英語・ダイエット・その他徒然なるままに

趣味の英語学習(TOEIC 970点)やダイエットの成功談など、色々書いていきます。

TOEICの勉強をするから話せない!?

2015年09月13日 21時02分33秒 | 英語
というような主張をよく聞きますが、半分当たっていて半分間違っていると私は思います。

スピーキングの能力が身に付かないのは、TOEICが悪いというより、そもそも多くの人がやっている「TOEICの勉強」そのものが間違っているからだと私は思います。

ご存知のように、TOEICの試験項目にはスピーキングとライティングがありません(SWテストを除いて)。だからついつい、TOEIC対策としてリーディングとリスニングの勉強・練習だけをやってしまいがちです。ここが、多くの人が陥るワナというか、考え違いをしている所です。

試験で問われるところをやる、試験の問題形式の問題が解けるように勉強するという、大学受験勉強のメンタルモデルから抜けきれていないのです。「俺はそうじゃない、大学受験の本質はよく分かっている」とおっしゃる人が多いと思いますが、ここまで読んだ時点で私が何を言わんとしているかピンと来ない人は、やっぱり分かっていないということになると思います。

TOEICというのは「その人が英語で日常生活を営むのに支障があるかどうか」を測定している試験です。もっと簡単に言うと、やっぱり英語力そのものを測定している試験なんです。あくまで測定の仕方として、試験や採点の実施効率を重視してリーディングとリスニングのマークシート試験、という形態を取っているだけの話。

だから、英語を勉強しようという人間、いや、別にTOEICの点数をあげたいという目標でもいいですけど、そういう人間がやらなきゃいけないのは、TOEICの試験形式に沿ったリーディングやリスニングの問題を追いかけて解く、というような勉強ではなくて、英語力全般を上げる勉強・訓練です。そういうことをやった結果、TOEICのような問題形式にも対応できる力がついてしまう、というのが正しいあり方です。

なので、「みんなTOEICの点数を最速コースで上げることだけを考えて、TOEICのリーディング・リスニング対策ばかりやってる。そんなことばかりしているからスピーキングがいつまで経ってもできないんだ。そういう勉強はやめろ」、という主張をされる方がいたら、それは正しいです。私が上で半分当たっているといった、当たっている方の半分です。

しかし、そういう主張が往々にして、TOEICの問題集を教材として使うことや、TOEICという試験を受けること・目標にすること自体が悪い、という方向に行きがちなんですね。私は間違っていると思う方の半分が、これです。

TOEICの問題集を教材として使ったり勉強の成果をTOEICの点数で測定するということと、先に書いた、試験対策の最速コースとしてリーディングとリスニングの練習だけをやる、TOEICの問題を解く練習だけをやることとは、全然違います。使う教材がTOEICの問題集であろうが何であろうが、それを使って話したり書いたりすることも意識した練習をしないといけないのは当然です。「英語そのものを見て,自分の力でその英語をひねり出せるようになることまで考えて暗記しろ」と私がいつも言っていることですね。

で、そういう練習が一番やり易いのが、実はTOEICの問題集だったりするのです。これも前に言いました。平均的な日本人にとって易しすぎず、難しすぎず、実戦的で取っ付き易い。こんなに優れた素材は他にはありません。もちろん、実力のある人には少々レベルが低いシロモノかもしれませんが、多くの日本人にとって、あのレベルの英語を自分自身でも自由自在に操れる(アウトプットできる)ようになったら、スピーキングやライティングの能力も大きく向上するはずです。スピーキングの練習をするためには話さないといけないと思っている方が多いようですけど、話す機会がないときでも目の前の英語を話す自分を想定して頭に叩き込むという貪欲な姿勢がないと、スピーキングの能力なんて身に付くものではありません。もちろん話す機会がある時はとことんその機会を利用し、かつ、一人で勉強している時も話すことを想定した徹底的な完全暗記をする、要はそういう心構えがあるかないか、なのです。それくらいの気迫の無い人が、いくら英会話学校で”実戦的な練習”をした所で、モドキに終わってしまうと思います。

TOEICの試験対策ばかりやっていてもダメだという、上記の最初の方の主張はよく分かっている人が多いのですけど、私が後に述べた方のことを分かっていないと、教材にTOEICを使おうが何を使おうが、結局は同じ”間違った勉強”に走ってしまうのがオチではないでしょうか。大切なのは学びの教材や場に何を使うかではなくて、目の前の英語をどのように消化していくかという姿勢・考え方・意欲なのです。

目の前の英語を隅々まで全て完全に吸収する、という貪欲な姿勢で取り組んでいる人は、教材や目標とする試験が何であろうと上達するのです。逆に人から教わることしか考えていないような人は、何をやってもダメです。TOEICだからダメ、TOEICだから話せない、ではありません。

面白さの発見

2015年09月09日 21時17分00秒 | 英語
将棋の面白さに目覚めつつあるという話をしています。子供の頃、というか今までは全く興味がありませんでした。いや、興味が無いどころか、この手の「頭脳ゲーム」的なものはずっと毛嫌いしていました。トランプゲームも麻雀も、もちろん囲碁も一切できません。自分はどちらかというと「暗記型」の人間で、こういう頭を使うタイプの遊びには適性が無いと思っていました。

ただ、学問としての数学は好きなので、考えること自体が嫌いというわけでもなさそうです。ではどうして上記のような「卓上ゲーム」的な物に今まで馴染めなかったのか?最大の理由は「親が一切やらなかったから」だと思います。始めるきっかけが無かったんですね。だから、当然”得意”にはなれないし、得意でないから、思春期以降、親以外の人間と付き合うようになっても(兄弟はいません)そういう遊びにハマることがなかったのです。

でも、今回、ブログに”将棋は苦手だ”というような事を書いて、それをキッカケに、逆に将棋という物を”やってみたいな”と少し思うようになり、気がつくと暇さえあれば詰め将棋の問題を考えたり、将棋界の事を色々と調べたりしている最近の自分が居ます。そして、今の自分の様子を鑑みると、今回抱いた好奇心は”本物かもしれない”という予感がします。誰に”やれ”と言われたわけでもなく、”何のために”やらなければいけないという目的もない。しかし、まるで何かに取り付かれたかのように夢中になってやっているのです(単に遊んでいるだけですが)。ついこの間、”自分にとってもっとも苦手なもの”とこのブログに書いたあれは、一体なんだったのでしょうか?

まあ、やってみると案外面白かったということです。そして思うに、今のこの感覚は20年前に英語に手を染め始めたときと全く同じなのです。面白くて面白くて、たまらない。もう、人から”やめろ”と言われてもやめられないだろうな、そんな風に感じるところが同じなのです。

こういう営みを”非生産的”と言ってしまえばそれまででしょう。私の本職はコンピュータネットワークです。英語とか将棋なんて飯のタネにはなりません。まあ、英語は仕事でも少しは役にたちますが、将棋なんて何の関係もないですよね(尤も、ボナンザを作った人も本職は化け学で元々将棋とは何の関係もなかったようですが)。でも、”仕事の役にたつから”、”受験に役立つから”、”良い所に就職するのに役立つから”、そんなあさましい考え方で始めたものが、本当に続くでしょうか?夢中になってやれるでしょうか?

やっぱり”面白い”と感じるからやれるのです。で、そうやってぬめり込んでいるうちに自然と上級者になってしまうのです。そうやて続けてきたことがビジネスや立身出世に結びつくかどうかはあくまで結果論でしょう。最初から狙っても大したことにはならないと思います。

だから、もし、本当は英語は嫌いだけど就職や仕事でどうしても必要だ、という”邪悪な理由”で英語力を上げないといけないという不幸な方がいらしたら、数ある英語のジャンルの中の何か1つだけでいいから、面白いと思う所を見つけて、それを突破口にするのがいいと思います。単語を覚えるのは嫌いだけど英語で会話をするのは好きとか、普通にあるケースです(私は逆ですが)。英語が嫌いと言っても、英語の一から十まで何もかもが嫌いということは無いはずです。”つまらない”と思っているものの中にも面白いことの1つや2つは潜んでいるものです。それを見つけましょう。

将棋なんてよくよく考えれば皆んなが楽しんでいる遊びなんですから、面白くないわけないんですよね。頭脳ゲームとか何とか、堅苦しく考える必要なんてなかったんです。英語だってそうでしょう。皆んながツールとして普通に使っているものなんですから、あなたにだってできないハズはないんです。最初に出会ったときの向き・不向きの印象が正しいかどうかなんて、分かりませんよ。

何だかこの前の主張と少し違ってきましたが、本当に嫌いなもの・向いていないものというのは確かにあると思いますし、できることならそういう物は避けて通った方が無難だという主張は変わりません。嫌いな事をどうしてもやらないといけない時に、視点を変えてみましょうということです。




一手詰め

2015年09月06日 23時18分07秒 | 日記
不向きなモノには手を出さない方がいいと書きましたが、ちょっと頑張って将棋にトライしています。駒の動かし方と反則を何とか覚えました。

で、手始めに一手詰めの問題を解いています。「将棋幼稚園」なんてサイトがあって、そこの、さらに一番始めのとっかかりレベルの問題解いてます。これくらいなら今の私でも遊べます。でも、物凄く疲れますね。頭を使うし時間もかかる。これが三手とか五手になったら発狂しそうです。

こんなので飯を食っていく世界って、スゴすぎます。芸事の極みですね。プロ棋士になれるだけでも天才だと言われるのが分かる気がする。

できれば続けて、自分の頭がどの程度のモノなのか見定めてみたい。

向き不向き

2015年09月05日 21時53分58秒 | 英語
少し間が空きました。

前回、受験勉強を楽しがる子が必ずしも社会に出てから勤勉な人間になれるとは限らないという話をしました。要するに、人から与えられる勉強に慣れ過ぎてしまうと、結局は「受け身」の人間になるのがオチ、ということが言いたかったわけです。

しかし、例えば仕事とか、仕事に結びつく勉強とか、どうせやらなきゃならない事なら、楽しくやった方がいいに決まっています。いや、楽しくないととてもじゃないけど続けられないでしょう。半ば義務的な仕事や勉強を少しでも楽しいものにするためにどのような工夫をすればよいのか、そういう事を自分自身でしっかり考えられる人間になることが大事なのです。受け身人間はそういう時でも人からマニュアルを仕入れるという発想しかしません。「TOEICで900取るための参考書を教えて下さい」なんて質問をする輩は、その最たるものです。そんな質問をするアホウは私は相手にしません。「英語の何が面白いんですか?」こういう質問をしてくる人と、私は話がしたい。

先に言っておきますが、今日は疲れてますので深い話はしません。私自身が何を面白い、何を面白くないと思うかというマッタリとした話をします。なので、適当に流してください。

前にこのブログの中でチラッと書いたと思いますが、私は基本的に沢山の種類があるものを暗記して知識を片っ端から頭の中に叩き込んでいく営みを”楽しい”と感じる人間です。子供の頃は虫の名前をひたすら暗記するのが楽しかったですし、大人になってそれが英語の暗記に変わっただけです。どちらかというと断片的な知識を大量に仕入れていく営みに向いている人間なのでしょう。言語学習なんて、所詮そんなもんです。文法だの何だの偉そうに言ったところで、論理的整合性なんてほとんど関係ありません。単語とか熟語とか、定型表現をいかに沢山知っているか、結局はそれだけです。そして、それらを一旦覚えて身につけてしまえば、いざそれらを使う時にはほとんど頭を酷使しない(当たり前ですよね。万人のためのツールなんですから)。しかも、覚えるのに学ぶ順序の制約もない。好きなものを好きな順番で覚えていけばいい。この二つの特性が、私はたまらなくラクだと感じるんです。だから、英語学習は私にとって、特別な手段を講じなくてもラクに、楽しく続けていけるものです。

逆に、”学ぶ”という観点から私が苦痛だ、自分には向いていないと強烈に感じるものが、”将棋”です。将棋、全く覚えられません。駒の動かし方を覚えるだけでも苦痛で、いまだによく分かりません。たまーに真面目に勉強してみようと思ってトライするのですが、無理です。私は英語音痴の人を理解できませんが、将棋が得意な方からすると私のような将棋音痴は理解できない人種かもしれません。

駒の動かし方だけならまだしも、同じ列に歩を二つ置いちゃいけないとか(二歩って言うんですかね?)、どこそこのエリアに入ると裏表がひっくりかえるとか、駒の取り合いをしてお互いに何の駒を持ってるかとか、色々なことを同時に考えないといけませんし、ルールも複雑すぎる。私にはとてもこなせません。決してパズル系全般が苦手という訳じゃないんです。数学的な論理系も特に苦手という訳でもない。でも、将棋だけはダメ。頭が付いていかないです。きっと頭の作りが”同時思考”に向いていないのだと思います。

将棋といえば羽生。私と同世代の人ですけど、羽生さんの何がどれだけ凄いのかを理解したくても、棋譜を追いかけることができないから、実感としてあの人の凄さを味わうことができない。将棋が理解できたらもっとあの人の凄さが分かるんだろうなーといつも思うのですが、無理ですねぇ。

このように、人それぞれ、向いているもの、向いていないものはあります。体育系じゃない文化系の営みの中だけでも、得手・不得手があります。だから、優秀な人でも”英語だけはどうしてもダメ”という方も当然おられるでしょう。そういう人に英語の楽しさを理解しろと言っても多分無理なのでしょうね。私がいまさら将棋の世界を理解しようと思っても多分無理なのと同じように。関わらない方がよい分野というのは、誰にでもあるのです。私にとって将棋はこの世で最も”難しい”と感じるものです。同じように英語を”この世で最も難しい物”と感じる人への最適な処方箋とは何なのか、これは今の私にも分かりませんね。