに興味を持つ子ほど、学校の英語教育に裏切られる」と言いました。少々過激な物言いかも知れませんが、冷静に考えてみれば当たり前のことです。

我々の世代だと中学入学と同時に英語を習い始めたわけですが、それまでに習ったことがない英語という新しい教科を初めてやるとなった場合、純粋な子ほど期待してしまうわけです。英語の知識が全くない子でも、英語の発音とかスピード感とか、英語って何となく”格好いいもの”というイメージは持っているはずで、その格好いい英語をバリバリ覚えて、伝えたい事を自由に表現したり人とおしゃべりしたり、そういう楽しい営みを期待してしまうのです。

これから英語を教わると言われてそういう授業をイメージするのは当たり前でしょう。英語の授業とは本来そのような物であるべきです。しかし、ご存知のように学校で実際に行われる授業はそのようなものではありません。今は多少はマシになっているとは思いますが、我々世代が受けた英語の授業(昭和50年代後半から60年代前半)では、まず”音”の要素が皆無でした。英語教師の発音云々以前に、英語の音を聞くという営み自体がまったくないのです。格好いい英語の音に浸るチャンスもなく、英語教師も格好いい英語を操るわけでもなく、人とお話しができるわけでもなく、小難しい文法事項やつまらない内容の教科書の読解ばかりやらされる。そんなこんなで、英語の授業に対して純粋な期待を抱いていた子供ほど失望していくわけです。「これじゃあ算数の授業と同じじゃん」と。

こんな事はいまさらウダウダと書かなくても皆さんよくご存知だと思いますが、”英語嫌い”がどうやって作られていくかという話を順を追ってしていきたいので、当たり前のことをあえて書いています。実際、私が中学に上がった時もそのような同級生たちがいました。彼らは中学にあがる数ヶ月前から地元の英語塾に通い出したようで、私なんかはそんな事はしていませんでしたから、私に向かって凄く楽しそうに塾でならった英語をひけらかしたり自慢したりしていました。普段から他の科目で私にコテンパンに負けている同級生達は、英語だけは私に勝っているということで、さぞかし痛快だったのでしょう。実際、当時の彼らは相当英語に入れこんでいるようでした。中学の授業にもさぞかし期待していたことと思います。しかし、中学に上がって半年も経たないうちに、彼らは私に簡単に追い抜かれてしまいました(笑)。一発逆転はならなかったのです。別に彼らと私を比較したいのではありません。結局は学校の英語の授業なんて他の科目と同じ”知識の暗記競争”に過ぎず、結局はそっちの競争になってしまうのだという事、そして、折角英語に興味をもった彼らの希望もそういう暗記競争の下に踏みにじられてしまったという気の毒な様を、お伝えしたいのです。

長々と書きましたが、以上が英語嫌いを生み出すパターンの1つ目です。つまり、”本来の言語習得の授業とは全く異なる学校の授業内容に失望してしまったタイプ”です。1回失望してしまったら、暗記競争としての受験英語に熱が入らなくなる、したがって不得意になる、というのは当然の流れでしょう。まあ、ある意味被害者な訳ですが、そもそも学校の授業なんかに期待する方が間違っているという考え方もできます。これに関しては(どちらが悪いのか)ここでは触れませんが。

長くなりますが、英語嫌いを生み出すパターンの2つ目について述べてみます。学校の英語の授業に過度な期待はせず、暗記競争の受験英語レースに身を浸す覚悟は一応できたにも関わらず、挫折してしまった人。こういう人はさらに2種類いるのですが、そのうちの1つ目が、このパターン2に該当します。一言でいうと、”論理的思考力が強過ぎる人”です。

このブログでも何度か話題にしましたね。英語をまるで数学と同じように、徹底した理詰めで考えてしまい、結果的に”理解できない”となってしまう人達です。ある意味頭が回り過ぎるというか、理系的過ぎるというか、そういう人達。私は高校時代、理系の選抜クラスみたいな所にいたので、こういうタイプはちょこちょこ居ました。数学とか結構できるくせに、英語は苦手といって嘆いている奴。彼らの口癖は「英文法が理解できない」です。この辺の話は以前の記事にも書きましたので繰り返しませんが、英文法の体系自体が必ずしも論理的に完結したきちんとしたものになっていない以上、理詰めで考え過ぎると分からなくなるのは当然なのです。ここでつまずいてしまった人がパターン2。まあ、英語という物の本質を見抜けていない点で必ずしも頭が良い人達とは言い難いのですが、英語を勉強するときは英語頭に切り替えた方がいいよ、もうちょっと割り切ることも覚えようね、とアドバイスしたい人達です。

そしてパターン3。これはもう言うまでもなく、暗記競争を受け入れ、数学と英語の特性の違いも分かっているにも関わらず、学校英語をモノにできなかった人達。ずばり、”暗記の量に負けた人達”です。厳しい言い方ですが、辛抱が足りなかった人達です。まあ、必ずしも努力が足りなかったわけではない、やり方がマズかっただけの場合もありますが、結果として、覚えるべき量を覚えきれなかった人達のことです。

私が考えるに、学生時代から英語に対して苦手意識を持っている人、そして実際苦手な人というのは、大体これらの3パターンに分類されると思います。どのパターンが優れているとか劣っているとか、はたまた、受験英語の勝者が一番優れているとか、そういう事が言いたいのではありません。自分がどのパターンなのかを理解しておかないと、事態を改善するための処方箋も誤ってしまうよ、ということが言いたいわけです。

次回は、それぞれのパターン毎に、私が考える処方箋を述べてみたいと思います。ま、私自身、まだまだそんなに出来る訳じゃないので、あまり偉そうな事を言える立場じゃないのですが、20年英語で苦しんでいる人間が考える所を参考にして頂ければと。

"英語好き”と”英語嫌い”の違い

2015年09月23日 05時24分59秒 | 英語
こんな所で私などがイチイチ申し上げるまでもなく、人にはそれぞれ得手不得手というものがあります。向き不向き(前にも少し書きましたが)と言ってもいいでしょう。このブログが話題の中心としている英語についても、当然好きだという人もいれば嫌いだという人もいます。

今の私も含めて英語が好きだと言ってしまえる人間が、好きな英語について色々と熱く語るのはまあ当たり前というか簡単なことです。好きだと言える人間が好きな事を書いて、好きなもの同士だけで共感し合って、ついて来れない人は置いてけぼりでも、趣味の世界としては成立しています。別にそれ以上の物を求める必要はありません。

しかし、同じ「英語好き」でも、英語が嫌いな人の気持ちや思考パターンを理解できている英語好きとそうでない人とでは深みが違ってくると思いますし、ましてや指導者の立場にある人なら、英語嫌いの人達の気持ちを理解することはよい指導をするための必須条件でもあると思います。

私自身は指導者でも何でもありませんが、今まで、英語が嫌いで嫌いでどうしようもない、学生時代からいつまで経っても英語に対する苦手意識が拭えない、というような叫びを上げている人達の気持ちや思考パターンについて、深く考えたことはありませんでした。もちろん人に英語の指導なんかしたことはありませんし、それ以前にそんな力もありませんから、人から”教えて”と言われるたびに丁重にお断りしているのですが、もしも本当に人に教えなければならないような事態になった場合に一体何から教えれば良いのだろうか?と時々考えこむことはあります。

おそらく、単に自分の経験や思いの丈をぶつけるだけではダメなんです。”へぇー、あなたは凄いんですね。私にはとても真似できないですー”と言われてオシマイでしょう。そう、独りよがりではない、”教わる側のメンタル”まで考えた指導。これができないと結局は受けないと思うんですね。このブログもそういう風にならないように気をつけないといかんなとも思うわけです。ということで、前置きが長くなりましたが、英語が苦手・嫌いで仕方がないという人達の頭の中を、ちょっと想像してみようかと思うのです。それができないと本当に役立つ助言はできないんじゃないかと。

他人の頭の中を想像する前に、まずは私自身がどうだったかを思い返してみようと思いますが、学生時代の自分を一言でいうと、「受験科目として英語は好きな科目ではあったが、英語そのものには全く興味はない」という人でした。ごくフツーの受験戦士ですね。受験科目としての英語には苦手意識はありませんでした。まあ成績は良かったから当然ではあります。なので、”学生時代から英語が嫌いで苦手だった”人とはすでにこの時点で何らかの違いがあるわけです。

別に自慢するわけではありません。英語嫌いの人との違いはどこから来ているのか、深く掘り下げて分析してみたいだけです。上の記載から分かるように、私とて、当時は決して”英語そのものが好き”だった訳ではないのです。そしてよく考えると、実はここにこそポイントがありそうな気がするのです。もしも、中高生当時の私が”英語そのものが好き”というタイプの人間だったら、おそらくそこで潰れていたと思います。

こんな言い方をしても分かりにくいでしょうから、もう少し噛み砕いて言うと、もし私が中1で英語の勉強を開始した時に本当の意味で英語を好きになっていたら、本当の意味で英語そのものに強い興味を抱くような子になっていたら、中2、中3、高1と学年が進むにしたがって、結局は英語嫌いになっていっただろうな、と想像できるのです。ここ、凄く大事なポイントです。じっくり噛み締めて読んで下さい。

どうしてこんな事が言えるのか?答えをストレートに言うと、「学校の英語教育は、純粋に英語そのものに興味を持つ子ほど、その期待を裏切られる」そういう物だからです。

凄いことを言っちゃいましたね。でも、絶対これ、当たってると思うんです。次回に続く。

またまた細かいですけど (2)

2015年09月20日 22時26分35秒 | 英語
前回の続きです。なぜcondemn A on B という言い方と condemn A for B という言い方があるのか。本当の正解は私も知りませんが、想像できることを述べてみます。

まず後者のforを使う言い方は、受験英語を叩き込まれた我々日本人にとって馴染みのある言い方だと思います。賞罰を表す動詞と一緒に用いられるforってやつですね。このfor自体は「理由」の意味を持っていて、要は、”~したから、~したという理由で”誰々を非難する、という感じです。

で、前置詞forの後ろをよく見てみると、itsという所有代名詞がついています。もちろん、所有主は非難されるべき行為を行った動作主体です。"お前さんの~という行為を理由に、お前さんを非難する”、とまあ、こういう感じではないでしょうか。つまりこの場合、前置詞 for の後ろに来ている名詞は、condemn の直接目的語になっている人が行った、その人による行為、ということで、”直接目的後であるその人による”という意味が明確にこめられているわけです。そういう名詞が後ろに来て、それを理由に非難するとなっているわけです。実際、condemn A for B を使った用例を色々調べていくと、for の後ろに所有代名詞が来ているケースが非常に多いです。そして、所有代名詞がない場合でも、例えば doing などがくることが多くて、要するに全部、condemnの直接目的語となっている人、その人自身がおこなった何か、という意味がはっきり示された、行為者との結びつきが強く表現された名詞が来ているわけです。doingの場合は”そいつがやったこと”ということですね。

一方、見出しのcondemn A on B の方を見てみると、例示した英文ではBの部分に treaty withdrawal という名詞が来ています。”お前による”とか、”誰々による”とか、”誰々がやった”という形ではなくて、あっさりと一般名詞が来ているだけです。この名詞部分だけを見た場合、行為の主体を臭わせる表現はひっついていません。だから、”お前のその~という行為”、そのために非難するぞ、という感じではなくて、”~の観点から”という、単なる一般名詞を理由に非難するぞという感じになっているのです。だから、on を使っているのです。Bの部分が its treaty withdrawal となっていたら、onではなくて forになると思います。

ちなみに、例文ではforを使っている方は受動態の文になっていますが、これはたまたまで、別に受動態だから forになっているわけではありません。能動態でもforを使うケースは当然ありますから。

ネットで色々調べてみると、上の私の説明と似たような解説をしている人もいるので、この説明は多分正しいと思います。

いかがでしょうか?こんなことにいちいち神経を使わなくても、condemn N.Korea for treaty withdrawal でも十分通じるよと仰る方も多いかもしれません。はい、何を言わんとしているかは十分わかってもらえるでしょうから、コミュニケーションとしては全く問題ないと思われます。巷の英会話などはこのレベルで行われている営みだと思います。

そういう営みを否定するつもりはありません。でも、私の好みではないんですね。私はもっと言葉を大事にしたいですから。意思疎通できればそれでいいとは思いません。


またまた細かいですけど

2015年09月20日 01時09分46秒 | 英語
日頃の勉強の中で、またまた、”おや?”と思う英語に出会いました。皆さんも考えてみて下さい。何か気付くことはありますか?

World condemns N.Korea on treaty withdrawal

North Korea was roundly condemned Friday for its decision to withdraw from the Nuclear Nonproliferation Treaty and for its bellicose warnings of a new world war. China, the North's major ally, said its president "disagrees" with the move.

(出典:1日1分!英字新聞、石田健、祥伝社黄金文庫)

特に難しい箇所はないと思います。NPT(核拡散防止条約)なんてのは社会人として知っておくべき最低限の常識でしょうし、bellicoseなんて単語も、英検1級レベルの単語帳等には必ず載っている、必須単語です。最後の"its president"は当然、中国自身の国家主席を指していて、「中国の国家主席も今回の北朝鮮の条約脱退の動きには反対している」ということです。ここまで解説すれば、文意を取れないということはないと思います。

どうですか?この英文を読んで、何か気付きませんか?もちろん、実力があり過ぎて、全ての表現が当たり前過ぎて”何も不審に思わない”というのであれば、素晴らしいことです。しかし、平均的な英語力の日本人なら、”おや?”と思う箇所があるはずです。いつも言っていますが、受動的に英語を追いかけて意味が取れたら安心、じゃあ、ダメですよ。今後自分でも同じ英語をひねり出せるかどうかという視点で、隅々まで神経を張り巡らせて英語を眺めてみて下さい。そうすれば、必ず、何か気付くはずです。

私が”おや?”と思ったのは、condemnですよ、condemn。上記の英文の中で3カ所ほどcondemnが使われていますが(厳密には、3番目は接続詞andの後なので省略されていますが)、最初の見出しの中のcondemnには後ろに on が続いているのに対し、本文中では2カ所とも for が続いています。これは一体どういうことなのでしょうか?3カ所とも「~のかどで誰々を非難する」という同じ意味のはずですが、見出しの所だけ前置詞が違っています。

こんなの当たり前だと言える人は、ここに目が行かなくても別に構いません。しかし、なぜ異なる前置詞が使われているのか理由を説明する力が無いのにここに気付かなかった人は、普段からダメダメな勉強をしているのです。「英語の追い方が甘い」と思います。

どうしてなんでしょうね?実は私も、恥ずかしながら確固たる自信を持って説明することはできません。たぶんこういうことなんだろうな、と想像できるだけです。今回は一旦ここで切って、次回の記事で私の考えを書いてみます。

こういう所に気付いて、あーでもない、こーでもない、と考えを巡らせ、自分なりに納得しながら英語を吸収していくのが、大人の英語学習だと思います。ちょっと大げさかもしれませんが、こういう所に目が行くか行かないかが、いわゆる「センス」の有る無しではないでしょうか。鈍い奴は気付かないんですよ。